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ラジエルの書第五十六巻―アレスセウス―  3

  アレスセウスは学校を辞めた。あの一件以来村へ行くのもはばかられ、毎日憂鬱な気持ちで家に閉じこもっていた。
 窓辺に座り外の景色を眺める。向こうではアレスが一人で畑を耕していた。
 眩しい太陽の光に照らされているのにため息ばかりついていると、どこからかあの白い鳥が飛んで来てアレスセウスの肩に止まった。
「鳥さん……。僕、悪いことしちゃった……」
 ぽつぽつとアレスセウスが言葉をこぼす。聞いているのかいないのか、鳥はアレスセウスの肩の上でさくさくと羽繕いをしている。
「友達とケンカをして、それで、殴っちゃった……。僕、怪我をさせるつもりじゃなくて……。そんなんじゃなかったんだけど、でも……」
 幸い、ギルベルトは怪我をしただけで済んだとアレスから聞いた。アレスセウスは安堵したが、だからといって自分がやったことが許されたわけではない。ギルベルトの両親は相変わらずご立腹だし、アレスは村に行った時にはずいぶん肩身の狭い思いをしているだろう。
 貧しくて、勉強ができないどころかこんな暴力事件まで起こしてしまうなんて……。
「僕、ヘンなのかな……」
 遠くを見つめながらとても小さな声でそう言った。
「あなたがヘンだったら、この世の中の人間の大半はヘンな奴だわよ」
「そう……なの? でも、みんなは勉強できるしケーキも食べたことがあるし、それに友達を殴るなんてひどいことしないよ……。って……え?」
 アレスセウスは驚いて肩にいる鳥の方を見た。鳥は小さな目とくちばしを半開きにし、ものすごい速さで頭を掻いていた。それが済むと、今度は全身を覆う羽をぷくーっと膨らませてぶるっと体を震わせた。
 鳥が返事をしたように思えたのだが、気のせいだったのだろうか。それから何度も鳥に話しかけてみたが、何も返してはくれなかった。思い悩みすぎて幻聴が聞こえたらしい。
 家の中でぼうっとして過ごす日々が続いたが、ある日アレスはアレスセウスを鍛冶場へ連れて来た。そこでアレスは手作りしたらしい兜と剣をアレスセウスの体に身に着けてこう言った。
「よし、よし。ぴったりじゃねえか。さすがオレ!」
「お、お父ちゃん、これ何?」
 アレスセウスが問うと、アレスは自分も鍛冶場に放り投げてあった剣を手に取りながら答える。
「何って、どう見ても剣以外の何ものでもないだろ」
 アレスセウスは剣を持たされたまま庭に連れて行かれた。兜も剣も重くはなかったが、これから何が始まるのか不安でならない。
「剣は重くないか?」
「うん」
「よっし、じゃあこうやって構えろ」
 アレスセウスはアレスの真似をして剣を構える。すると、いきなりアレスがアレスセウス目がけて剣を振り下ろしてきたではないか。
「ぎょえー!」
 驚いて変な声を出しながら、アレスセウスは咄嗟に構えた剣でアレスの一撃を受け止めた。
 さすがのアレスも本気ではなかったのか、その衝撃は大して強いものではなかった。しかし、アレスセウスは腰が引けていたので地面に尻もちをついてしまった。
「わっはっは! いくら馬鹿力でも、さすがに急に剣で戦えっつーのは無理だったか」
「ひどいよお父ちゃん!」
 立ち上がりながら、アレスセウスは地面に落ちた剣を拾う。
 するとアレスは再び剣を構え、アレスセウスに向かって来た。先ほどと同じように剣を振り下ろす。
「ちょっとおおお!」
 上ずった声を出しながらも、今度はアレスセウスもしっかりと振り下ろされた剣を受け止めた。
 アレスは嬉しさを隠せずにやりと笑う。
「いいぞ、アレスセウス! さあ本気で来い!」
 本気で来いと言われたので、アレスセウスは全力でアレスに斬りかかった。だが、アレスは笑いながらそれを軽々と避ける。
 剣の使い方なんて知らないから、ただ振り回すことしかできない。何度やってもアレスセウスの攻撃は当たらなかった。
「もう終わりか? それならまたオレが攻撃するぞ」
 そう言うと、アレスはアレスセウスの目線ぎりぎりのところに剣を突き出した。
 言葉にならない叫び声を上げ、アレスセウスは背中から地面に倒れた。兜は脱げ、額を汗が流れ落ちる。目の前の空が清々しいほど青かった。
「僕、何やってるんだろう……」
 なんだか急に、ずっと家に閉じこもっていたのが馬鹿みたいに思えてきた。
「いやあ、やっぱお前、力だけは誰にも負けねえな」
 仰向けで地面に転がっているアレスセウスの隣にアレスがどっかりと腰を下ろした。
 アレスセウスは体を起こし、不満げな表情をアレスに向ける。
「なんで急に剣なんか……」
 文句を言うようにそう言うと、アレスは笑みを浮かべたまま答えた。
「まあ、そう怒るなって。お前はまだ自分の力を制御できない。それは、自分の力がどのくらい強いのか分からねえからだ。力の使い方を知れば自然と制御できるようになるんじゃねえのかなと思ってさ」
「お父ちゃん……」
 強すぎる力は封印するより上手く活用してやる方が良いのだとアレスは考えていた。他人に隠すだけならまだしも、自分の心にまで力の存在を隠し否定して生きていけば、あの一件以上の事が起こってしまうかもしれなかった。
「どんな力であれ、持っているのは悪いことじゃないんだ。ただ、それをどんなふうに使うかが問題だ。まずは自分で自分を制御できるようにならねえとな」
 アレスの話を真剣な眼差しで聞くアレスセウス。
 アレスは、かなりまともなことを言っている自分が何だかおかしく思えた。強すぎる力を制御できていないのは自分の方だったからだ。
 アレスセウスを正しい道に導いてやれば、自分の罪は少し軽くなるのだろうか。
「お父ちゃん」
 先ほどまでの不満気な表情とは正反対に、アレスセウスは少しだけ笑った。
「おとうちゃん、ありがとう」
「あー、いいんだよ、礼なんて」
 照れくさくて、頭を掻く。
「明日もやるからな!」
「えーっ! またやるの?」
 そうは言ったものの、アレスセウスは剣の稽古も悪くはないと思った。体を動かしていれば、余計なことを考えずに済んだ。
 稽古二日目。前日と同じようにアレスにぼこぼこにやられたアレスセウスは、べそをかきながら家に飛び込んだ。
 稽古が嫌になって逃げだしたのではない。アレスセウスは武器の名前が書いてある本を取り出すと、目に涙を浮かべたままぱらぱらとページをめくる。
「僕にむいてる武器、僕にむいてる武器……」
 まだたったの二回しか剣の稽古をしていないのに、もうアレスセウスは自分の剣の才能に見切りをつけていた。剣は射程が短くて、自分が相手に攻撃をするためにはかなり接近しなくてはいけない。アレスセウスはそれが非常に怖かった。
「むいてなくてもいい、何かもっと長い武器……それか、遠くから攻撃できるやつ……」
 本を見ただけでは自分が上手く扱えるかなんて分かるはずがないので、剣よりももっと射程が長い武器を探した。
 一番最初に見つけたのはもちろん「槍」だ。しかし、アレスセウスは直感的にあまり気に入らなかった。
 さらにページをめくっていると、アレスが怒りながら家の中へ入って来た。
「おいこら! 何やってんだよ」
「お父ちゃん、これ!」
 アレスセウスはようやく見つけた遠くから攻撃するのに最適な武器のページをアレスに見せた。
 そこに描かれていたのは弓だった。
「僕、これがいい。お父ちゃんこれ作れる?」
 アレスはアレスセウスから本を受け取り、しばらく考えてから唸った。
「う……うーん……。正直に言うと、弓はオレの得意分野じゃねえ。でも、まあ、お前がやってみたいって言うんなら」
 作るのも使うのも、やってできないことはない。アレスはアレスセウスのために木で弓を作ってやった。矢を射るための的も手作りした。
「いいか、アレスセウス。弓はこうやって構える」
 アレスは弓を引き、的目がけて矢を放った。鋭い音を立てて飛んだ矢は見事に的の真ん中に命中する。
 それを見たアレスセウスは感激し、自分にも早く弓を貸して欲しいとアレスにせがんだ。
「力任せじゃダメだからな。ほら」
 弓を手渡されたアレスセウスは、先ほどのアレスの構えを見様見真似でやってみた。当然ながら全くなっていなかったのでアレスが口を出す。
「違う違う! もうちょっと肘を……」
 その時だった。ぐしゃりと音を立て、アレスセウスが持っていた弓が真っ二つに壊れた。
 一瞬何が起こったのか分からず、二人は無言のまま固まった。弓を見てみると、弦もぷっつりと切れていた。力んだアレスセウスの力で壊れてしまったのだ。
 泣きじゃくるアレスセウスをなだめながら、アレスは考える。力を一点に集中させるのではなく、上手く分散することで使える武器はないかと。
 考えに考え思いついた武器を、アレスセウスが寝てしまってからアレスは鍛冶場で作った。木で作ったのではアレスセウスが簡単に壊してしまうので、アレスはそれを鉄で作った。
 こうしてアレスセウスに手渡されたのは鉄棍だった。一見ただの棒に見えるがれっきとした武器で、扱いも相当難しいものだ。
「お前の望み通り、長い武器を作ったぞ」
 そう言って持たされた棍だったが、アレスセウスは不安そうな顔をしていた。
「長い……けど、これも相手に近づかないと当たらない武器だよ」
「戦いじゃどんな武器を使ってても接近戦は免れんよ。諦めてそいつを練習しな」
 アレスは自分も棍を持ち、アレスセウスのために毎日稽古をつけてくれた。
 棍は長いせいもあって、力任せで相手に殴り掛かるのが剣よりも困難だった。扱いは難しかったが、力の使いどころが制限されるため棍をうっかり壊してしまうこともなかったし、アレスセウスは剣よりも楽しんで練習できている気がした。
 何より安心だったのは、うっかりアレスの攻撃を受けてしまっても流血の心配がないことだった。
「お父ちゃん、僕これなら上手くなれるかも」
 アレスセウスが棒術の楽しさに気づき始めた頃、またもや悲劇は起きた。
 アレスの渾身の一撃を華麗に受け止めた時、アレスセウスの手に握られていた棍が弓と同じように真っ二つになってしまった。
 またやってしまった。
 そう思ってアレスを見ると、なんとアレスが使っていた棍も同じように壊れていた。
「ちっ。つい本気を出しちまった」
 そう言って舌打ちをし、アレスは持っていた棍を地面に投げ捨てた。アレスセウスに力を制御しろなんて偉そうなことを言ったが、やはり自分もまだそれができていないようだ。
 申し訳なさそうに折れた棍を持ったまま立ち尽くすアレスセウスに、アレスは言った。
「捨てちまえ、そんなもん」
「え、でも……」
「いいから」
 アレスセウスの手から、アレスが折れた棍を奪い取る。
「お前は上手くなったよ。力もちゃんと使いこなせてる。だけど、やっぱりこれじゃダメだ」
 アレスとアレスセウスの力が人並み外れていることも原因だが、所詮武器職人でもない自分が作った物。壊れてしまうかもしれないとは思っていた。
「もっといいものじゃねえと……」
 アレスは何かを決心したように、アレスセウスの肩を叩いた。
「よし、待ってな。絶対に壊れない棍を持って来てやる」
 そう言うと、アレスはなぜか神殿の方へ向かって行く。アレスセウスがついて来て、アレスに言った。
「待って、お父ちゃん。僕も行く」
 アレスは振り返り、にっこりと微笑んでアレスセウスの頭を撫でた。
「家で待っていろ。すぐ戻る」
 駄々をこねても仕方がないので、アレスは素直に頷いた。神殿へ入っていくアレスが見えなくなると、言われた通りに家へ帰る。
 絶対に壊れない武器が神殿にあるのだろうか。
 家へ帰ったアレスセウスはしばらく外を見ながらアレスの帰りを待ったが、夕方になっても帰って来ない。
「お父ちゃん、何してるのかな」
 アレスの心配をしながら、アレスセウスはなぜか部屋の掃除を始めた。やることがない時は洗濯か掃除をするのがアレスセウスの癖だった。
 出しっぱなしの食器や服をあるべき場所に戻す。最近何度も開いていた武器の本もしまおうと思い、チェストの中を見てみる。
 せっかくアレスセウスがきれいに整頓したのに、またアレスが服を適当に突っ込むので以前よりも大参事になっていた。
「お父ちゃんったらもう、本当にしょうがないなあ」
 ぶつぶつ言いながら、アレスセウスは無造作に押し込められていた服を一枚ずつチェストから出して畳んでいく。帰って来たら、アレスセウスのきれいなチェストの中を見習ってもらわなければ。
 そんなことを思いながら次の服を掴もうとチェストの中に手を入れると、紙のような感触がアレスセウスの手に伝わって来た。
 また何かの本だろうか。
 特に何も考えずにそれを手に取ると、予想通り本だった。しかし、武器の本とは違いかなり薄い。
 表紙には、下着のような物のみを身に纏った金色の髪で胸の大きい女の人の絵が載っている。
 アレスセウスは無言で表紙をめくった。
 表紙の女の人は下着のような物を身に着けていたが、本の中の女の人はまさに生まれたままの姿でそこに描かれている。あられもない姿勢をとっているが、肝心なところが髪の毛や手で隠れていて見えない。
 見えそうで見ないこのもどかしさ。見えるところから見えないところを想像するこの喜び。
 なんか……ものすごく、いい!
 どうせ裸なんだから全部見せて欲しい気もするが、見えそうで見えないこの感じがたまらなく、アレスセウスの心は躍った。
 何でこんな物がアレスのチェストの中にあったのか、そんなことはどうでもいい。アレスセウスはどうしてもこの本を手元に置いておきたかった。
 どこへ隠そう。
 アレスセウスは部屋中をうろうろし、この本を隠すのに適した場所を探す。本棚なんか絶対に駄目だし、自分のチェストは時々アレスも開けることがある。
 悩んだ末、アレスセウスはその本を自分のベッドの下に置いておくことにした。大きな家具を動かすことはなかなかないと思ったし、這いつくばってベッドの下を見るなんて滅多なことがない限りあり得ない。
 アレスセウスは隠す前にもう一度その本を一通り見てからベッドの下に置いた。アレスが一人で村へ行った時などに見ようと心に決めた。
 アレスが帰宅したのは翌日の朝だった。アレスセウスが出迎えると、アレスは嬉しそうな顔でアレスセウスに新しい棍を手渡した。
「お前のもんだ。今度はぜってえ壊れないからな」
 新しい棍はただの鉄の棒ではなかった。両先端に小さな宝石のような赤い石の装飾が施されていて、とても高価に見える。
「お父ちゃん、これ買ったの?」
 アレスが大金を使ってしまったのではないかと心配し、アレスセウスが尋ねる。
「細かいことは気にすんな。高価な物を買う金がないのはお前もよく知ってんだろ」
 アレスはそう言って大きな口を開けて笑う。ひもじい思いをしないぎりぎりのところで毎日生活をしていたので、この武器にはきっとお金を使っていないのだろうとアレスセウスは思った。
 そして、アレスの言う通り細かいことは気にせずアレスセウスはその棍をもらうことにした。
 当然ながらその棍に手を触れるのは初めてだったが、不思議なほどアレスセウスの手に馴染んだ。
「お父ちゃん、ありがとう! 今までより上手になれるように練習するね!」
 それからしばらくはまたアレスと一緒に特訓していたが、ひと月ほど経つとアレスセウスは一人で練習をするようになった。戦うことよりも、いかに美しく棍を操れるかということに重点を置きたいようだったのでアレスは黙ってアレスセウス一人で練習をさせることにした。
 自分の体の前で棍を回転させたいが上手くいかず、何度も棍を地面に落としているのをアレスは畑を耕しながら見ていた。しばらく作業に集中してからもう一度アレスセウスを見ると、棍はアレスセウスの思い通りに円を描いていた。
「武器の扱いや戦いに関する能力は半端じゃねえな。血は争えないとは、まさにこのことだな」
 そうは言っても、アレスセウスは人を傷つけるために棒術を練習しているのではない。いくらアレスセウスに能力があっても、戦場へ行かせるようなことはしたくなかった。
 アレスセウスは洗濯や畑仕事、そして棒術の練習をしながら毎日過ごした。机に向かって勉強することはなくなってしまったが、アレスと過ごす毎日はとても充実していたし楽しかった。
 時々例の本をベッドに下から引っ張り出して見ることもあるが、まだアレスにはばれていないようだ。
 気づけば学校へ行かなくなってから二月ほど経っていた。
 アレスセウスは日課の洗濯と掃除を終えると棒術の練習をしようと思い、棍を持って家を出た。すると、誰かが家の扉の前に立っていた。
「あっ……」
 思いがけない訪問者を目の前にし、アレスセウスは言葉を失う。相手の方も心の準備ができていなかったのか、困ったように視線を泳がせていた。
 もしもう一度会うことがあったら、アレスセウスは絶対に言おうと決めていた言葉があった。何度も何度もその言葉を頭の中で彼に言っていたのに、いざ対面すると言葉が出てこない。
 それでも、言わなければ。
 アレスセウスは思い切って口を開いた。
「ごめんなさい!」
 怖くて相手の目は見れなかったけれど、アレスセウスは心からそう言った。
 アレスセウスに謝罪されたことで困惑した彼は、たじろぎながらも持っていたバスケットを差し出しこう言った。
「もう、気にしてないし! それより、これ。やるよ」
「え、でも……」
 アレスセウスが遠慮する素振りを見せると、彼は半ば無理やりアレスセウスにバスケットを押し付けた。
「いいから!」
 アレスセウスがバスケットを受け取ると、彼は「じゃあ」と、言って村の方向へ走り去って行った。
 引き留めることもできずに立ち尽くしていると、鍛冶場からアレスが出て来た。
「おーい。誰か来たのか」
 アレスセウスはアレスにバスケットを渡した。
「ギルベルトが……」
「ギルベルト? なんであいつが?」
 疑問に思いながらも、家の中でバスケットを開けてみた。中に入っていたのはアレスセウスが見たこともない物だった。
「これは何?」
 食べ物らしき長方形の茶色い物体からは少しだけいい匂いが漂っている。
「こりゃお前、ケーキだよケーキ」
「これがケーキ?」
 アレスセウスは顔を近づけまじまじとケーキを見つめた。これを三つに分けたうちの一つが三分の一だったのかと今さら納得する。
 せっかくもらったんだから食べるとアレスが言い、ケーキをナイフで切り分けてくれた。切り分けたケーキはまるでパンのようだった。大きな口を開けて頬張ってみると、今まで味わったことのない甘さが口の中に広がった。
「でも、どうしてケーキをくれたんだろう……」
 アレスセウスが呟くと、アレスは笑った。
「さあな。また来たりして」
「まさか!」
 そのまさかが現実になった。
 次の日、アレスの家の近くでうろうろしていたギルベルトは畑を耕していたアレスに見つかった。
「アレスセウスなら家にいるぞ」
 声を掛けられるとギルベルトはびくっと肩を震わせ、何も言わずに家の方へ走って行き、しばらく迷ってから扉を叩いた。
「お父ちゃん?」
「よ、よう……」
 またギルベルトが訪問してきたことに驚き、アレスセウスは昨日とは違った意味で言葉を失った。せめてケーキのお礼を言わなければいけなかったが、そこまで頭が回らなかった。
 アレスセウスが黙っていると、ギルベルトは頭を掻きながら小さな声で言った。
「もっと早く来ようと思ってたんだけど……その……」
 ものすごく言いづらそうに言葉を濁す。
「オレも悪かったなって……。だから、また学校へ来いよ。もう、からかわないから」
 ギルベルトが何を伝えたかったのか、アレスセウスには分かっていた。はっきりとは言えなかったのだろうが、ギルベルトの気持ちは伝わってくる。
 アレスセウスは知らぬ間に頬を緩めていた。やっとあの時のことをお互いに謝ることができて心が軽くなったのだ。
「ありがとう、ギルベルト」
 アレスセウスの笑顔を見て、ギルベルトも少しだけ笑った。しかし、アレスセウスは学校へ行く件は断った。
「僕はもう学校へは行かない。みんなの迷惑になるから」
「そんな……。お前のことバカだって言ったの、気にしてるのか」
「ううん。でも、勉強、よく分からなかったし……。あのままいてもみんなの迷惑だから。それに」
 アレスセウスが言葉を続ける。
「ギルベルトが僕を許してくれても、他の人たちは僕を許さないと思うから」
 ギルベルトはそれ以上何も言えなかった。
いまだにアレスセウスを殺人者扱いしている両親、アレスセウスの苛烈な一面を怖がる子供たち。
そんな人間ばかりの村へ来いというのもひどい話かもしれない。ギルベルト自身も悪かったといくら言っても聞いてはくれないのだから。
「それなら、オレが勉強を教えるよ! その日学校で習ったことをさ、ここで教える」
「本当?」
 それはとても楽しそうだとアレスセウスは思った。
「じゃあ、じゃあ、明日来てくれる?」
「学校が終わったらすぐ来るよ!」
 失くしかけていた勉学への興味がアレスセウスのもとへ帰ってきた。学校へは行きたくなくても、ギルベルトが教えてくれるならまた勉強をしたいと強く思う。
 アレスセウスがギルベルトに勉強を教えてもらう約束をしたことを聞き、アレスも少し嬉しく思った。ギルベルトのことはしょうもないクソガキだと思っているが、あんなことがあったのに自分から謝りに来るくらいだから、根は優しい奴なんだろう。
 約束通り、ギルベルトは学校が終わると真っ直ぐアレスセウスの家へやって来た。鞄から教科書を取り出し、机の上に乗せる。
 しかし、それを見たアレスセウスは驚いて言った。
「これ、どうしたの?」
 教科書は基本的に学校の物で、子供たちが家へ持ち帰ることは禁じられていた。
「へへっ。こっそり持って来たんだ。先生もいちいち見てないから大丈夫だよ」
 ギルベルトが今日勉強した箇所を見せてくれた。一通り教科書を読むも、アレスセウスはよく理解できない。もうとっくにブンスウの勉強は終わっていて、今やっているのはショウスウテンというものらしい。
「0.2に十を掛ける時は、この点を右に一つずらすだけでいいだぜ。そしたら、答えは二だろ?」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、百を掛けたら?」
「そん時は点を二つずらす。答えは二十だ」
「へえ! でも、なんで点を動かすの?」
 アレスセウスの質問に、ギルベルトは言葉を詰まらせた。
「え……と、それは……」
 ぱらぱらと教科書をめくったが、ギルベルトはすぐに観念し苦笑いをしながらこう言った。
「それは、オレも分からない!」
 学校では、自分以外の人間が発したのを聞いたことがない「分からない」という言葉に、アレスセウスはなんだか胸が軽くなったような気がした。ギルベルトでも分からないことがあったのだ。
 ギルベルトは毎日のように勉強を教えてくれたが、アレスセウスが質問をするたびに二人の「分からない」ことは増えていった。でも、いくら分からなくったって誰も二人を叱る者はいない。分からないことは解決しなくても、「分からない」と気兼ねなく言えることがアレスセウスにとってはよいことであった。それに、「分からない」ことは次の日にギルベルトが先生にこっそり聞いてきてくれた。
 ある日、二人がいつものように家の中にいると、いつもは畑か鍛冶場にいるアレスが帰って来た。そして、真面目に勉強をしている二人に向かってこう言い放った。
「お前ら、勉強ばっかしてねえで外で遊べよ。クソガキはクソガキらしく外を走りまわってりゃいいんだよ」
 アレスは二人に釣竿と魚を入れる籠を持たせ、家から放り出した。
「お前の父さんって……」
 それ以上は言わなかったが、ギルベルトはアレスセウスが羨ましかった。アレスのことは今までロクデナシとしか思っていなかった。村の大人たちが口を揃えてそう言うので、アレスがどういう人間なのかよく知りもしないのに、ギルベルトもアレスがロクデナシなんだと思ってきた。
 しかし、アレスセウスと接するアレスを見ていたら、とても彼がロクデナシだとは思えなくなっていた。口は悪いしがさつだが、アレスセウスのことを大切にしている良い父親にしか見えないのだ。
「ギルベルト?」
 アレスセウスに呼ばれ、ギルベルトははっと我に返る。
 そうだ、せっかく釣りに来たんだ。
 いつか破ってしまったアレスセウスとの約束を今日守れたんだと、ギルベルトは反省しつつ嬉しく思った。
 釣りは初めてのアレスセウスに、ギルベルトはまず釣り針に餌をつけることを教えてやった。
「餌ってこれ?」
 アレスが釣竿と一緒に持たせた小さな木箱をアレスセウスが開ける。中にはまだ生きているミミズのような生き物がうじゃうじゃ入っていた。
「ひぃっ!」
 まさかこんな物が入っていると思わなかったアレスセウスは、思わず木箱を投げ捨てそうになった。それを見たギルベルトは腹を抱えて笑った。
「アレスセウスって本当に面白いよな。これをこうやって針につけるんだ」
 そう言ってギルベルトはミミズを針に刺したが、アレスセウスはそんなかわいそうなことはできない。
 アレスセウスがミミズに触れないのかと思ったギルベルトが、アレスセウスの釣り針にもミミズを刺してくれた。
 アレスセウスは動物を殺すことができなかった。蟻を踏みつぶしてしまったことはあるかもしれないが、自分の手で故意に殺すということはどうしてもできなかった。肉を食べることはあっても、狩りをして食べられる状態までしてくれていたのはアレスだった。
 肉を食べるくせに殺すのはかわいそうというのは矛盾した考えなのだと、この時アレスセウスはふと思った。
 釣り糸を垂らし魚がかかる間、アレスセウスはギルベルトに尋ねた。
「ギルベルトは、どうして勉強をするの?」
「ん? そうだなあ」
 すぐに答えが返ってくるかと思いきや、ギルベルトはしばらく考え込んでからようやく答える。
「母さんが、オレが街の大きな学校に入るのを期待してるからかな……」
「お母さんが? お母さんがそう言ったから勉強をするの?」
 意外な答えだった。学校へ行っている子供はみんな優秀で何より勉強が好きなのだと思っていたアレスセウスは少し驚いた。
「オレさ、本当は算数の勉強じゃなくてアレスセウスの父さんみたいに鍛冶とか、物を作る仕事がしたいんだ」
「お父ちゃんみたいな鍛冶屋にはなっちゃだめだけど、普通の鍛冶屋ならいいと思う!」
 実はアレスセウスも鍛冶には興味があったので、ギルベルトの気持ちはちょっとだけ理解できた。
 だが、ギルベルトはため息をついた。
「鍛冶屋になりたいって言ったらさ、母さんがだめだって。勉強をしていい学校に行けって。そうすれば楽な生活ができるからって」
 ギルベルトは悲痛な面持ちでアレスセウスに言った。
「楽な暮らしって、なんだろうな」
 アレスセウスは水面に視線を落とす。
 楽な暮らしとは、お金がある暮らしのことだろうか。確かにお金がないと困るが、アレスセウスは自分の貧乏暮しがそんなに苦しいものだとは感じていない。鍛冶屋は大変な仕事だけど、やりがいがある仕事だとも思う。
「大人の考えてることってさ、よく分かんないよな。お前のためって言われても、納得できないよ」
 その時、アレスセウスの釣竿に魚がかかった。
「きたー! アレスセウス、引け、引け!」
 先ほどまでしんみりと会話していたことも忘れ、二人は目の前の魚に夢中になった。アレスセウスが力いっぱい釣竿を引くと、水面からぽんっと茶色い魚が飛び出してきた。
 おいしくなさそう!
 水から引き上げられ地面でびちびち暴れる魚は土と同じような色をしている。食べないでくださいとでも言っているような見た目だが、ギルベルトはそんなことはないと言う。
「これ、すんげえ美味いやつだよ! アレスセウス、ちょっと待ってな。ちゃんと魚見張ってろよ!」
 アレスセウスと茶色い魚を残し、ギルベルトは少し遠くの方で何かを探している。
 見れば見るほどおいしくなさそうな魚だったが、アレスセウスは触ることもできずにただただ魚と見つめ合っていた。
 しばらくして戻って来たギルベルトの手には、その辺で拾った木の棒を削って尖らせた物が握られていた。
 ギルベルトは器用にその棒を魚の口に刺した。
 その様子を見ていたアレスセウスは自分の首に両手を当て、青くなった。
「こうやってさ、焚火の傍で焼くんだ」
 得意気にそう言ったものの、火をおこす道具が何もなかった。棒に刺した魚を持ったまま、二人はアレスの元へ帰る。
「なんだよ、一匹だけか」
 アレスは残念そうにそう言いながら、アレスセウスが釣った一匹の魚のために庭で火をおこしてくれた。焚火の傍で魚が焼けるのを二人で待った。
 他愛のない話をし、くだらないことでたくさん笑った。話に夢中になって魚のことを忘れていると、アレスが遠くの方から「もう食えるぞ!」と、叫んだ。
 アレスセウスはギルベルトと半分ずつ魚を食べた。ギルベルトの言った通り魚はとてもおいしかったが、二人でこうして楽しく話しながら食べることで何十倍もおいしく感じられた。
「今度はどこへ遊びに行こうか?」
 残りの魚を頬張りながら、ギルベルトが言う。
「森は?」
「いいね! でも、今はだめだな。森に行けばおいしい木の実とかがいっぱいあるけど、今はもうすぐ冬になる時期だし……。春になったら行ってみようぜ」
 冬になれば雪が降るから、その時は雪遊びをしようとギルベルトは言った。アレスセウスは雪を知らなかったので、それがどんなものかをギルベルトに尋ねた。
「雪は、白くて冷たくてふわふわで……。いっぱい雪が降れば雪だるまが作れるんだぜ」
 たくさんの雪を丸めて作る雪だるま。どんな姿なのかアレスセウスには想像がつかなかったが、とにかく雪が降る日が待ち遠しい。
 雪の季節はまだ少し先だったが、アレスセウスとギルベルトは毎日のように二人で遊んだ。また川へも行ったし、勉強に飽きた時には意味もなく庭を走り回った。
 一応仕事中のアレスは二人に、「うるせえ! 少しは黙ってろクソガキども」なんて悪態を吐いていたが、いつも一人だったアレスセウスが友達と楽しそうに遊ぶ姿を微笑ましく思っていた。
「また明日ね!」
「おう! いつもの時間に来るぜ」
 いつもの別れ。日が暮れる前にギルベルトは村まで走って行く。その後ろ姿を見送ったのが最後で、それっきりギルベルトはアレスセウスのもとへ来なくなってしまった。
「ねえ、ねえ、ギルベルトは? どうして来ないの?」
 鍛冶場にいたアレスに付きまとい、アレスセウスは何度も同じことを尋ねる。アレスは鎚を振るう手を止め、困ったように言う。
「さあなあ……。母ちゃんに家の手伝いでもさせられてんのかもな。ここ最近ずっと遊びまくってたからな」
 アレスセウスはしょんぼりして家へ戻る。ギルベルトが約束を破ったとは思っていない。だからこそ何があったのか心配になっていた。
 アレスの言う通り家の手伝いや何か仕事をしているのならいいが、それから一週間経ってもギルベルトは現れなかった。その間、アレスは特に緊急の用事がなかったので村へ行っていなかったが、アレスセウスにせがまれてギルベルトの様子を見るために村へ行った。
 次はいつ遊べるのか、きっとアレスが聞いて帰って来てくれるとアレスセウスは信じて待った。
 しかし、村から帰ったアレスはアレスセウスが期待していた答えは持っていなかった。余計な話は一切せず、無表情のままたった一言こう言った。
「村へ行こう」
 今すぐ?
 そう問う間もなく、アレスはアレスセウスの手を引いて再び村までの道を歩き出した。
 道中アレスが何も話さないので、アレスセウスは一体何があったのか尋ねることができなかった。
 村に入ったところで、ようやくアレスは口を開いた。
「ギルベルトは、病気だと」
「病気? 病気って何?」
「体の具合が悪くなることだよ」
 風邪一つ引いたことがないアレスセウスだったが、病気という言葉がとても怖く感じた。ギルベルトが心配になり、アレスはアレスセウスの手を引いた。
「お父ちゃん、行こう。僕、ギルベルトに会いたい」
 アレスは無言で頷き、ギルベルトの家へ向かう。
 あの事件の時は憤慨していたギルベルトの両親だったが、今日はアレスセウスの姿を見ても怒らなかった。息子がアレスセウスに会いたがっていると、部屋の中へ入れてくれた。
「ギルベルト!」
 部屋の隅に置かれたベッドに横たわるギルベルトにアレスセウスが駆け寄る。その姿を見たギルベルトは力なく微笑んだが、アレスセウスはぎょっとして立ち止まった。
 この前まであんなに元気だったのに、今目の前でベッドに横たわっているのはまるで別人のようだった。顔色が非常に悪く、起き上がることも困難らしかった。
 早く良くなってねなどとは気軽に言える状態ではない。
 言葉を失っているアレスセウスに、ギルベルトは言った。
「約束……ごめんな……」
 アレスセウスは何度も首を横に振った。
「いいんだよ、そんなこと。それより、ギルベルトが……」
「オレは大丈夫。こんなの、すぐ治してまたお前の家に遊びに行くよ」
 口では強がりを言っても、弱々しく微笑むのがやっとのようだった。その様子をアレスセウスの背後から見ていてアレスには、ギルベルトがもう助からないことが分かっていた。
 母親がアレスにだけ話したのだ。急に顔色が悪くなり、度々鼻から出血してはそれがなかなか止まらないのだと。体には紫色の痣がいくつもあり、何日経っても治らない。
 人間には治せぬ病だ。
 村の医者はとっくに匙を投げていた。
 ギルベルトはあまり長く話をする体力がなかったので、アレスセウスはギルベルトを励ましつつ、早々に部屋を出た。帰り際、恐る恐るギルベルトの母にお願いをした。
「あの……また来てもいいですか」
 ギルベルトの母親は目に涙を浮かべながら頷いた。
 必ず毎日ギルベルトに会いに行こう。
 そう、決めたのに。絶対にそうすると決めたのに、アレスセウスはもう二度とギルベルトには会えなかった。
 次の日、約束通りアレスセウスはギルベルトに会うためにアレスと共に村へ来た。
 しかし、村の様子はいつもと違っていた。ギルベルトの家の前にはたくさんの人が集まっており、泣いている母親と一緒に家から出て来たのは子供一人が入るくらいの大きさの木の箱だった。
 父親は母親に寄り添い、運ばれてきた木の箱と一緒に墓地へ向かう。
 アレスセウスは怖くなった。怖くて、その場から一歩も動けなかった。だから、アレスも無理に墓地へ行こうとは言わなかった。
 雪が降ったら雪遊びをしよう。
 笑顔でそう言っていたギルベルトの姿を思い出し、アレスセウスは泣いた。
 頬を伝う涙を吹き飛ばすように、木枯らしが吹いた。
 春には森へ行くと約束したのに。
 ギルベルトは死んでしまった。
 これから訪れるはずだった楽しいことへの期待は、大きな悲しみになってアレスセウスの心に残った。
つづく
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