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ラジエルの書第五十六巻―アレスセウス―  2

   早朝、洗濯籠を持ったアレスセウスが神殿の隣に立つ古びた家から出てくる。
 近くの木にとまって歌を歌っていた白い鳥たちは歌をやめて、アレスセウスに注目する。いつもならもう一人、この家の主も一緒に出て来るのだが、今日はなかなか家から出て来ない。
 そうこうしている間に、アレスセウスは水を汲むために井戸へ近づこうとしている。
 アレスセウスが一人で井戸の水を汲むことはアレスが厳しく禁止していた。誤ってアレスセウスが井戸に落ちてしまう危険があったからだ。
 鳥たちは慌てて木から飛び立ち、開いていた窓から家の中へ飛び込んだ。そして、けたたましい鳴き声を上げながら寝ていたアレスの顔の周りを飛び回る。
 いびきをかいて寝ていたアレスは顔の周りを飛ぶ鳥たちを手で払いながら起き上がる。
「うっせえ! 何なんだよ」
 鳥たちが窓から出ていくのを追いかけるように、アレスは窓から顔を出して外を見た。すると、アレスセウスが今にも井戸を覗き込もうとしている姿が目に飛び込んできた。
「アレスセウス!」
 そう叫ぶや否や、アレスは家から飛び出し井戸へと走る。
 アレスに気づいたアレスセウスは、井戸から離れて洗濯籠の隣に立っていた。
「お父ちゃん、お、おはよう」
 アレスは地に膝をつき、白々しく挨拶をするアレスセウスの肩を掴んで言った。
「一人で井戸に近づいたらダメだって言っただろ?」
 アレスセウスはなるべくアレスの目を見ないように視線を泳がせる。何か言いたいことがあるようだったが、言ったら絶対にアレスに怒られそうだったので言えない。
 素直に謝罪の言葉だけを述べようと思い口を開く。
「お父ちゃん、ごめん。でも……」
 つい余計なことまで喋ってしまう。
「お父ちゃんが起きないから、一人でやろうと思って……」
 すると、アレスは呆れた声で言った。
「そんなの、起こせばいいだけの話じゃねえか」
「う、うん。そうだね……」
 アレスの言っていることは正しいので一応頷いたが、それが非常に困難であることを本人だけが気づいていない。アレスはもともと朝が苦手だし、寝起きはかなり機嫌が悪いのだ。できれば自然に起きるまで放っておきたいのがアレスセウスの本音だった。
 しかし、それでは洗濯をする時間が遅くなってしまう。早く大きくなって自分で井戸の水を汲めるようになりたいが、その日はいつ訪れるのだろう。
「ねえお父ちゃん。僕って何歳くらいに見える?」
 洗濯をしながらアレスセウスは隣で薪を割っていたアレスに尋ねる。
 するとアレスは薪を割る手を止めアレスセウスを一瞥し、すぐにまた斧を振るいだした。
 薪を割る音と共に聞こえてきたのは、「五歳くらいにしか見えねえ」と言うアレスの呟きのような返事だった。
「……そっか、五歳か」
 それ以上何も言わず、アレスセウスは洗濯にだけ集中しようとした。別に望んだ答えがあったわけではないが、「五歳」と言われてなんだか複雑な気持ちになった。もし本当に自分が五歳なら、もっと背が伸びるにはまだまだ時間がかかりそうだ。
 洗濯が終わって一人家の中に戻って来たアレスセウスは、ぐちゃぐちゃにいろんな物が詰め込まれているチェストの中の掃除を始めた。ここを片付けていると、新たな洗濯物が見つかることがあるのだ。
 靴下やシャツをチェストから引っ張り出していると、その中から一冊の古い本が出てきた。
 アレスは本など読みそうにない印象だが、そんな彼が持っている恐らく唯一の本に何が書いてあるのかアレスセウスはとても気になった。
緑色の表紙をめくり本の中を見てみると、そこには戦いで使う様々な武器の絵が描いてあった。
 最初のページには剣が描かれている。
「ロングソード……サーベル……」
 書いてある文字といえば武器の名前くらいだったが、アレスセウスはそれを声に出しながらページをめくっていった。
 するとそこへ、薪割りを終えたアレスが、額の汗をぬぐいながら家の中へ入ってきた。
「薪割りはどうしようもなく疲れる! おい、アレスセウス。メシにしようぜ」
 本に夢中になっていたアレスセウスはアレスが帰って来たのにも気づかず、ぼそぼそと武器の名前を呟きながらページをめくり続ける。
 その様子に気づいたアレスは、アレスセウスの横から本を覗き込み、そしてアレスセウスの顔を見た。
「お父ちゃん!」
 アレスセウスは慌ててぱたんと本を閉じ、先ほど怒られた時と同じように視線を泳がせた。勝手に本を見たのでアレスに怒られると思ったのだ。
 しかし、アレスの口から出てきたのは怒りの言葉ではなかった。
「お前、字が読めるのか?」
「あ……うん」
 夢中で本を見ていたアレスセウスの姿に、アレスは少し考えてからこう言った。
「学校へ行って、勉強をしたいか?」
「学校?」
 アレスセウスの口元が僅かに綻ぶ。はっきりとは言わなかったが、アレスセウスが学校に興味があるのをさすがのアレスも知っていた。村へ行く度に学校の前で立ち止まるのだから無理もない。
 アレスは学校など行かなければそれでもいいと考えていた。学問などやらなくても生きていくのには困らない。だが、その考えをアレスセウスに押し付けることはできなかった。
 アレスセウスが望むなら、村の学校で勉強をさせてやりたい。
「僕、学校へ行きたい!」
 目を輝かせてそう言ったアレスセウスの願いを叶えるべく、アレスは村の学校に掛け合ってみることにした。
 ロクデナシの子供が学校へ行きたいと言うと、村人たちはあまり良い顔をしない。しかし、ここエルデルク王国では、身分に関係なく勉強したい子供は最寄りの学校へ行ってよい決まりがあった。それはロクデナシの息子であっても例外ではない。
 様々な資源に恵まれたエルデルク王国は東大陸で一番裕福な国で、国民のほとんどは貧しさとは無縁だった。小さな村であってもそれなりの生活をし、教育も行き届いていたのだ。
 学校側はアレスセウスの入学を許可したが、それとは別の問題があった。しかし、当然ながら本人は知る由もない。
 期待に胸を膨らませるアレスセウスの手を引き、アレスはいつもは素通りする村の学校の前へやって来た。
 学校を見上げるアレスセウスの横を通り、子供たちが学校へ入って行く。
「終わるまでここで待っててやるから、行って来い」
 アレスがアレスセウスの手を離す。
「うん! お父ちゃん、行ってくるね」
 他の子供たちに交じって学校の中へ駆けていくアレスセウスの後ろ姿を見送るアレスだったが、心配で堪らなかった。ただでさえ浮いた存在の彼が、果たして学校で上手くやっていけるだろうか。
 不安は拭えないが、どうすることもできない。
 アレスは門に寄りかかり、アレスセウスを待つことにした。
 一方、学校の中へ入ったアレスセウスは彼を待ち構えていた学者風の男に連れられて教室までの道のりを歩いていた。
 途中、男がアレスセウスにこんなことを言った。
「君の親がどんな人なのか、金持ちなのか貧乏なのか。そんなことは私には関係ない。君が優秀であればな」
 にこりともしないその男は、教室に着くと無言で後ろの机を指さした。そこに座れということだろうか。
 他の子供たちはすでにお行儀良く席についている。
 手渡された教科書を持ち、アレスセウスもみんなと同じように木の椅子に座ったが、前の子供の頭で塗板が見えない。
 少しだけ椅子から尻を浮かせてみたが、状況は全く変わらなかった。
 アレスセウスがいろんな方向に体を傾けている間に、学者風の男、ここではアレスセウスが先生と呼ぶべき存在が塗板に何やらたくさんの数字と記号を書き連ねていた。
「この答えが分かる者は手を挙げろ」
 先生がそう言うと、教室にいたアレスセウスを除く全ての子供が「はーい!」と、元気よく手を挙げた。
 自分も一緒に手を挙げたかったアレスセウスは、ようやく見えた塗板の数字を見て目をぱちくりさせた。
 三百八十一足す四百二十?
 思わず両手の指を見る。
 指が足りない……!
 みんなはどうしてあの問題の答えが分かるのだろうか。指の数は同じはずなのに。
 狼狽えるアレスセウス。
「そうだ。今日から新しく君たちの仲間に加わった者がいる。彼に答えてもらおう。立ちなさい」
 問題の答えが分からず隠れるように身を縮めていたアレスセウスは、まさに文字通り心臓が飛び出しそうなほど緊張した。
 教室にいる人間みんながアレスセウスに注目している。
「答えは?」
 先生にそう問われるも、アレスセウスは目をぱちくりさせたまま遠くの塗板を見つめることしかできない。それでも何か言わなければと思い、アレスセウスは喉の奥から言葉を絞り出す。
「あ、あの……。指が……指が足りなくて……」
 両の手の指を差し出したアレスセウスの様子に、子供たちがどっと笑い出す。
 顔を真っ赤にしているアレスセウスの目の前で、先生が深くため息をつきこう言った。
「……ロクデナシの子はロクデナシということか」
 笑われ、呆れられたアレスセウスは魂が抜けたように脱力し、椅子に座った。その後も授業は何事もなかったかのように進んでいく。
 先生の話は聞こえず、塗板に書かれた問題も見えない。アレスセウスの目には今にも零れ落ちそうなほど涙が溜まっていた。泣き顔を見られたくなくて下を向き、涙を乾かそうと何度も瞬きをする。しかし、それは完全に逆効果だ。
木でできた机の上に涙がぽろっと零れ落ちた。
 これ以上涙が出てこないよう、アレスセウスは服の裾で目をごしごしと拭く。
 先生はもう二度とアレスセウスを指さなかった。
 授業が終わると、アレスセウスは他の子供たちに交じってとぼとぼと学校を出た。門の前ではアレスが立って待っている。
 どう見ても意気消沈しているアレスセウスの姿を見て、アレスは考えていた第一声を発するのに躊躇いが生じた。しかし、他に言葉も見つからなく、アレスセウスにこう尋ねた。
「学校、楽しかったか?」
 すると、アレスセウスはアレスの顔を見上げて小さく頷いた。その顔に笑みはない。
 だいたい何があったか察しがついたアレスはそれ以上何も聞かなかった。家へ帰ろうと思い、アレスセウスの手を引いた。その時。
「あんな簡単な問題も分かんないなんて!」
「ばーか!」
 この間アレスセウスを茶化したあの三人組が後ろから走って来て、切れ長の目の少年がアレスセウスの頭を小突いた。
「っ! このクソガキ共!」
 アレスが怒ったが、三人は笑いながら「ロクデナシだー!」と、叫び駆けて行く。
 放っておいたらアレスが三人を追いかけて行きそうな気配がしたので、アレスセウスは繋いでいたアレスの手をゆるく引っ張った。
「お父ちゃん、行こう……」
 怒りに任せて拳を強く握りしめていたアレスは、ついアレスセウスの手を握る指にも力が入ってしまっていたことに気づく。
 力を緩めながら、アレスはアレスセウスの手を引いた。
「ああいうのは、殴っていいんだぜ?」
 アレスセウスは返事をしなかった。がっくり項垂れ、地面を見つめたまま足を動かしている。
 しばらく無言のまま歩みを進めていたが、空を見上げていたアレスが口を開いた。
「なあ、明日も行くのか?」
 きっともう、アレスセウスは学校へ行きたがらないだろうと、アレスは思った。ここが普通の村の普通の学校だったら問題なかっただろう。しかし、アレスセウスが行ったあの学校は、将来大きな都市の学校へ入ることを目標とした子供たちが通う場所だった。
 アレスセウスが勉強の基礎を知っていたとしても、あの学校のレベルにはとてもついていけないだろう。
 惨めな思いをしてまで学校へ行く必要はなかった。
「お父ちゃん」
 だが、アレスセウスは違った。
「僕、明日も行くよ」
「は? 何で? 別に無理して行かなくったっていいんだぜ?」
 アレスがそう言うと、アレスセウスはようやく顔を上げた。不安な気持ちは隠せない顔をしていたが、目はしっかりとアレスを捉えている。
「今日は、途中からだったから仕方ないんだ。明日は新しい章が始まるから、そしたら僕も分かるよ!」
 途中とか新しい章とかいうのは、教科書の項目のことらしい。みんなの前で恥ずかしい思いをして授業が頭に入らなかったアレスセウスだったが、明日から新しいことを勉強すると言った先生の言葉は耳に入っていた。
「行きたいなら止めないけどよ、お前本当に大丈夫か?」
「うん! 大丈夫!」
 アレスが心配すればするほど、アレスセウスは意固地になっているようだった。
 親として心配はするが、基本的にはアレスセウスの好きにすればよいとアレスは考えていた。アレスセウスが行きたいと言うのなら、止める必要はない。
「じゃあ頑張れよ。でも、無理はしなくっていいんだからな」
 アレスが応援すると、アレスセウスはようやく少し笑みを浮かべた。
「大丈夫! 頑張るよ」
 初日に散々な目に遭ったのにも拘わらず、アレスセウスはその後も学校へ通い続けた。
 足し算と引き算の次に勉強をした掛け算というやつは、筆算のやり方を覚えたらなんとか問題を解くことができた。
 自分だってできるんだと、一人机の上の教科書を見つめながら微笑む。先生に褒められたわけではなかったが、それでも少しはできることが増えたのが嬉しかった。
 今日の勉強は中々楽しかったぞ、なんてことを考えながらアレスセウスは教室を出る。初日はアレスが待っていてくれたが、次の日からは一人で学校まで通っていた。道に迷う心配はないし、学校は昼になる前に終わるので帰りが夜になることもない。
 建物の外へ出て門の所まで来た時、アレスセウスはまたあの三人組に絡まれた。
 直接聞いたのではないが、アレスセウスは授業中に指されるのを聞いてこの三人の名前を把握していた。
 切れ長の目をしたのがギルベルト、そばかすがフレディ、ふとっちょがマルティンだ。
 三人はアレスセウスの前に立ちふさがる。腕組みをしたギルベルトがアレスセウスに悪態を吐いた。
「何でお前みたいなチビが学校なんて来てるんだよ」
 ギルベルトの言葉に、アレスセウスは思わず首を傾げる。
 はて、この学校へ通うのに年齢制限はあっただろうか。
「この村の人間でもないのに、図々しいな」
 ギルベルトに続き、フレディも偉そうな態度でそう言った。マルティンは何も言わなかったが、巨体のせいで立っているだけで圧迫感がある。
「大して頭も良くないくせに、調子に乗るなよな」
 ここで何か言い返したほうがいいのかもしれないが、アレスセウスは自分が今どのような状況に置かれているのかを全く理解していなかった。
 威張る三人を前に、アレスセウスは真顔でこう答えた。
「うん、分かった。調子に乗らないから僕と友達になってよ」
「はあ?」
 ギルベルトが不快な表情を見せる。
「何で俺たちがお前の友達にならなきゃいけないんだよ。よそ者の友達なんて!」
 ギルベルトに続き、フレディも「そうだそうだ!」と声を荒げた。マルティンは相変わらず何も言わないが、太い首を上下に動かし二人の言葉に同意するように頷いている。
 激しく拒絶されたアレスセウスだったが、諦めきれなかった。
「どうしても、だめ?」
 するとギルベルトは乱暴にアレスセウスの肩を押す。
「うるせえ奴だな! どっか行っちまえ!」
その衝撃で二歩ほどアレスセウスはよろめいた。
 もうこうなっては友達になるどころの話ではない。アレスセウスは俯きながら三人から離れるように歩き出した。
 ふと顔を上げると、傍で四人の様子を見ていた女の子と目が合った。彼女はさっとアレスセウスから目を逸らしたが、その表情はどことなく笑っているように見えた。
 子供たちだけではなく、村人はみんなアレスセウスを見ると目を逸らしたり、ひそひそと噂話を始めたりした。
 学校へ通うことが許されても、アレスセウスは村人に受け入れられたわけではない。
 それでもアレスセウスは学校へ通い続けた。相変わらず友達はできなかったが、何かを学ぶという行為は好きだった。
 ある日、アレスセウスは学校で「割り算」というものを習った。掛け算よりはやや難しそうであったが、やってできないことはない。
 塗板に書かれた「十割る二」という問題を見つめ、アレスセウスは考える。
 先生が言うには、十個の物を二人で分けるという風に考えると理解できるらしい。そこでアレスセウスは十個のじゃがいもをアレスと二人で分けることにした。
 十個のじゃがいもを二人で分けるとしたら、一人五個ずつ食べられる。だから、答えは五だ。
 答えに辿り着くと、珍しく先生がアレスセウスを指したので答えは五だと言おうとした。
 しかし、アレスセウスはまたもや考えた。
 待てよ。普通に分けたら五個ずつになるが、相手はあのアレスだ。自分が六個食べて、アレスセウスには残りの四個しか食べさせてくれないかもしれない。
 そう言うと、案の定教室は笑いに包まれ、先生は呆れたように首を横に振った。
 アレスセウスはまた、顔を真っ赤にしながら木の机に視線を落とした。
 家に帰ってからそのことをアレスに話すと、アレスはみんなと同じように大口を開けて笑った。
「ぶわっはっは! いらん想像力を働かせてんじゃねえよ」
 笑いながら、アレスは夕飯を作るために竈の火を調節している。アレスセウスは椅子に座りしょんぼり俯いていた。
 あまりの落胆ぶりに、アレスは夕食の準備を一時中断した。そして、もう一つの椅子を引っ張って来てアレスセウスの隣に座った。
 がっくりと肩を落とすアレスセウスの頭を大きな手で撫でながら言った。
「ちょっと間違えたくらいでくよくよすんな。間違えるのは恥ずかしいことじゃないんだぜ」
「でも、間違えるのはいつも僕だけなんだ。みんなはできてるのに僕だけ間違えたら恥ずかしいよ……」
 アレスはアレスセウスの頭に乗せていた手を肩に回し、いつかと同じようにアレスセウスの顔を覗き込んだ。
「それはどうかな」
 アレスがそう言うと、アレスセウスは少しだけ視線を上げた。
「他の連中が頭ん中で何を考えているかなんて分からねえだろ? 案外、お前のことを笑っている奴でもできてねえ奴いるんじゃねえの?」
「そう……なのかな」
 アレスセウスはアレスの言うことがいまいち信じられなかった。
「お前は自分のことで精一杯だから周りを見てる余裕がねえかもしれねえが、あれじゃね。お前の先生って、問題解けそうな奴しか指さねえんじゃねえの」
 そう言って、アレスはまた大きな声で笑った。
 アレスは冗談で言ったかもしれないが、アレスセウスはその通りかもしれないと思った。思い返してみれば、少し難しめの問題の時に答えさせられる子と簡単な問題の時しか指されない子がいるような気がする。
 しかし、するとやはり自分は先生の期待を大きく裏切っていることになる。
 気が楽になるどころか、まるで泥沼にはまったかのように意気消沈するアレスセウスの耳に、こつこつと何かが窓を叩く音が入ってきた。
「何だろう」
 窓を開けてみると、白くて小さな鳥が嘴にこれまた小さくて赤い花をくわえてこちらを見ていた。
 アレスセウスが鳥を中に入れてあげると、鳥は花をくわえたままテーブルの上に降り立った。
「この鳥さん、いつもこの近くにいるよね」
 人懐っこい可愛い鳥だったが、アレスは眉間に皺を寄せ、鳥相手に暴言を吐き始めた。
「お前、何でここにいるんだよ。俺はその色の花は好きじゃねえ。帰れ、帰れ」
 アレスがしっしと手で鳥を払うと、鳥はぱたぱたと飛び立ってアレスセウスの肩に止まった。
「お父ちゃん! 何で鳥さんをいじめるのさ」
 アレスセウスは鳥の嘴からそっと赤くて小さな花を受け取った。すると、鳥は嬉しそうにぴぴっと鳴いた。
 それを見たアレスは、苦々しい表情を見せる。
「そいつに取り入ったって無駄だからな」
 鳥はアレスセウスの肩から飛び立ち、アレスの顔の周りを一周して開いた窓から外へ出ていく。
 それを見送ってから、アレスセウスはアレスに向かってまた怒った。
「どうしてあんなこと言うの? 鳥さんは僕を心配して来てくれたかもしれないのに」
 しかし、アレスはアレスセウスの質問には答えない。代わりにこう釘を刺す。
「いいか。もしもあの鳥がものを言っても返事をするんじゃねえぞ。分かったか」
 鳥が喋る?
 訳が分からず、アレスセウスは口を半開きにしたままきょとんとした。鳥が言葉を話すなんてあり得ないのに、アレスは一体何を言い出すのか。
 アレスセウスの返事を待たずに、アレスは食事の準備に戻ってしまった。
 食事ができるまで、アレスセウスは鳥がくれた赤い花を見つめていた。アレスは嫌いだと言ったこの赤が、アレスセウスは好きだった。

アレスセウスが学校に通い始めて二ヶ月ほど経った頃、例のあの三人が珍しくアレスセウスに声を掛けてきた。
 戸惑うアレスセウスに、ギルベルトが言った。
「明日の午後、俺たち村の近くにある河原に行こうって話してたんだ。お前も行かないか?」
 いつもはアレスセウスの悪口しか言わない彼らからの遊びに誘いだった。友達が欲しかったアレスセウスはただただ嬉しくて満面の笑顔でこう答える。
「僕も行っていいの? 明日の午後? 必ず行くよ」
「じゃ、決まりだな」
 アレスセウスは嬉しくて嬉しくて、家に帰るとさっそくアレスにこのことを話した。
「それでね、明日友達と学校が終わったら河原へ遊びに行くんだ」
「友達って、あの三人組の……?」
「うん!」
 アレスセウスは得意げに頷く。
 初めて遊びに誘われたのがよほど嬉しかったのだろう。だが、あの三人と聞いてアレスはあまり良い気はしなかった。しかし、せっかく約束したのだ。行くなとは言えない。
「暗くなる前に帰って来いよ」
「大丈夫、分かってるよ」
 川へ行くなら魚でも捕って来いと言い、アレスはアレスセウスに葦でできた魚を入れるための籠を持たせた。
 今日ばかりはアレスセウスも勉強に身が入らない。早くみんなと遊びたい。そればかり考えていた。
 授業が終わったと同時に、アレスセウスはギルベルトたちの元へ駆け寄る。
「僕、魚を入れる籠を持って来たよ。河原へ行こうよ」
 アレスセウスが三人に籠を見せると、ギルベルトが大げさに手をぱちんと叩く。
「あーっ、そうか。せっかく川へ行くなら魚を獲る道具があったほうがいいな」
 ギルベルトはアレスセウスの肩を軽く叩き、笑顔を見せてこう言う。
「俺たち家から釣竿を持って来るから、先に川へ行っててくれよ」
「すぐ行くからさ」
 フレディも横から口を挟む。マルティンは相変わらず二人の言葉に頷くだけだ。
「……そう? じゃあ、僕は先に行って待ってるね」
「おう! 俺たちもすぐ行くからな」
 三人に見送られ、アレスセウスは一足先に河原へと向かう。
「みんなは釣竿持って来るって言ってたから、お魚採れるといいなあ」
 河原へ着くと、アレスセウスは籠を自分の隣に置き、川辺に腰を下ろした。
 みんなはすぐ来るだろうか。
 止まることなく流れていく水を眺めながら、アレスセウスは友達を待った。水面を魚が跳ねた。
「あっ!」
 魚がいる!
 きっと釣竿を使ったらすぐに釣れるに違いない。
 アレスセウスは友達を待った。
 そのうち、だんだんと尻が痛くなってきた。
 それでも、アレスセウスは待ち続けた。
 しかし、どんどん不安になってくる。
「遅いなあ……。村へ戻ってみようか。でも、行き違いになっちゃうかも……」
 諦めて家へ帰ろうか。
 それも考えたが、あれだけ得意げに友達と遊ぶとアレスに話してしまった手前、遊べなかったと言って帰ったら何と言われるだろう。きっと笑うに違いない。
 家にも帰れず、アレスセウスはここで友達を待ち続けるしかない。
「夕方になったら帰ろう。遊んでたら遅くなっちゃったって、そう言おう……」
 みんなで釣りをしてとても楽しかった。でも、僕は一匹も捕れなかったんだ。
 家に帰ったら話そうと、アレスセウスはこんな嘘の話を考えていた。
 やがて、日が暮れ始めた。
 そろそろ帰ろうと思い、アレスセウスは腰を上げる。すると、背後から急に声を掛けられた。
「アレスセウス」
「お、お父ちゃん……!」
 予期していなかったアレスの登場に、アレスセウスは籠を持ったまま固まってしまった。
 アレスはアレスセウスが友達に約束を破られたことを知っていた。
心配になったアレスが村へ行くと例の三人組がいたので問いただしたが、彼らは「そんな約束は知らない」と言い張っていたのだ。
あの三人と遊ぶ約束なんてしても、こうなることはだいたい予想がついていた。
「あ、あの、お父ちゃん……。なんかみんな用事があったみたいで、それで……」
 遊べなかったよ、と、アレスセウスは小さな声で言った。
 アレスはなんとも言えない表情でアレスセウスを見下ろした。
 友達は来なかった。約束を破られた。
 そんな風に言ったっていいのだ。自分なら、きっとそう言うだろう。アレスセウスは何も悪くないのだから。
 一人で待っていて辛かったろう。不安だったろう。それでもあの三人を庇う心優しいアレスセウスは、やっぱり自分とは全然似ていない。
「帰るぞ」
 そう言って、アレスはアレスセウスの手を握った。川辺の風に吹かれ、手はすっかり冷たくなっていた。
 家に向かって歩き出そうとしたが、アレスセウスが繋いでいないほうの手でさっと涙を拭った気配がし、アレスは振り返った。
「アレスセウス……」
 アレスは腰を屈め、アレスセウスの目を見つめて言った。
「お前は友達との約束を破るか?」
 アレスの問いかけに、アレスセウスは首を横に振る。
「破らないよ! だって、友達だもん……。約束、したんだよ。遊ぶって……。だから僕、ずっと、ずっと待って……」
 ぼろぼろと泣き出したアレスセウスを抱きしめ、アレスはその背中を優しく叩いた。
「約束を破るような奴は友達じゃない。だから……気にすんな。お前は何も悪くないよ」
 アレスセウスは自分とは違う。だけど、彼の感じる痛みがアレスには言葉では言い表せないほどよく分かっていた。
 友達って、何かな。どんなものなのかな。
 幼い頃の自分が今の自分に語り掛けてくる。
 小さなアレスセウスはまだそんなことは問わないだろう。しかし、いつかそれを聞かれたら、自分は何と答えよう。
 かつて自分も欲しいと思った「友達」とは、一体どんな存在なのか。どんな言葉で言い表せばいいのだろう。
「まあ、約束破るような奴じゃないのは確かなんだがなあ」
 不器用な自分では、言葉で説明するのは難しいかもしれない。
 泣き疲れて眠ったアレスセウスとその隣で考え込むアレスを、窓から白い鳥が見守っていた。

 ある朝、学校へ行くために家を出ようとしていたアレスセウスをアレスが呼び止める。
「今日は学校が終わったら迎えに行ってやるよ」
「え? どうして?」
 アレスセウスが尋ねると、アレスは鍛冶場のほうを親指で指しながら言った。
「ジジイの家に届け物」
 村で唯一ロクデナシに仕事をくれるルッツおじさんのことだと分かり、アレスセウスは笑顔で言った。
「僕が届けて来ようか」
「お前は学校があるだろ。仕事のことは気にするな、行って来い」
 アレスに見送られ、元気よく家を出る。
 今日はアレスセウスが学校に通い始めてちょうど三ヶ月目だ。相変わらず勉強のできは良くないが、それでも少しずつ分かることが増えていた。
 学校では本を読むことより、数学の勉強をすることが圧倒的に多かった。先生が言うには、数学は全ての学問の基礎になるらしい。物事を理論的に考える力がつくとかそんなことも言っていた。
 アレスセウスは全く興味がなかったが、魔法使いになるのにも数学が必要らしい。
 数学の勉強はどんどん難易度が上がっていった。今までの基本的な計算から一変、もはや理解不能な暗号が塗板に描かれる。
 見慣れた足し算なのに、式の両側には不思議な数字。上下に書かれた数字の間には一本線が引かれている。
「ぶん……ぶん? ブンスウ?」
 何かの呪文だろうか。アレスセウスは頭を抱えたくなった。
 塗板に書かれた四の上に棒を引いてその上に一を置いた数字は「四分の一」と読むらしい。そしてその「四分の一」とは、ケーキを四つに分けた時の一つ分のことだと先生は言った。
 周りの子供を見ると、みんな理解したように首を縦に振りながら先生の話を聞いている。
 ちょっと待って!
 アレスセウスの顔から血の気が引く。
 待って、みんな。どうしてそんな分かったような顔をしているの?
 アレスセウスが一人焦っている間にどんどん先生の話は進んでいく。
 待って……本当にちょっと待って。
 このまま話を進められたらもうついていけないかもしれないと、アレスセウスは小さく手を挙げた。
「どうした」
 気づいた先生がアレスセウスを見る。
「あの……」
 口ごもるアレスセウスに、先生はもう一度問う。
「どこか分からないのか」
 アレスセウスは恐る恐る小さな声でこう言った。
「あの……。ケーキって何ですか……」
 教室が静まり返る。いつもならアレスセウスが発言をすると笑い声で溢れるのに、今日は嘘みたいに静かだった。
「ケーキというのはだな……」
 先生が親切にケーキの説明を始めたが、肝心のアレスセウスの耳には話が半分くらいしか入ってこない。
 ふざけて聞いたわけではない。アレスセウスは本当にケーキが何なのかが分からなかったのだ。
 いつもみたいに笑われたほうがましだった。
 椅子に腰を下ろしたアレスセウスは心からそう思った。
 勉強どころか当たり前のことも知らないアレスセウスは完全に授業の邪魔だった。誰かに言われたわけではないが、そんな空気を痛いほど感じる。
 ケーキは、この国ではよく食される物らしい。しかし、アレスセウスは一度も見たことがない。
 見たことがなくても、存在くらい知っていて当然なのだろうか。
 授業が終わり、帰る支度をして教室を出る。
 記憶を失くす前の自分だったら知っていたのだろうか。みんなが知っている当たり前のことを知らないのは、記憶がないから?
 アレスセウスは必死に昔のことを思い出そうとした。
「何も……」
 何も思い出せなかった。
 暗闇の中を走っていたあの時から前のことは全く思い出せない。
 覚えているのは、知っていたのは洗濯のやり方と……。
「おい!」
 不意に呼び止められ、顔を上げる。
「お前、ケーキ食ったことないの?」
 目の前にはいつもの三人。ギルベルトが馬鹿にしたようにそう言った。
 食べたことがあるかどうか、本当のところは定かではないが、今のアレスセウスは頷くしかない。
「ケーキも食えないなんて、相当貧乏だぜ、こいつ」
 ギルベルトが言うと、両隣にいた二人も笑う。
「親がロクデナシだもんな。こいつ、普段もまともな物食ってないんじゃねえの」
「それに、こいつの家には母さんがいないんだろ。それっておかしいよな」
「父親がロクデナシなんだから普通なわけないだろ。こいつはまともじゃない」
「こいつも、こいつの親もな」
 誰がどの言葉を言ったのか、もうそんなことは重要ではない。
 目の前が真っ赤になる。
 一歩踏み出し、目の前にいたギルベルトの腹を渾身の力を込めて殴った。
 声も上げられず、ギルベルトが地面に転がる。
 アレスセウスは許さなかった。
 地面に転がったギルベルトを首を片手で締め上げる。
「お父ちゃんを……」
 前にも。
「お父ちゃんを馬鹿にするな」
 前にもこんなことがあったような気がした。
 ギルベルトの瞳が恐怖で染まる。アレスセウスの手を解こうともがくが、ぴくりとも動かない。
 あの時も、確か。
「僕のことならいくらでも悪く言えばいい。自分が痛いのはいくらでも我慢できる。でも、でも……!」
 あの時も確か、何かを守ろうとしていたんだ。
「お父ちゃんのことは……!」
 だけど、守るどころか……。
「アレスセウス!」
 自分と同じ赤い髪が視界に入ってくる。
 アレスセウスの手の力が緩む。
「アレスセウス、手を離せ!」
 駆け寄って来たアレスに肩を掴まれ、アレスセウスはギルベルトの首からようやく手を離した。
 解放されたギルベルトが地面に手をつき激しく咳き込む。
 ギルベルトと一緒にいたフレディとマルティンはアレスセウスを恐れ、ギルベルトを置いて一目散に逃げてしまった。周りで一部始終を見ていた者もいたが、誰も当事者たちに近寄ろうとする者はいない
「アレスセウス、いいか、落ち着け」
 アレスは茫然とするアレスセウスを落ち着かせ、今度は咳き込むギルベルトに近寄る。
「おい、大丈夫か」
 アレスに問われると、ギルベルトは咳き込みながらも頷いた。
 幸い時間が経つとギルベルトの呼吸は落ち着き、目立った外傷もなかった。しかし、あのまま締め上げていたら死んでいただろう。
「立てるか? 家まで送ろう……」
 アレスは片手でギルベルトを抱きかかえ、もう片方の手でアレスの手を引いた。村人たちに奇異の目で見られてもアレスは気にしなかった。
 アレスに抱きかかえられて帰宅したギルベルトを見て、彼の両親は当然ながら非常に驚いていた。
「息子と喧嘩したみたいで……。すまない」
 アレスが経緯を両親に説明すると、ギルベルトの母親はきっとアレスセウスを睨み付けた。
「何てことを……! この子が死んだらどうしてくれるの? これは人殺しよ!」
 母親の目からアレスセウスを庇うようにアレスは彼女に頭を下げた。
「すまない」
 声を荒げることはないものの、父親のほうも低い声でこう言った。
「またこんなことをされては困る。もうその子を村へ連れてこないでくれ」
 アレスセウスはアレスの手を握ったまま俯いていた。本当は謝らなければいけないのは自分なのに、何も言えなかった。
 ちらとギルベルトのほうを見ると、彼もアレスセウスと同じように俯いていた。
「二度と来ないで!」
 母親の叫ぶ声を最後に、アレスとアレスセウスはギルベルトの家を追い出された。
 あの時も、守るどころかこうして誰かを悲しませた。
「お父ちゃん」
 家に帰ってくるまで一言も言葉を発しなかったアレスセウスが口を開く。
「お父ちゃん、僕、前もこんなこと……」
 あったよね?
 そう言いかけて、口を噤む。何かを思い出しかける。
「僕、あの時」
 ギルベルトの首を締めた時の手の感触が蘇る。
「殺した……? あの子は死んだの?」
 アレスセウスの両手が震える。
「僕が……僕が殺し……」
「違う!」
 アレスが叫ぶ。
「違う、殺してなんかいない! お前のせいじゃない!」
 怒りと困惑が入り混じった声だった。
 アレスは震えるアレスセウスをきつく抱きしめた。
「お前のせいじゃない、お前が悪いんじゃない……」
 アレスセウスの震える体を包んだアレスの腕も震えていた。
「もう、何も思い出さなくていいから……」
 そう言いながら、アレスは何度も何度もアレスセウスの頭を撫でた。
「お前は悪くないんだ……」
「……お父ちゃん」
「お前には、俺がいるから……」
 もし本当にアレスセウスが誰かを殺めていたとしても、誰もそれを咎めることなんてできないのだ。
 そうするしかなかったのだから。
 だけど、きっと他人には理解されない。それなら、そんな記憶はないほうがいい。
 理解されない苦しさを味わうくらいなら。
 一人で罪を背負っていく辛さを味わうくらいなら。

 昔、自分もアレスセウスと同じ過ちを犯した。
 誰にも理解してもらえなかった。理解してくれる人にも出会えなかった。
 親にも捨てられた。
 だから、みんな死んでしまえばいいと思った。戦争を起こして、そこでみんな、殺してしまおうと思った。
 あの時自分は、自分を捨てた親にどんな言葉を掛けてもらいたかったのだろう。

「俺は、寂しかったのかもしれない……」

 あの日、あの時、死んでいった幼い自分がそう言って笑った。
 自分は気づくのが遅すぎた。しかし、アレスセウスはまだ間に合う。
 今の自分ならきっとアレスセウスを守ってやれる。
 アレスはまだ震えているアレスセウスを、今度は優しく抱きしめた。
つづく
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