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ラジエルの書第五十六巻―アレスセウス―  1

 
 名を忘れ、故郷を失った少年は、自分ではなく他人のために生きようと医の道を志した。
 ラジエルの書第五十六巻を記す。

 ――書は真実を語る。




 生きるのよ、生きるのよ!
 誰かが言った、その言葉だけを彼は覚えている。

 暗い暗い森の中を、一人の少年が走っていた。息は上がり、小さな額を汗が伝う。
 何度も何度も木の根に躓きながらも、少年は決して足を止めようとはしなかった。
「あっ!」
 小さく声を上げ、少年は転んだ。これで何度目だろう。また木の太い根に足を取られてしまった。
 足が痛むのを我慢して立ち上がる。そうしてしばらく歩くと、森を抜けた。
 森を抜けた先に何があるのかは知らない。
 不安を抱える少年の視界に入ってきたのは、ずいぶんと古びた神殿と、なぜかその隣にひっそりと立つこれまた古びた家だった。
 人が住んでいるのか、窓からはほんの少しだけ明かりが漏れていた。
 少年は家の扉を叩く勇気がなく、神殿の中に入った。誰も管理する人がいないのか、中も薄汚れていてところどころ壁が崩れている。
 祭壇の前まで来てみたが、やはり誰かが定期的に通って来ている様子はなかった。
 どうしたらよいのか分からず立ちすくんでいると、背後から男の声がした。
「なんだ? ここに人が来るなんて珍しい。しかも、ガキじゃないか。今何時だと思ってんだ。ガキは家へ帰りな。ここは遊び場じゃねーし、ましてや肝試しする場所でもねえ」
 少年は驚いてびくっと肩を震わせ、恐る恐る声のした方を振り返る。
 月明かりに照らされて見えたのは、背の高い一人の男。男は端整な顔立ちをしていたが、無頓着なのかその美しさは無精ひげで台無しだ。髪の色は燃えるような赤。少年と同じだった。
「お前、名前は? どこから来た?」
 必然的に聞かれた、とても簡単な質問だった。
 少年はそれに答えようと口を開きかけたが、何の言葉も出て来ないまま固まった。
 男が不思議そうな目で少年をまじまじと見つめる。
「お前、喋れないのか?」
「え、えっと……」
 少年が小さな声で言うと、男は怒ったような口調で言った。
「なんだよ。口がきけるじゃねえか。で、名前は?」
「名前……僕は……」
 なかなか答えようとしない少年に男は一瞬苛立ったが、少年に近づき、さっきよりも長い時間まじまじと少年を見つめた。そして、こう言った。
「はっはーん。分かったぞ。お前、親に捨てられたんだな」
「え……」
「そんで、ショックで名前も思い出せないってか。まー、生きていればそんなこともあるさな」
 茫然とする少年を尻目に、男は言葉を続ける。
「よし、俺がお前に名前をつけてやろう。そうだな……俺の名前がアレスだから、お前はアレスセウスだ。どうだ、かっこいいだろ?」
「アレスセウス?」
 少年が復誦すると、アレスはにかっと笑った。
「そうだ、アレスセウス。それがお前の新しい名前だ」
 この名前がかっこいいのかどうかはよく分からないが、本当の名前を思い出せない以上、別の名前が必要なことだけは確かだ。
 少年――アレスセウスは、不安が残る瞳に少し涙を浮かべながら頷いた。
「どうせ行く所なんてないんだろ。来いよ。隣に家があったろ? 何を隠そう俺の家だ。住んでいいぞ」
「どうして? なんで優しくしてくれるの?」
 少年は本当に何も覚えていなかった。自分の名前も、どうやってここへたどり着いたのか、そもそもなぜ独りぼっちになってしまったのか。
 だけど、もしかしたら嘘を吐いているかもしれないのに。
 するとアレスは優しく少年の頭を撫でて、こう言った。
「俺はすごい神様だからな。お前が嘘を吐いていないことくらいは分かる。それに……」
 アレスは自虐的な笑みを浮かべた。
「俺も昔、親から見捨てられたんだ。お前と同じ理由でな」
「同じ……? 僕と?」
 アレスセウスが問うと、アレスは首を縦に振った。
「そうだ。だから、俺もお前も同類……仲間ってことだ。さあ、いつまでもこんな所にいても仕方がない。帰るぞ」
 そう言うと、アレスはアレスセウスの手を引いて神殿から出た。
 アレスとアレスセウスが親に捨てられた理由。どうやら同じらしいが、アレスはこの後一切その話題には触れなかったので、その理由が何なのか知ることはできなかった。
 アレスの家はとても質素な作りだった。生活に必要のない物は一つもなく、食事をするテーブルと椅子、そして寝るためのベッドくらいしか家具がなかった。暖炉もあったが、最近は暖かい日が続いているため使っていない。
 アレスはテーブルとベッド以外にかろうじてこの家にある家具の戸棚からパンを出し、アレスセウスに手渡した。
「ほら、これ食って寝ろ」
 アレスセウスはパンを受け取り、椅子に座ってもしゃもしゃとそれを食べた。お腹が空いていたので、パンが固いのも気にせずもくもくと食べ続けた。
「食ったら水飲めよ。ほら」
 アレスが木の杯をテーブルの上に置く。
「ありがとう」
 アレスセウスは水を飲み干すと、脱ぎっぱなしの服や毛布でぐちゃぐちゃになったベッドを整頓していた。
「明日になったらお前のベッドを作ってやるから、今夜はここで我慢しろ。自慢じゃないが、汚い」
「うん、汚いね」
「うっせ! このクソガキ!」
 自分で汚いと言ったくせに、同意したら怒られてしまった。
 大人ってよく分からないなあ、と思いながらアレスセウスは汚いベッドに潜り込んだ。
 アレスが掛けてくれた毛布からは、野良犬の臭いがした。
 明日になったら洗濯をしてあげようという考えが頭に浮かぶ。自分の名前も過去も思い出せないのに洗濯のやり方は覚えているのかと、なんだか虚しくなった。
 アレスはベッドの上に丸めて置いてあった毛布の一つを手に取り、それを枕にして床に寝転がった。
「そこで寝るの?」
 アレスセウスが問うと、アレスはベッドの方に背を向けたまま答えた。
「別にお前に気を使ってるわけじゃねえ。男と一緒に寝るなんてごめんだからこうしてるだけだ」
 それを聞いたアレスセウスは、不思議な匂いのする毛布を頭からぐるぐるにかぶり、自分もアレスに背を向けた。
 僕だって、僕だって一緒に寝るのなんてごめんだ!
 言いたいけど言えない言葉を飲み込んで、アレスセウスはぎゅっと目を閉じた。いつまで経っても眠れなかったが、夜が明けなければいいと思った。明日になっても、自分が何をして生きていくべきか見当もつかなかったから。
 それでも朝は当たり前のようにやって来る。もそもそと起き上がったアレスセウスはベッドの傍で寝ているアレスを跨ぎ、厚いカーテンを開けた。
「うお、眩しい……! 閉めろ、閉めろ」
「でも、もう朝だし、お天気いいし……」
 アレスセウスがカーテンを閉めてくれないので、アレスは仕方なく起き上がって大きなあくびをした。
「こんなに早く起きてどうしようっていうんだ」
「洗濯……」
 アレスセウスが汚れた毛布を広げ、小さな声で言う。アレスは頭を掻きながら、面倒くさそうに返事をした。
「あー……。洗濯か……」
 アレスはそこまでしか言わなかったが、やらなければならないが非常に面倒だという気持ちがアレスセウスには感じ取れた。
「僕がやるから」
 アレスセウスが毛布を持って外へ出ようとすると、アレスは部屋に置いてあった大きな木の籠を指差して言った。
「じゃあ、あれも頼む」
 籠の中にはアレスの脱ぎ捨てた服がいっぱいになっていた。もうずいぶん長い間洗濯をするのを怠けていたらしい。
 アレスセウスは盛り上がっている衣類の山の上に毛布を乗せ、それを軽々と持ち上げた。アレスセウスは体が小さかったので両手で持つと洗濯物で視界が奪われるため、片方の手の平の上に籠を乗せている。普通の子供には到底できない芸当だ。
「井戸は家のすぐ傍にあるぞ」
 そんなアレスセウスの姿を見ても驚きもせず、アレスは部屋を出て行こうとするアレスセウスに声を掛けた。そして、アレスは部屋の隅に転がっていた洗濯板を持って井戸へ向かう。
「ちょっと待ってな。水を汲んでやるよ」
「あ、でも、僕自分でできるよ」
 井戸から水を汲もうとしていたアレスセウスを押しのけ、アレスは言った。
「お前が普通のガキに比べて力持ちなのは認める。だけど、お前はチビだ。チビは井戸に落ちる可能性がある」
 落ちたら助けられないぞ、と言いながら、アレスは洗濯用のたらいを井戸の水でいっぱいにしてくれた。
「水を取り換える時は必ず俺に言え。あっちでベッド作ってっから」
 アレスがあっちと顎で指した方を見ると、そこには木材やそれを加工する道具が散らばっている。物を作るのは得意だが、片付けは大の苦手らしい。
「あと、これやるよ。せっけん」
 なぜかアレスのポケットから出てきたせっけんを受け取り、アレスセウスは黙々と洗濯を始めた。
 アレスが金槌を振るう音を聞きながら、洗濯物を一枚一枚丁寧に洗っていく。記憶を失くす前もこうして毎日洗濯をしていたのかもしれないと、アレスセウスは思った。
 アレスに頼んで何度か水を替えてもらい、ほぼ半日ほどかかって洗濯物の山を片付けた。風になびく洗濯物を見ていると、何とも言えない達成感があった。
 アレスのベッド作りも順調で、アレスセウスが洗濯を終える頃にはもう完成していた。
「おーい、運ぶの手伝ってくれよ」
「うん!」
 二人は家の中にベッドを運び込むと、もともとあったベッドの隣に設置した。あとは先ほど洗ったシーツが乾けば完璧だ。
「ベッドもできたし、洗濯も終わったし、よかったね」
 アレスセウスがそう言うと、アレスは彼に尋ねた。
「お前、洗濯好きか?」
 唐突な質問に戸惑いながらも、アレスセウスは答える。
「え? う、うん。好き……かな?」
「おお! そうかそうか!」
 それを聞いたアレスはとても嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これから毎日洗濯はお前の仕事な」
 アレスセウスは絶句したが、自分は住まわせてもらっている身なのだから働かなければいけないのだと、子供心ながらそう思った。
 午後になると、アレスはアレスセウスを連れて近くの村へ行くことにした。
「お前に使いを頼むこともあるかもしれねえから、ちゃんと道を覚えるんだぞ。とはいっても、ただ真っ直ぐ行くだけだがな」
 神殿がある森を出ると、そこは見晴らしの良い街道だった。ここを南に行くと村があるらしい。
 早足のアレスを必死に追いかけること一時間。アレスセウスの目の前に村が見えてきた。
「結構大きな村だろ? 贅沢しようなんて考えなければ、大抵の物はここで揃う」
 村に入ってもなおアレスは早足で歩く。はぐれないよう気をつけながら、アレスセウスは物珍しそうに辺りを見回した。人が多く、なかなか活気づいている。
 しばらく歩くと、普通の家よりも大きな建物からたくさんの子供たちが出て来るのを見た。アレスセウスが興味深そうに見ていると、アレスが言った。
「あれは学校だ。ガキが勉強をする所だよ」
「学校……」
 楽しそうにしている子供たちから目が離せないアレスセウスだったが、学校に全く興味のないアレスはさっさと先へ行ってしまう。アレスセウスは慌ててその後を追った。
 学校から少し行った所に、店だと思われる建物が一軒あった。アレスがそこへ入って行ったので、アレスセウスもその後に続いてそっと中に入った。
 店の中には店主と思われる男がいて、暇そうに煙草をふかしていた。
「よう、ロクデナシ。ここに何か用か」
 男は店に入って来たアレスの姿を見ると、面倒くさそうにそう言った。
「用がなけりゃこんな所に来るわけねえだろ。なあ、ジジイ。こいつの着る服を二、三着仕立ててくれよ。金は払うから」
 アレスは後ろに隠れるようにして立っていたアレスセウスの背中を押し、男の前に突き出した。アレスセウスは思わず表情を強張らせた。
 男はアレスセウスの顔をまじまじと見て、驚いたような声を上げ、言った。
「お前……本当にロクデナシだったんだな。どこの女に孕ませた子だ、おい。お前にそっくりじゃないか。特に、髪の色が……」
 ぽっかりと開いた男の口から煙草がぽろりと落ちる。するとアレスが呆れたように首を横に振った。
「俺とこいつが似てるって? 冗談はよしてくれ。ぜんっぜん似てねえよ! それに、どこの女にも孕ませちゃいねえ」
 男は別の煙草を咥えながら、アレスとアレスセウスを交互に見る。煙草に火を点けることも忘れ、男は言った。
「そんじゃあ、お前の子供じゃないんだな?」
 その質問に、アレスセウスはどきりとした。アレスは何と答えるだろう。恐る恐るアレスに視線を向ける。
「血は繋がってねえ。だけど、こいつのお父ちゃんは俺だ。俺以外の誰でもねえ」
 アレスセウスの頭をぐしゃぐしゃに撫でながら、アレスは何の躊躇いもなくそう言った。
「ロクデナシでも人の面倒を見ようという気持ちがあるんだな。よかったな、坊主」
 男に同意を求められたアレスセウスだったが、何と返答してよいか分からず、苦笑いを浮かべるしかできなかった。
 しかし、アレスセウスは少しだけほっとしていた。
 仕立て屋を出ると、アレスは数日分の食べ物を買い、村を出た。
「こんな所、長居するもんじゃねえ。用が済んだらさっさと帰るのがいい」
 アレスセウスはパンが入った籠を持ち、来た時と同じようにアレスの後をついて行く。
「あ、あの……」
 すたすたと歩いて行くアレスの背中に、アレスセウスは思い切ってこう言った。
「あの、お父ちゃんって……呼んでもいい?」
「ああん?」
 アレスが振り返る。
「なんだって?」
 聞き返され、アレスセウスはおどおどしながらももう一度尋ねた。
「お父ちゃんって、呼んでもいい……?」
 それを聞いたアレスは、大きな手でアレスセウスの小さな頭を撫でた。
「そう呼んでくれるのなら、俺は嬉しい」
「じゃあ、お父ちゃんって呼ぶね」
 はにかんだ笑顔を見せたアレスセウスの手を引き、アレスは歩き出した。
 日暮れまではまだ時間がある。家に帰って来ると、アレスは先ほど買ってきた食材を使ってシチューを作ってくれた。
 家から少し離れた所で鍋を火にかけているアレスの隣で手伝いをしながらアレスセウスが問う。
「何で家の中でやらないの?」
「竈がねえからに決まってんだろ」
「雨が降ってきたらどうするの? 料理できないよ」
「パン食えばいいだろ」
「……作ったら? 竈」
 木のスプーンで鍋をかき回していたアレスは口を尖らせ、不機嫌な子供のような顔をアレスセウスに向けた。しかし、気を悪くしたわけではないようだった。
「何でうちに竈がないと思う?」
 鍋に視線を戻し、アレスはアレスセウスに聞いてみる。
「作るのが面倒くさいから?」
 即答したアレスセウスを肘で小突く。
「俺はそんなに面倒くさがりじゃねえ!」
 ぐつぐつ煮えたぎるシチューをやけになってかき回すアレス。小突かれて地面に転がったアレスセウスは、意外にもけたけたと笑った。
「何がおかしいんだ!」
「だって、だって、お父ちゃん面白い……」
 ひいひい言いながら腹を抱えているアレスセウスに、アレスは首を傾げながらため息交じりに呟いた。
「そんなに面白いこと言ったか……?」
 このままではシチューが蒸発してしまいそうだ。
 アレスは焚火の火を消すと片手で鍋を持ち、もう片方の手でアレスセウスを持ち上げ肩に乗せた。
「おら、戻るぞ」
 アレスが一歩踏み出すと、肩に乗っているアレスセウスがとっさにアレスの赤い髪の毛を引っ張った。
「おいこら、俺の髪の毛を引っ張るな」
「ご、ごめ……。掴まるところがなかったから」
「俺がハゲたらお前のせいだぞ」
 ハゲという言葉を聞くと、アレスセウスはまたもやきゃっきゃと楽しそうに笑った。
 アレスに禿げろということなのだろうか。なんだか面白くないが、子供の笑いのツボなんて所詮こんなものだということをアレスは知っていた。
 仲良く皿にシチューを分ける。待ちに待った夕食だ。アレスセウスはお腹がぺこぺこだった。
 シチューと村で買ってきたパンを頬張りながら、アレスセウスはアレスにこんなことを尋ねた。
「ねえ、お父ちゃんって神様なんでしょ?」
 同じくパンを口に放り込んだアレスは急いでそれを飲み込むと、一言こう答える。
「そうだ」
 アレスセウスの質問は続く。
「でも、村の人はお父ちゃんのことをロクデナシって呼んでたの、なんで? ロクデナシって、ろくでもない人のことでしょ?」
「神様っつーのは、簡単に人間に正体を明かすもんじゃねえんだよ。俺は優しいから、あいつらに合わせてやってんだ。だからいいんだよ、ロクデナシで」
 今度はシチューを頬張りながら、アレスセウスは「ふうん」と言った。分かったような分からないような、そんな顔をしている。
「俺が神様だって、他の奴に喋るんじゃねえぞ。お前の頭がおかしいと思われるからな」
「うん、分かった!」
「お前……。変なところは聞き分けがいいんだな」
 何はともあれ、アレスはこの小さな少年と一緒にいるのは苦痛ではなかった。髪の色だけではなく、きっと二人には似ている部分があるのだと、そう感じる。
 お世辞にも親切で優しいとは言えないアレスを、出会って一日で「お父ちゃん」と呼んで慕うアレスセウスはただ者ではない。
 ただ、記憶を失くして頼れる人間がいない状況だから、諦めて仕方なくそう呼んでいるだけかもしれないが。
 真相がどうであれ、アレスはこの少年の正体を知っていた。知っていたからこそ、こんな不思議なことがあるだろうかと考えるのだ。

 アレスセウスが来てから数週間後、ついに家の中に竈が完成した。これでわざわざ外で焚火をしなくてもシチューが作れる。
「お前が俺のシチューを褒めるから、ついにこんなもんを作っちまった」
 口ではそう言いながらも、アレスは満足気だ。
「これで毎日シチューが食べられるね!」
「毎日? それは勘弁してくれ。料理なんて本当は面倒なんだから」
 面倒だ面倒だと言いつつ、アレスはアレスセウスのためにシチュー以外の料理も作ってくれた。近くの川で魚が取れた日にはバターと一緒にソテーにしたし、ここから遠くの西の国でよく食べられているらしいパイも作ってくれた。なぜか肉だけはいつも丸焼きだったが、アレスセウスは気にしなかった。
 ここで暮らすようになってからしばらくして気づいたが、アレスは家の他に小さいながらも鍛冶場を持っていた。時々村の人に頼まれて農具の修理をしていた。他にも、金を稼ぐために家具なども作っていたが、運ぶのが面倒だという理由で作る作業はわざわざ村まで出向いてやっていた。
 しかし、ロクデナシの性格が災いしてかあまりアレスにものを頼む村人はいなかった。
 二人が初めて出会った日から半年。季節は冬になろうとしていたある日、アレスは珍しく頼まれた農具の修理をしていた。とはいっても鍬一本なので、あまり金になりそうではない。
 アレスは修理した鍬と少しの金をアレスセウスに持たせてこう言った。
「この鍬をルッツっていうジジイに渡して金をもらって来い。そんで、そのついでに何か食べる物を買って来い」
 アレスセウスは銅貨が入った小さな皮袋を首から下げ、修理し終わった鍬を持って一人村へと向かった。
 ルッツおじさんの家は知っている。学校の傍の小さな家だ。ルッツおじさんはロクデナシとその子供に時々物と仕事をくれるいい人だった。
 寄り道をするなときつく言われていたアレスセウスは、村に入ってから一度もわき目を振らずおじさんの家を目指していた。しかし、初めてここへ来た時から気になっていた学校の前でつい立ち止まってしまった。
 子供たちが勉強をするというこの場所は一体どんな所なのだろう。
 すると、勉強というものが終わったのか子供たちが学校から次々に出て来た。その中の誰かがアレスセウスを見て声を上げた。
「あっ! 見ろよ。あいつ、いつもロクデナシと一緒にいる子供だ」
 アレスセウスよりも年上だと思われる少年は背が高くて切れ長の目をしていて、他に二人の同年代の少年を従えるように連れている。一人はそばかすだらけの背の低い少年で、もう一人は背も高いが太っていた。三人とも髪の毛は黒く、瞳も黒かった。
 村の子供と話したことのないアレスセウスは彼らに一歩近づいた。
 友達になりたくて。
「あの……」
 アレスセウスが口を開くのよりも早く、そばかすが言った。
「お前、よそ者だな。名前は何ていうんだ」
「僕はアレスセウス! 君たちは?」
 名前を聞いてもらえたのが嬉しくて、アレスセウスは満面の笑みでそう答える。しかし、少年たちはアレスセウスの質問には答えず、なぜか爆笑した。
 笑いながら、切れ長の目の少年が馬鹿にするようにこう言った。
「アレス? アレスセウス? お前の親はお前にひっでえ名前をつけてくれたんだな」
 言われている意味が分からず、アレスセウスは首を傾げながらも少年に言った。
「僕の名前はお父ちゃんがつけてくれたんだよ」
「お父ちゃんって、ロクデナシのことか?」
 太っている少年が尋ねる。
 村の人がどう呼ぼうと勝手だがアレスセウスはアレスのことをロクデナシなんて思っていなかった。だが、仕方なく頷く。すると、また少年たちは笑った。
「お前のオヤジは正真正銘のロクデナシだあ! 自分の子供にバカな戦いの神様の名前をつけるなんて!」
「バカな神様?」
 切れ長の目の少年に問うと、彼は笑いながらもご親切にバカな神様のことを教えてくれた。
「知らないのか? 戦いの神アレスのこと。戦好きで暴れん坊で、父親のゼウス様に縁を切られたんだよ」
「そうそう」
 そばかすが口を挟む。
「きょうだいであるアテナ様やアポロン様は聡明な神様だけど、アレスはバカだから戦うことしか頭にないんだ。それなのに、戦場では何の功績も挙げてない」
「しかもしかも」
 さらに太った少年までもが口を挟む。
「この近くに神殿があるけど、拝みに行く人なんて一人もいないよ。特に、ロクデナシがあの辺に住み始めてからは近寄る人もいない」
 三人はアレスセウスを無視し、顔を突き合わせてくすくすと笑った。
「ロクデナシはきっと、自分に似ているアレスを信仰してるんだ。だからあんな所に住んでるし、子供にも変な名前をつけるんだ」
 切れ長の目の少年がそう言うと、三人は大きな笑い声を上げながらアレスセウスの前から去って行ってしまった。
 取り残されたアレスセウスは三人の後ろ姿をただ見ているしかなかった。持っていた鍬がものすごく重く感じる。
 少年たちの姿が見えなくなると、アレスセウスは重い足取りでおじさんの家へ向かった。元気のないアレスセウスを心配したおじさんはじゃがいもをたくさんくれたが、それがまた悲しくなるほど重かった。
 小さな子供に持たせるには非常識な量のじゃがいもを背負い、アレスセウスはとぼとぼと村を出る。
 途中、あの少年たちがそんなアレスセウスの姿を見てまた笑っていた。
「お父ちゃん、ただいま」
「おう、帰って来たか。そのでかい袋はなんだ」
「おじさんがくれたんだ。じゃがいもだよ」
 袋の中身を聞いて、アレスは苦笑いを浮かべた。
「こんなにたくさんどうしろってんだよ、あのジジイ。金はもらってきたか?」
「あっ」
 少年たちとのことに気を取られ、代金を受け取るのをすっかり忘れていた。
「お前、何しに村へ行ったんだよ。ったく、こんなイモばっかりもらってきやがって」
 お使いの途中で散々な目に遭い、帰って来てからも叱られたアレスセウスはすっかり意気消沈してしまった。
 夕飯の茹でたじゃがいもも喉を通らない。いつもの食欲はどこへやら、その晩は小さなじゃがいもを一つ食べただけだった。
 さすがに心配になったのか、ベッドの上で寝る支度をしていたアレスセウスにアレスが声を掛けた。
「アレスセウス、そんな顔すんなよ。さっきは俺も言い過ぎた。別にイモが嫌いなわけじゃねえけど、さすがにこの量はちょっとなあ……」
 珍しく謝ってきたアレスに、アレスセウスは困惑を隠せない。
「あ、ううん。お父ちゃん、気にしないで。心配させてごめんね」
 さすがに本当のことは話せなかった。昼間のことを話せばアレスは傷つく……のではなく、かなり怒るに違いなかった。いくら本人が気にしていない風を装っていても、バカだのロクデナシだの言われて気分が良いわけがない。それに、アレスセウスは少年たちの話を信じていなかった。
「お父ちゃん」
 小さな声でアレスセウスが言う。
「お父ちゃんは、本当はロクデナシなんかじゃないよ。そうでしょ?」
「なんだよ、いきなり」
 アレスはアレスセウスの傍に来て、いつものように赤い頭を不器用に撫でた。
「村の奴らに何か言われたのか? そんなの、いちいち気にすんな。言いたい奴には言わせておけばいい」
「だけど、お父ちゃんはロクデナシなんて言われて悔しくないの?」
 アレスセウスが問うと、アレスはううんと唸り腕を組んだ。しばし考え、ゆっくりとこう言った。
「悔しくないって言ったら嘘だが、そんな連中にいちいち噛みつくのは面倒だなあ」
 アレスらしい答えに、アレスセウスは少しだけ笑った。
「俺は別に何を言われてもいいさ。村でもそれなりの振る舞いしかしていないし。でもな……」
 アレスはアレスセウスの肩を抱いて自分の方に引き寄せた。
「自分のことは我慢できても、お前のことはダメだ」
 黙っているアレスセウスの顔を、アレスはそっと覗き込んだ。
「俺のせいで村で嫌な思いをしたんだろう。言わなくてもそれくらい分かる」
「お父ちゃんのせいじゃないよ」
「隠さなくていい。俺には分かるんだ」
 二人の共通点は髪の色だけではない。燃えるような真赤な瞳もよく似ていた。
 いつになくアレスが優しいのでアレスセウスは少し泣きそうになったが、どうにか堪える。
「なあ、アレスセウス」
 瞳を覗き込んだまま、アレスが言った。
「気に入らない奴がいたら、ぶっ飛ばせ。俺が許可する」
「えーっ!」
 その言葉に、出かかっていた涙もすっかり引っ込んでしまった。先ほどと言っていたことが矛盾しているではないか。しょうもない奴の相手をするのは面倒なのではなかったのか。
 戸惑うアレスセウスだが、アレスは子供のように目をきらきらさせていた。口では面倒だなんて言っているが、相当の喧嘩好きに違いない。
「あー、でも、本気でやるなよ。俺もお前も普通の人間とは違うから、うっかりすると相手の息の根を止めちまう」
「僕、人間じゃないの?」
 アレスセウスの素朴な質問にアレスは一瞬言葉を詰まらせた。そして、苦し紛れに一言。
「俺もお前も、馬鹿力だってことだよ」
 アレスセウスは自分が年齢にそぐわない腕力を持っている自覚などなかった。しかし、アレスが言っていることが本当なら、暴力は一番やってはいけないことのように思えた。
 アレスセウスは真剣な表情で言った。
「やっぱり暴力はだめだよ。ね、お父ちゃん」
「殴っていい時もあんだよ……」
 アレスセウスの言葉にそう返したものの、その純粋な眼差しのせいで言葉が濁る。
「あー、もういい!」
 そう言うと、アレスは立ち上がって自分のベッドの方へ行き寝転がった。
「考えるのは面倒くせえ。寝ろ寝ろ」
「うん。明かりを消すね」
 ロウソクを消し、アレスセウスは野良犬の臭いがしない毛布にくるまった。
 この家の匂いにも、アレスのいびきにもすっかり慣れた。だけど、あの村の雰囲気に慣れるまでにはもっともっと時間がかかりそうだった。
 つづく
→2

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