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ラジエルの書第五十六巻―アレスセウス―  4

  アレスセウスはギルベルトの墓の前にいた。手に持っていた花をそっと墓の傍に供える。
「来るのが遅くなっちゃってごめんね……。この花、遊びに行こうって約束していた森で摘んで来たんだよ」
 雪遊びをしようと約束をしていた冬は、失意のまま過ぎ去っていた。アレスセウスがここへ来る決心がつく頃には、もう季節は春になっていた。
 しかし、ギルベルトの墓を見ても彼の死を受け入れることはできなかった。
 今でもこの村のどこかで会えるような気がしていたし、そのうち家に遊びに来るのではないかと思っていた。
 アレスセウスの心はギルベルトの死を認めてはいなかったのだ。
「アレスセウスー。帰るぞー」
 買い物を終えたアレスが呼んでいる。
「また来るね」
 そう言い残し、アレスセウスは墓地を後にする。アレスと一緒に村に来る度にそうしていた。
 ギルベルトが死んでから、毎日考える事がある。
 どうしたら、彼を救えたのだろう。
 アレスに尋ねたが、彼は首を横に振った。
「医者が治せないと言ったんだ。オレたちも、ギルベルトの親も、みんなどうにもできなかったさ……」
 この時初めて、アレスセウスは医者という存在を知った。アレスに拾われてから今まで医者にかかったことは一度もなかったから、村にいる医者にも会ったことがなかった。
「どうしてお医者さんはギルベルトの病気を治せなかったの?」
 アレスセウスの問いに、アレスは困った顔をしながらも答えた。
「……治し方が分からなかったのさ」
 これほど納得のいかない答えがあるだろうか。
 もどかしくなったアレスセウスは、思い切ってアレスに向かってこう叫んだ。
「じゃあ、僕、お医者になる!」
「は?」
 アレスは驚き、それ以上の言葉が出てこなかった。目を丸くしたまま固まっている。
「ねえお父ちゃん! お医者になるにはどうすればいいの?」
 アレスの袖を掴んで引っ張るアレスセウス。アレスは教えてやらないわけにもいかず、渋々口を開いた。
「そりゃお前、医者になりたきゃ学校へ行って勉強をするしかねえよ。村の学校を終わって、それから街の大きな学校へ行くんだ」
 学校と聞き、今度はアレスセウスが言葉を失う。また村の学校へ行くのは気が進まない。ギルベルトがいてくれたら話は違ったが、今となってはどうしようもない。
 アレスセウスはしばらく考えた。
 学校は苦手だ。しかし、学校へ行きたくないという理由だけで医者になる夢を諦めることは当然できない。そんな生半可な決意ではない。
「僕、行くよ……学校に」
 そう言ったアレスセウスの表情はとても不安でいっぱいだった。アレスはアレスセウスの決断を褒め、学校へ行って来いと言いたかったが、今までのことを考えるとそれが最善ではないような気がした。アレスセウスが変わろうとしても、村の閉鎖的な空気が変わることはない。
「本当に……本気でお前は医者になりたいんだな?」
 アレスセウスが力強く頷く。
「分かった。オレがどうにかしよう。ただし、途中で投げ出すのだけはなしだぜ?」
 喜ぶアレスセウスを家に残し、真夜中にアレスは神殿へ向かう。
 祭壇の奥。人間たちは誰も知らない秘密の扉の先にそれはあった。人間の魔法使いは誰も描くことのできない魔法陣。
 アレスはその魔法陣の真ん中に立つと、ふと笑みをこぼした。
「アイツに会いに行く日が来るとはなあ……」
 光と共にアレスの姿が消える。この不思議な魔法陣の繋がっている先は、神々の神殿だった。
 辿り着いた神殿は、アレスの神殿とは違い人間が頻繁に訪れているようで、壁は崩れていないしきれいだった。
 外にある祭壇の近くまで来ると、そこに立っていた人物がアレスに冷ややかな声を浴びせる。
「誰が来たのかと思ったら、お前か……」
「兄貴をお前呼ばわりはないんじゃねえの。久しぶりなんだから冷たくすんなよ」
 ふざけたような口調でそう言ったものの、アレスは自分が歓迎されていないのはよく分かっていた。
 目の前にいる美しい容姿と輝くような金色の髪を持った太陽神は、アレスの弟だったが、弟はアレスのことが嫌いだった。
「私はお前の顔も見たくない。帰ってくれ」
 この言葉も想定済みだ。だが、もちろん黙って帰ることはできない。アレスは弟の目を見据えたまま言った。
「頼みがあるんだ」
「赤い竜の子供のことか」
 弟――アポロンの一言が暗闇に響く。単刀直入にそう言われたアレスは黙って頷くしかない。未来を見る目を持っているアポロンにはお見通しらしい。
 アポロンには悲痛な面持ちでアレスに言った。
「なぜ、その子を拾った。助けてどうするつもりなんだ」
 そんなことを考えたこともなかったアレスは返す言葉がなかった。見返りは求めていない。あえて言うなら、自分とよく似ていたので一緒にいたいと思ったのかもしれない。
 アポロンは鼻で笑った。
「まさか、あの戦いを忘れたわけではないだろうな」
 アポロンの問いかけに、アレスは拳を握り締め俯く。
「忘れるものか……」
「それならなおさら、なぜその子を助けるのだ」
 アポロンは、なぜアレスがその子供を助けたのかを不思議に思っていた。アポロンが知っているアレスはそのような優しさを持った男ではなかったからだ。
 しかし、アレスは自分の気持ちを上手く言葉にすることができなかった。そして、苦し紛れにこう言った。
「お、お前だって青い竜の子供を助けたじゃないか!」
 アポロンは別段表情を変えなかった。
「私が助けたのではない。ここで泣いていたから、画家の男に拾わせたんだ」
「でも、その後何かと面倒見てやってたじゃねえか! 今のオレと何が違うってんだよ」
 するとアポロンはなぜか得意気な表情でこう言い返した。
「私はあの子に武器を持たせなかった。戦とは無縁の世界で生きて行けるよう、画家の男に出会わせたのだ。あの子は生涯画家として生き、宮廷には今も彼の絵が飾ってある」
 アレスはだんだん腹が立ってきて、頼みごとをしに来たことも忘れて喧嘩腰の口調になっていった。
「なんだと! オレがあいつに武器を持たせたのが悪いって言うのか! あいつはなあ、自分じゃどうにもなんねえ力を持て余して悩んでたんだよ。その力の捌け口に棒術を教えたくらい、なんだ。何が悪い!」
 むきになるアレスを見てアポロンは愉快そうに笑っていたが、アレスは気づかずに言葉を続ける。
「あいつは心優しいやつだ。武器を持たせても、戦いなんか好きになりゃしない……」
 そう言ったアレスだったが、笑みを消した顔で首を横に振った。
「好きか嫌いかの問題ではない。彼は戦う力を得たのだ。失った過去と記憶を取り戻した時、お前はその子に殺されるぞ」
 昔、竜族と神々の間で起こった大きな戦いの記憶。アレスセウスの一族である赤竜族は、戦から長い年月が経った今でもその記憶を忘れてはいない。アポロンの知る限り、彼らは復讐を願っているわけではないが、一族を壊滅状態にされた恨みは黒竜族よりも強かった。
 子供とはいえ、アレスセウスだってその戦いの話を両親や周りの大人から聞かされて育ったに違いなかった。
「……あいつがオレを壊してくれるなら、本望だ」
 俯きながら、アレスはぽつりとそう言った。
「そうか……。そうだろうな。私もあの子を助けた時、同じことを思ったよ」
 二人は長い間兄弟だったが、考えが一致したのはこれが始めてかもしれなかった。
 同じ父を持てどもアレスとは相容れなかったアポロンだったが、今日だけは、この思いだけは共有できるのではないか。
 そして、思い切ってアレスにあることを尋ねた。
「あの戦いは間違いだったと……そうは思わないか」
「思う」
 アレスは即答した。それは、戦いが終わった直後からアレスが誰にも言えずにずっと考えていたことだった。
「オレはあの戦いでたくさんの竜族を殺した。父上の命令だったから、なんの疑問も持たずに殺したんだ。あの時は、なぜ戦うのかなんて面倒なこと考えたこともなかったよ。剣を振るえ、血の流れる場所ならどこへでも行きたかった」
 戦いの結果、勝利したのは神々であった。負け戦をすることが多かったアレスにとって、勝利は当然喜ばしいことのように思えたが、戦の後アレスの心に残ったのはなぜか虚しさだった。
 この思いは一体どこからやってきたものなのだろう。アレスは長い間一人で考え続けてきた。そして、ようやく今になって気がついたのだ。
「オレたちは、殺しちゃいけねえやつらを殺しちまったのかって……。アレスセウスに出会ってから、そう思ったよ」
 アレスとアポロンの父であるゼウスは、竜族を人間と神々に害をなす者たちだとし、彼らを滅ぼすために戦をした。竜族と神々の歴史を垣間見ればその考えを全否定するのは難しいかもしれない。戦は起こるべくして起こったのかもしれない。それでも、アレスはあの戦いは間違っていたと強く思うのだ。
「私もお前の考えにおおむね賛同する。父上の気持ちも分からなくはないが、私たちは行き過ぎたことをした。そして、もはや取り返しはつかない。そのせめてもの償いの結果がこれなのだな……」
「あの戦いは間違っていた。だけど、今のオレたちがしたことは間違っていない」
 アポロンは静かに頷くも、このことはとてもではないが大きな声では言えない。他の神々はゼウスの考えを全面的に支持している。戦が間違っていたなどと考えているのは自分たちだけだろう。
 アポロンはふっと息をつき、少しだけ微笑んだ。
「まさか、こんなことでお前と意見が合うとは思ってもみなかった。お前が相手だと、父上が絡んでくることもないから安心か」
 アポロンの言葉に、アレスはにたっと笑う。アレスは素行が悪かったため、とっくの昔にゼウスから愛想を尽かされ神々の世界からは追放されていた。だからアレスがどこで何をしていようが、ゼウスは無関心なのだ。
「お前はよく父上の目を盗んで青い竜を助けたな」
「私だって、父上に逆らいたくなることくらいあるさ」
 立ち話に疲れ、アポロンは祭壇の上に腰掛けた。誰もいない日の夜は、いつもこうして得意の竪琴を奏でていたのだ。
 だが、竪琴を取り出す前にもう一つ大切なことをアレスに尋ねる。
「それで。私に頼みがあるのではなかったのか」
 どんな頼み事なのかはなんとなく予想がついたが、一応聞いてみる。
 アレスは待ってましたと言わんばかりに口を開いた。
「そう、そうだよ。こっちが一番大事な話さ。実は、アレスセウスが医者になりたいって言うんだ。だから街の学校へやりてえんだが……」
「なぜ村の学校へ行かないんだ?」
 当然聞かれる問いに、アレスは気まずそうに答える。
「いやあ、それが……。あいつ、村の雰囲気になかなか馴染めなくて……。前は村の学校へ行ってたんだが訳あって通えなくなったもんだからよ」
 アポロンは腕組みをし、目を閉じたままこう呟いた。
「暴力事件……なるほど。お前の息子がしでかしそうなことだ」
 過去を見ることができる目を持っているアポロンには、いちいち説明しなくても事情はお見通しだ。
「ちがっ……。オレなんかと一緒にすんな! あいつは好きで暴力振るったんじゃねえよ!」
 怒ったようにそう言うも、アポロンが言ったお前の息子という言葉に嬉しさを隠せない。声は怒っていても、顔は笑っていた。
「事情は分かった。お前の頼みは、息子を街の学校へ行かせるための金が欲しいといったところか」
「そうだ。初等教育のうちは金は一切かからないが、高等教育となれば話は別だ。学校に入学するための金とか、授業料とかとにかくいろいろ金がかかる。だからまとまった金を貸してくれないかと……」
 事情は分かるが、アポロンはアレスに対して冷ややかにこう言い放った。
「金を貸すのは断る」
「なんっでだよ!」
 アレスはなるべく口調を荒げないよう、穏やかな口調で言った。
「オレの神殿はさあ、ボロでみすぼらしいから人間は誰も来やしねえ。でも、お前んとこは毎日たくさん人間が来るからそれなりにもらってんだろ? 金」
 アレスの神殿に人が来ないのは建物のせいではないのだが、本当のことを自分で口にするのが嫌だったのでアレスはこのように言った。
 だが、こんな様子のアレスにアポロンは呆れてため息をついた。
「金はあるさ。だけど、貸すのは断る」
「そこを、なんとか!」
「だめだ。金は貸せない」
 何度頼んでもアポロンが頑なに拒否するので、アレスはとうとう地に膝をついた。地につけたのは膝だけではない。手のひらと額を地面にこすりつけ、アレスは言った。
「頼む! どうしても、あいつのために必要なんだ。借りた分は必ず返す」
 アレスは顔を上げることなく続ける。
「自分に信用がないのはよく分かってるけど、どうか今回だけは信じてくれ。やっと見つけた家族なんだ。あいつのために、こんなオレだけど……一生懸命何かをしてやりたいんだ」
 アレスは必死に懇願した。すると、アポロンは祭壇から降り、立て膝をついてアレスの肩に手を置いた。
「そんな格好……よしてくれ。お前にそんなことをさせたくて断ったんじゃない。それに、何度も言っているだろう。金を貸すのは断ると」
 アレスは顔を上げ、ぽかんとした表情でアポロンを見る。月明かりに照らされた金色の髪がとても眩しく感じた。とても同じ神だとは思えない。
「金は貸せない。だけど、お前の息子を学校に入れてやることはできる」
「どうやって?」
「グロムナートの医学学校へ行け。試験の成績が優秀であれば金がかからず入学できる。お前は私に金を借りる必要がなくなる」
 それはいい! と、言いたいところだがアレスは再び地面に手をつき項垂れた。
「あいつが……アレスセウスが成績優秀だと思うか?」
 村の学校で学習した基礎的な勉強もあまりできがよくなかったのに、医学学校に入るために試験でアレスセウスが優秀な成績を修めることなんて夢のまた夢だ。
 しかし、アポロンは現段階でのアレスセウスの勉強のできはあまり気にしていないようであった。
「お前の息子は学校が不向きだっただけで、勉強ができないと決め付けるのはまだ早い。学問でも芸術でも、習得するまでの時間には個人差がある。まだ時間はあるのだからゆっくり学べばいい。本当の勉強はここから始まるのだ」
 だが、そうは言っても学校へ行かないとなるとアレスセウスは一体誰に勉強を教えてもらえばよいのか。当然ながら、アレスには無理だ。
 すると、アポロンは自信満々に自分の胸に手を当ててこう言った。
「私が教えよう。お前の息子をグロムナートの医学学校に一番の成績で入れることを約束する」
「お……おお!」
 どんな優秀な学者の言葉よりも嬉しく信憑性が高いように思えるアポロンの言葉は、アレスに大きな期待をもたらした。
 アポロンが指導してくれるのなら、あのアレスセウスも勉強ができるようになるかもしれない。
「それにしても、お前はよほど息子のことが大切なのだな。昔のお前なら、私に頭を下げるなんて死んでもしなかっただろうに」
「自分の自尊心よりも優先するものができたってだけだよ、アポロン」
「変わったな、アレス」
 二人は初めて、お互いに顔を見合わせ心から笑った。こんな日が来るとは夢にも思わなかった。
 準備ができたら向かうと言うアポロンを残し、アレスは一人アレスセウスの待つ家へ帰った。
 もう真夜中だというのに、窓からはほんの少しの明かりが見えている。
「おーい。今帰ったぞ」
 アレスの声と扉が開く音がすると、アレスセウスは慌てて今眺めていた物をベッドの下に放り込んだ。明かりが灯っているとはいえ部屋の中は薄暗かったので、アレスはアレスセウスの不審な行動に気づかなかった。
「お、おかえりお父ちゃん!」
「なんだよ。待ってたのか? 先に寝ててもよかったんだぜ」
「う、うん。でも、眠れなくて……」
 アレスセウスは先ほどまで眺めていた物の存在がアレスにバレていないかどきどきしていたが、アレスは全く感づいた様子がないのでほっとして頭から布団をかぶった。
「お前に勉強を教えてくれる先生を見つけて来たぞ」
「え、先生?」
 アレスセウスが布団から顔を出す。その表情は少し不安気だった。アレスセウスにとって先生は怖い存在だった。
「準備ができたらここへ来るってよ。いつになるか分かんねえけど、ま、気長に待つこった」
 喋りながらアレスもベッドに寝転がる。体力を使ったわけではないのに、なんだかとても疲れていた。アレスセウスの返事を待っている間に、アレスはいびきをかいて寝てしまった。
 一体アレスがどんな先生を見つけてきたのかを想像しているうちに、アレスセウスは眠れなくなってしまった。
 怖い先生だったらどうしよう。ただでさえ勉強ができないのに、それを厳しく咎めるような先生なら上手くやっていく自身がない。
 隣で寝ているアレスをちらりと見て、アレスセウスは考えた。
 不安だけど、自分のことをよく分かってくれているアレスが選んだ先生なら、もしかして……。
 不安の方が少しだけ大きい期待を胸に、アレスセウスは先生が家にやって来るのを待った。
 そして、二日後。ついにその先生がやって来た。
 叩かれた扉を開けると、マントのフードで顔を隠したその人が立っていた。
「君がアレスセウス?」
 アレスセウスが頷くと、その人はゆっくりとフードを外し、輝くような満面の笑みでこう言った。
「こんにちは。私が君の先生だ」
 美しい容姿と黄金の髪。それは到底人間のものとは思えなかった。神々しい雰囲気を放つ先生に圧倒されていると、家の近くの畑に出ていたアレスがやって来た。
「よう。ずいぶん早かったな」
 アレスがそう言うと、先生はアレスセウスの頭に手を置きこう答えた。
「この子が楽しみに待っていると思ったから急いだよ」
 アレスよりも小さな手だったが、その手はとても優しくアレスセウスの頭を撫でてくれた。
 その時、いつものようにあの白い鳥が飛んで来てアレスセウスの肩に止まった。そしていつもより大きな声でぴぴぴっと鳴いた。
 それを見た先生がなぜか苦笑する。
「おや。先客がいたみたいだね」
 白い鳥は翼を羽ばたかせ、今度は先生の肩に止まった。
「キミも懲りないねえ。私は邪魔しないから、くれぐれもこの子と私の師弟関係のことは父上に黙っていておくれよ?」
 鳥は頷く代わりにぴっと短く鳴いた。
 アレスは鳥を見ると眉を曇らせ、その場を離れるように畑に向かったが、それに気づいた鳥はアレスの方へ飛んで行った。
「やれやれ。どうして彼女はああなんだろうね。まあ、君が気にすることじゃないか。さあ、中へ入らせてもらうよ」
 先生を家の中へ入れ椅子をすすめると、アレスセウスはお茶でも出さないといけないと思って台所の方を見た。
 しかし、この家にはそんな気の利いたものは一切ない。先生に出す茶菓子すらなかった。
「アレスセウス、ここへおいで」
 先生が自分の隣にあった椅子を引いたので、アレスセウスはお茶も茶菓子も諦めて先生の隣に座った。
「君のお父さんから聞いたんだけど、君はお医者になりたいの?」
「うん」
 不安気な目が先生を見上げている。先生はその不安を和らげるかのように優しく微笑んだ。
「それは、どうして? 私に教えてくれるかい」
 すぐには言い出せず、アレスセウスは先生から目を逸らした。視線を泳がせていると、台所のそばに置いてあったバスケットが目に入った。
 ギルベルトが持って来てくれたケーキ。
 アレスセウスは先生の目を真っ直ぐ見た。
「僕の友達が病気で……し……」
 アレスセウスは言葉を発するのをためらった。ギルベルトは死んでいないと、アレスセウスの心が叫ぶ。ここで死という言葉を発したら、心の中に留まっていたギルベルトまでもが死んでしまうような気がした。
「友達の病気を、治したくて……」
 死という言葉を避け、アレスセウスはようやくそう言った。
 先生がアレスセウスの頭を撫でる。
「君はまだお友達の死を受け入れられないんだね。無理もない。お別れを言う間もなく逝ってしまったのだから……」
 アレスセウスの目からぶわっと涙が溢れ出す。震える声でアレスセウスは言った。
「僕、お、お葬式にも行けなくて……。行ったら、行ったら泣いちゃうから……。たくさん泣いちゃうから……!」
 あの日から我慢していたぶんの涙を流すアレスセウスを、先生が優しく抱きしめた。
 死を受け入れるのが怖くて、ギルベルトの葬式すら行けなかったアレスセウスの心には後悔が残っていた。
 ギルベルトはきっと、アレスセウスが来てくれるのを待っていたかもしれなかったのに。
 ただただ泣き続けるアレスセウスを抱きながら、先生は言った。
「死と向き合うのは想像以上に辛く悲しいことだ。だけど、アレスセウス。よくお聞き。医者になるということは、毎日誰かの死に直面するということだ。君のように心優しい人間には酷なことかもしれない。だけど、それ以上に生きる喜びを感じることもできる。いいかい」
 アレスセウスは涙を拭ってもう一度先生の顔を見上げた。
「医者として生きていくには、今以上に悲しく辛いことがあるかもしれない。君はそれでも医者になりたいかい」
「なりたい! 僕、お医者になって、ギルベルトのように病気になってしまった人たちを助けたい」
 先生はアレスセウスの肩に手を置き、何度も頷いた。
「君の気持ちは分かった。君のその志を信じて、私は君に医者になるための学校に入る手助けをしよう。だけど、そう。これも、よくお聞き。勉強はすぐにはできるようにならない。ゆっくり焦らず気長に続けることだ。学校にいた時のように焦らなくていいんだよ」
 焦らずゆっくりやればいい。その言葉がアレスセウスにとってどれだけ嬉しいものだったか。
 今まで抱えていた不安が一気に吹き飛んだようだった。
 アレスセウスがほっとした表情をしていると、先生は持ってきた鞄の中からたくさんの本を取り出した。
 数学の本だけではなく、動物について書いてある本や物語まであった。
「勉強は数学だけじゃない。興味の沸いたものからでいいから読みなさい。きっと役に立つ」
 先生がくれた本に、アレスセウスの目がきらきらと輝いた。学校では教えてくれなかったものがここにはある。
 今日は好きな本を読んでいいと言われたので、アレスセウスは今まで見たことのない物語の本を手に取った。それはグロムナート王国に伝わるおとぎ話の本だった。
 アレスセウスが本を読む邪魔にならないようにと、アポロン先生は家を出た。
 畑仕事をしているアレスの元へ行き、家の方を振り返る。
「お前がどうしてあの子のために一生懸命になるのか、なんとなく分かったよ」
 アレスは畑を耕しながら笑った。
「そうだろうとも。ちょっと抜けたところもあるけど、可愛いやつだ」
 アポロンは空を見上げながら、遠い昔のことを思い出す。あの時自分が殺してしまった竜族の中には、アレスセウスのような者がたくさんいたのだろうか。
「私は……」
 畑仕事をしているアレスの背中に、アポロンは独り言のように語り掛けた。
「私は青い竜を助けたが、本当は、自分の罪から逃れたかっただけだった」
 我が子だけはどうか助けて、普通の人間と同じ人生を歩ませて欲しい。
 戦の前にそう言って、神殿の近くにある湖畔の家に息子を置いていった両親の姿は今でも鮮明に覚えている。そして、その両親を葬り去ったのは誰でもない。アポロン自身だった。
「どんな顔をしてあの子に会えばいいのか、ずいぶん悩んだよ……。きっと、私が直接助けるよりも第三者に任せた方がいい。そう思って、まだ若かった画家の男に全て委ねてみることにしたんだ」
 その判断は間違っていなかったと思う。あの子の親は画家の男で、自分は神殿に祭られているただの神様。時々姿を見せるくらいがちょうどいい。
 両親をこの世から消した張本人が新しい親だなんてことになったら、優しいあの子は心閉ざすほど悩んでしまっていただろう。
「でもよお」
 アレスがアポロンの方を振り返る。
「いつまでも事実を隠しておくことはできないと思うぜ。お前が助けた青い竜の子孫が、今でもグロムナートにいるんだろ?」
 事実を隠しておけないのはアレスの方も一緒だったが、アレスはいつか必ずアレスセウスに真実を伝えるつもりだった。アポロンはどうするのだろう。
「今生きている青い竜は、グロムナート王国の騎士団で修業中だよ。彼は子孫の中で唯一剣を取った。その時が近いのかもしれない」
 彼は自分が何者なのかを知らないが、近いうちに全てを知る時が来る。アポロンの未来を見る目がそのことを知らせていた。
 神々は再び竜族とあいまみえる時が来る。
「どんな結果が待っていようと、アレスセウスを大切にする気持ちは変わらねえ。あいつが夢を叶えられるよう、頼んだぜ」
「分かっている。これが、私のせめてもの彼らへの罪滅ぼしだ……」
 外で先生とアレスが何を話しているのか。そんなことはいざ知らず、アレスセウスは本を読む。行ったことのない遠い国の物語や、数学以外の学問の本はアレスセウスの好奇心を掻き立てた。
 この本と先生がいれば、医者になるのも夢ではないかもしれない。
 知り得ることのできない過去にこだわるより、この先の未来を確かに歩いていくため、アレスセウスは目標に向かって一歩を踏み出したのだった。
つづく
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