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ラジエルの書第五十五巻―悪魔たちの王―  7

 まだ日も昇りきっていない頃、ソラはいつもなら絶対に入ることができない食料庫にいた。
 そこには、奴隷用の食事には決して使われることのない高級な肉や、菓子を作るための砂糖、卵等が溢れんばかりに置いてある。
 今日だけは、その食材をどれだけ使っても構わないとあの公爵が言ったので、ソラは手にした籠に片っぱしから食材を詰め込んでいった。
 ローストビーフのサンドイッチが作りたかったので、いの一番に牛肉の塊を手に取った。
「これこれ! 昔お姉さまと一緒に食べたやつ」
 お姉さまというのは、ソラが幼い頃この屋敷で働いていた先輩娼婦のことだ。
「お姉さまったら怖いもの知らずで、ここに忍び込んでお肉を勝手に持って来て私に食べさせてくれたっけ……」
 それ以来、ソラは彼女に何度もローストビーフの作り方を尋ねたので覚えていたが、肝心の肉が手に入らないので一度も挑戦したことはなかった。
 上手く作れるかは分からないが、フランベルジュとリオラは絶対に喜ぶに違いなかった。
 あとはお菓子も作ろう。
 そう考え、ソラは食料庫の中を見回した。
 お菓子と言えば、この頃街ではケーキというものが流行しているらしかったが、ソラはそれを一度も口にしたことはない。
「やっぱり、お菓子といったらクッキーよね! ケーキは作り方を知らないし」
 ソラは迷わず小麦粉とバター、そして砂糖を籠に入れ、食料庫を出た。
 早く調理に取りかからないと、出掛ける時間に間に合わなくなってしまう。
 フランベルジュとリオラの喜ぶ顔を想像しながら、ソラはうきうきした気分で竈に火を点け、パンの生地を捏ねた。
 夜明けはもうすぐだ。

 そろそろ出掛ける頃だと思い、フランベルジュは身支度を整えて部屋で待機していた。
 窓の外は快晴で、天気の心配は必要なさそうだった。
 しばらく待っていると、いつになく浮かれた様子のリオラが部屋へやって来た。
「フランベルジュー! ソラちゃんが準備できたって!」
「そうか。では、行くか」
 フランベルジュとリオラが屋敷の玄関へ行くと、そこには大きなバスケットを三つ持ったソラが待っていた。
「わ! それ何が入ってるの?」
 リオラがバスケットの中身に興味を示す。
「だめ! 向こうに着いてからのお楽しみ!」
 バスケットを開けようとしたリオラをさらりとかわし、ソラはふふっと笑う。ソラもリオラと同様、いつもよりもずっと楽しそうであった。
「じゃあ、僕一つ持つよ」
 そう言ってリオラがソラからバスケットを一つ受け取った。
「私も持とう」
 フランベルジュが手を差し出すと、ソラは遠慮なくもう一つのバスケットを手渡した。
「二人ともありがとう。じゃあ、行きましょうか」
 リオラが行きたがっていた場所に行くには、まず街を出なければいけなかった。三人はとりあえず街の出入り口である門を目指して出発した。
 街はいつもと変わらず活気づいていて、いろんな露店がそこかしこに並んでいた。
 街中を歩きながら、リオラはずっときょろきょろと辺りを見回していた。
「リオラ君、どうしたの?」
「え、あ、うん。ちょっとね……」
 そんなリオラの様子に、ソラはフランベルジュと顔を見合わせ、小首をかしげた。
 しばらく歩くと、リオラが急に立ち止まる。
「あ! フランベルジュ、ちょっとここで待ってて!」
「お、おい! どこへ……」
 フランベルジュにバスケットを手渡し、リオラはさっと駆けて行ってしまった。
 残されたフランベルジュとソラは事態が飲み込めず、一瞬その場に立ち尽くしてしまった。
「リオラ君、どうしたのかしら……」
 普段は勝手な行動をするようなことはしないので、ソラは少し不安になった。
「……仕方ない。ここで待とう」
 二人は通行人の邪魔にならないよう道の端でリオラを待つことにした。
 街には人が多く、リオラの姿はどこにも見当たらない。一体どこまで行ってしまったのだろうか。
 人混みの中でリオラの姿を探しながら二人が待っていると、向こうから小さな馬車がやって来た。リオラを探していた二人は馬車など眼中になかったが、なぜかその馬車は二人の前で止まった。
「ソラ? ソラなの?」
 馬車の扉が開き、中から青いドレスを着た金髪の若い女性が降りて来た。
 自分の名前を呼ばれて驚いたソラは、馬車から降りてきた人物を見てもっと驚いた。
「ティーナお姉さま?」
 ティーナと呼ばれた女性は、ドレスの裾を持ち上げ、小走りでこちらに駆けて来た。
「ああ、やっぱりソラね!」
 ティーナは人目も気にせず、これでもかと言うくらいソラをぎゅっと抱きしめた。
「元気そうで安心したわ。あなたはまだあのお屋敷にいるのよね? あたし、あなたのことが心配で心配で……。何度もあなたをあそこから助け出そうとしたのよ。でも、ガルヴァーニったらあたしの話を聞いてもくれなくて……。あら?」
 両手にバスケットを持ったまま立ち尽くしているフランベルジュを、ティーナの目が捉えた。
「あちらの人は?」
 ティーナが小声で尋ねたので、つられてソラも小声で返す。
「えっと、あの人は今の私のご主人様……。お姉さま、えっとね……」
 ソラが簡単に今までの経緯を説明すると、ティーナは顔を真赤にして怒りを露わにした。
「なんですって? ガルヴァーニはあなたをあの人に下げ渡したってこと? なんてこと! あたし、今から屋敷へ行ってあいつをぼこぼこにしてくるわ」
 ティーナが踵を返しかけたので、ソラは必死にそれを引き留めた。
「お姉さま! そんなことしたら大変よ。それに私、フラ……今のご主人様で満足してるのよ」
 フランベルジュの手前下手なことは言えないが、ソラはなんとかティーナに現状満足していることを伝えようとした。
 ティーナはフランベルジュをまじまじと見つめ、ソラに言った。
「あなた、あの人のことが好きね。違う?」
「お、お、お、お姉さま!」
 今度はソラが恥ずかしさで顔を赤くしたので、ティーナはくすくすと笑った。幸い、少し離れたところに立っているフランベルジュには聞こえていないようだ。
「じゃあ、あなたはあの人と幸せになるのね?」
「ううん、お姉さま。それは無理なの。いろいろと複雑な事情があって……。私、きっとまた公爵の……」
 それ以上は言わなかった。ソラはそれを望んではいなかったからだ。もちろんティーナにも、そんなソラの気持ちは伝わっていた。
「あなたの気持ちは分かるわ。その事情ってやつがどんなものかは分からないけど……。あたしね、本当にあなたのことが心配なのよ。あなたもう十八でしょ? あのロリコン公爵のことだから、きっとすぐに新しく若い娼婦を屋敷に入れるわ。そうしたら、あなたは捨てられてしまうわ。あたし、そんなの見てられない。そうなる前に、あなたには幸せになってほしいの」
 ソラは目を潤ませてティーナの話を聞いていた。
「ねえ、ソラ。あの黒い髪の子と結婚するなら、あたしも結婚式に呼んでね。でも、もし……。もしそうならなかった時は、どんな手段を使ってでもあたしに連絡をして。いいこと? その時はあたしもどんな手段を使ってでもあなたを助けに行くわ」
「お姉さま……」
 ソラが何も言えずにいると、ティーナは優しくソラの手を取った。
「長話が過ぎたわね。あたしはもう行くわ。今言ったこと、絶対に忘れないでね」
 そうして最後に、バスケットを持ったままのフランベルジュに向かってこう言った。
「ソラをよろしくお願いしますね!」
「え? あ、はい」
 戸惑いつつもそう答えたフランベルジュに、ティーナは満足げに微笑んだ。
「じゃあね、ソラ」
 ティーナは待たせていた馬車に乗り込み、街の門の方へと去って行った。
 それを見送るソラに、フランベルジュが近づいて話しかける。
「姉か?」
「実の姉じゃないわ。ティーナお姉さまは私が小さい頃屋敷で働いていた娼婦よ」
「……そうか」
「フランベルジュ、あのね……」
 ソラが言葉を続けようとした時、少し遠くの方からリオラの声が聞こえてきた。
「フランベルジュー! ソラちゃーん!」
 声のする方を見ると、リオラがこちらに走って来る。
「あ、やっと戻って来た」
 ソラはリオを見て微笑むも、すぐにフランベルジュに向き直り、言った。
「帰ったら話したいことがあるの」
「分かった。部屋で待っている」
「ありがとう」
 話している間に、リオラが息を切らせながら二人のもとに辿り着いた。両手には何やら黄色い物をたくさん抱えている。
「ご、ごめん。僕、どうしてもこれが欲しくて」
 ソラがリオラの持っていた黄色い物の一つを手に取る。形は細長く、甘い匂いがした。
「これ、なに?」
 ソラが尋ねると、リオラは困った顔で首をかしげた。
「わ、分からないよ……。でもそれ、食べるとおいしいみたい。本当はもっとたくさん束で売ってるんだけど、ご主人様に頼んだらちょっとしかお金をくれないからそれしか買えなかったんだ」
「あら、ご主人様ったら意外にケチね」
 そう言ってソラが笑うと、リオラもつられて笑い出す。そんな二人を微笑ましく思いながら、フランベルジュは二人の先を歩き出した。
「ほら、行くぞ。早くしないと日が暮れる」
 ソラはリオラが買ってきた黄色い食べ物をバスケットに入れ、フランベルジュの後を追う。リオラもフランベルジュの傍へ行き、預けていたバスケットを手に取った。
 なんのお咎めもなく街の門をくぐり外へ出ると、三人はそこで足を止めた。
「ここから南に行けばいいんだな?」
「うん!」
 リオラは威勢よくそう言ったものの、どっちの方向が南なのかはよく分かっていなかった。しかし、リオラに確認した後フランベルジュがさっさと歩き始めたので、リオラは少し心配そうに聞いた。
「南って……こっちなの?」
「太陽の位置からすると、こっちであっているはずだ」
「え! 太陽の位置で方角が分かるの?」
「雲がなければ星でも方角が分かる」
「そうなの? なんかよく分からないけど、すごいね!」
 フランベルジュにとっては当たり前の知識だったが、あまりにリオラが感心するので、フランベルジュは気恥ずかしさから苦笑いを浮かべた。
 フランベルジュが持っている知識にこんなに素直に驚いてくれたのは、リオラが初めてだった。
 ディアスもじいさんも物知りだったので、フランベルジュが得た知識以上のことをいつも教えてくれていた。
 いつ使うか分からないことまで真面目に勉強をしてきたが、まさかこんな形で役に立つとは思っていなかった。
 三人でお喋りをしながら歩いて行くと、やがて周囲は砂の大地から森に変わっていた。フランベルジュのおかげで三人は間違いなく南の森へやって来たのだ。
「大きな木、探してみようよ」
 そう言うと、リオラが森の奥へ駆けて行く。
「リオラ君! 一人で走ると迷子になるわよ」
 ソラがリオラを追って走り出したので、フランベルジュも遅れないようについて行く。
 二人について行きながら、フランベルジュは森の様子を観察していた。もしかしたらここは、フランベルジュが街へ連れて行かれる途中で通った場所かもしれない。
「二人とも、早く来て! あったよ!」
 先に駆けて行ったリオラの待つ場所へ行くと、確かにそこには他の木々よりも大きな木があった。しかし、大きさ以外は他の木となんら変わりはない。
「本当にこれ? なんかすごく普通の木に見えるんだけど……」
 木を見上げ、ソラがものすごく微妙な表情を浮かべる。それでも、この木よりも大きな木はこの辺りには一つも見当たらない。
「ま、いっか。ここでお弁当を食べましょう」
 ソラが木の傍に腰かけてバスケットを開けたので、中身が気になって仕方がなかったリオラはすぐさまソラの隣に座った。
「フランベルジュも来て。みんなで食べましょう」
 森の様子を見ていたフランベルジュも、リオラとソラと同じく木の傍に座った。
 ソラがバスケットの中身の説明を始める。
「これがローストビーフのサンドイッチで、こっちが卵でしょ。あと、こっちはクッキーよ」
「ろ、ろーすとびー? これ、お肉? おいしそう!」
 普段は肉なんて絶対に口にすることができないリオラは、ローストビーフのサンドイッチに興味津々だった。
 ソラは笑いながらバスケットの中のサンドイッチをリオラに手渡す。
「きっと気に入るわ。食べて。はい、フランベルジュも」
 フランベルジュは手渡されたサンドイッチを口いっぱいに頬張った。柔らかい肉にみずみずしい葉物野菜、そしてふわふわのパン。口の中がいっぱいだったので声が出なかったが、それは今まで食べたことがないくらいおいしいサンドイッチだった。
 リオラも口元を綻ばせながらサンドイッチを頬張っていた。声には出さずとも、二人の顔を見ればサンドイッチがどれほどおいしかったのかが分かる。
「ね、おいしいでしょ?」
 ソラが問うと、二人はこくこくと頷いた。
 友達と一緒に外で食事ができることがよほど嬉しかったのか、リオラはソラ手作りのサンドイッチをフランベルジュよりもたくさん食べた。
「僕、こんなに楽しいの生まれて初めてだよ。ソラちゃん、フランベルジュ、ありがとう」
 素直なリオラの言葉に、ソラもフランベルジュも心から嬉しく、そして楽しいと思った。
「私もよ。フランベルジュとリオラ君がいるから、こうして外へ出られたのよね」
 二人が笑いあうのを見ながら、フランベルジュはソラが作ったクッキーに手を伸ばした。実はソラは、フランベルジュが甘い物を好まないかもしれないと思っていた。しかし、フランベルジュは甘い物、特にクッキーが大好きだった。
 何の躊躇いもなくクッキーを頬張る。
 あら、あら……。どうしたの? 父さんと何かあったのね?
「……さん?」
 じゃーん。母さんの手作りクッキーよ!
「母さん……」
 なぜだか、クッキーを食べたら母の声が聞こえた。
 フランベルジュ、父さんと一緒にクッキー食べないか?
「父さん……」
 え……。食べないのか? クッキー好きだろ?
「父さんのは、いらないよ」
 ふっと口元に笑みが浮かんだかと思うと、今度は急激に目頭が熱くなった。
 涙がこぼれないよう必死に堪えたが、リオラとソラに感づかれないように下を向いていたので、涙の粒がぽろぽろとこぼれた。
「あれ? フランベルジュ、泣いてるの?」
 フランベルジュの様子に気づいたリオラが、心配そうに顔を覗き込んでくる。
 泣いているのを見られるのが恥ずかしかったフランベルジュはとっさに涙を拭い、「なんでもない」と、言って誤魔化そうとした。
 すると、それを見ていたソラが静かに言った。
「泣いても……いいんじゃない? フランベルジュは今まで十分頑張ってきたよ。知らない場所で、辛かったでしょう」
 せっかく無理矢理涙を止めたのに、ソラの一言でまた涙が頬を伝った。
 辛いなんて、思ったことはない。だけど、無理に思わないようにしていただけかもしれない。強い自分でいなければいけないと思って、誰にも弱音なんて吐けなかった。
「フランベルジュ……」
 リオラはフランベルジュの顔を覗き込み、そして傍にある大きな木を見上げた。
「ぼ、僕ね、この木にお願いする! フランベルジュとソラちゃんと僕が、ずっと一緒にいられますようにって!」
「あら、私たちがずっと一緒にいたら、フランベルジュは国に帰れなくなっちゃうわよ」
 ソラに指摘され、リオラは慌てて願い事を修正した。
「えっと、じゃあ、いつか僕ら三人がずっと一緒にいられる日がきますように! こ、これでいいかな?」
「いいんじゃない? ね、フランベルジュ」
 フランベルジュはもう一度涙を拭い、今度は笑顔でこう答えた。
「そうだな。私も同じことを願おう」
 この木が本当に願い事を叶えてくれるのかは誰にも分からない。それでも、三人はそう願わずにはいられなかった。
「そうだ。リオラ君が買ってきたこの黄色い食べ物、食べてみない?」
 ソラがバスケットに残っていた黄色くて細長い物を取り出す。しかし、三人ともそれを手にするもどうやって食べるのかが分からない。
「これ、どうすればいいのかしら」
 考えるソラに、フランベルジュが言う。
「皮を剥いたら食べられるんじゃないか……?」
 フランベルジュの提案に、リオラがうんうんと頷く。
「このままかじったら苦かったから、きっと皮を剥かなきゃいけないんだね、この食べ物」
 見ると、リオラが持っていた黄色い食べ物には歯型がついていた。とりあえずかじってみたらしい。
 触ってみた感じでは皮は厚そうだ。フランベルジュは黄色い物の先端についている茎のようなものを折ってみた。すると、きれいに皮が剥けて中から白い実が出てきた。
「わ! 中身はそんなふうになってるんだ。僕も……」
 リオラもフランベルジュの真似をして、黄色い食べ物の皮を剥いた。そして、一口。
「とっても甘い! フランベルジュ、ソラちゃんも、食べてみて!」
 嬉しそうに黄色い食べ物を頬張るリオラを微笑ましく思いながら、フランベルジュとソラもそれを食べてみる。
 なんという名前の食べ物なのかは分からないが、甘くておいしかった。
「フランベルジュとコロッセウムに行く途中にこれを売ってるお店を見つけたんだ。どうしても食べてみたくてご主人様にお願いしてみたら、ほんのちょっとだけお金をくれたんだよ」
「なんだ。街ではぐれたのはそれを買いたかったからだったのね。言ってくれれば一緒に探してあげたのに」
 ソラが言うと、リオラは照れ笑いを浮かべる。
「二人をびっくりさせたかったんだ」
 天気もよく、とても気持ちのいい午後だった。
 三人は木に願い事をしてソラの弁当を食べ終えると、名残惜しみながらも屋敷へ帰らなければいけなかった。
 このまま逃げ出せたらいいのに。
 そう思ったのはフランベルジュだけではなかった。
「また、遊びに行けるかな」
 帰り道、リオラがぼそりと呟いた。
「外に出られなくても、三人でまたフランベルジュのお部屋に集まってトランプをすればいいわ」
 そう言って、ソラが笑う。
「そっか。そうだね!」
 森を出て、再び街の門をくぐる。屋敷はもうすぐそこだった。
 三人が屋敷へ戻っても、出迎えなどいない。明日からはまた今までと同じような生活に戻るのだ。
 夕食を三人で済ませた後、フランベルジュは一人部屋でソラが来るのを待っていた。ソラが夕食の後片付けをするまでの間だったが、なぜかとても長い時間に感じた。
「フランベルジュ、入るね」
「ああ。そこに座ってくれ」
 二人はテーブルに向かい合って座ったが、今夜はトランプをするわけではない。座ってから間を空けず、ソラが口を開いた。
「昼間私と話していたのは、ティーナお姉さまといって、昔この屋敷で働いていた娼婦なの。まだ小さかった私にいろんなことを教えてくれたわ。この屋敷のことやご主人様のこと、お料理も……。血は繋がってないけど、本当のお姉さまみたいだった」
 フランベルジュは頷くだけで、黙ってソラの話を聞いている。
「お姉さまは気が強い人だったからご主人様はご自分の手に余ると感じて、私がこの屋敷に来てから一年も経たないうちに、お姉さまはご主人様のお友達のところへお嫁に行ったのよ」
「彼女は自由になったということか? 奴隷だったのに?」
 フランベルジュが問うと、ソラはくすくすと笑った。
「そうよ。ご主人様のお友達が、お姉さまをいたく気に入ったの。それで、お姉さまも幸せになれるしご主人様も厄介払いができると喜んで、お嫁に行ったの。お姉さまは今、この街から離れた所にある城下町に住んでいるんですって。変な話でしょ? 奴隷娼婦だったのに、お金持ちの家にお嫁に行ったのよ」
 娼婦という言葉を聞くと、フランベルジュは複雑な表情を見せた。事情を知っていたソラは、動じることなく言葉を続けた。
「リオラ君から聞いたわ。フランベルジュはもう娼婦が何か、知っているでしょ。だからって気を使わなくていいのよ。私、隠していたわけじゃないし」
「そう……だな」
 こんなふうに言ってしまっていいのかと返事に困ったが、フランベルジュはそう言うしかなかった。
 そして、ずっとソラに聞いてあみたかったことを聞いてみた。
「ソラは……自由になりたいとは思わないのか。その、姉のように」
「自由……か」
 ソラはフランベルジュから視線を逸らし、その後ろにある窓の外を見た。そして、意外な言葉を口にする。
「私ね……ご主人様に愛されているのよ。だから、幸せなの。自由なんていらないの」
 フランベルジュの心臓がどきりと跳ね上がる。表情も固まった。しかし、ソラはすぐに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「なーんて。数年前の私なら言ったかもしれないわね」
「と、いうのは?」
 心の中でほっと息をつきながら、フランベルジュが問う。すると、ソラは少しためらいながらこう言った。
「まあ、要するに勘違いってやつよ。私はご主人様が買った奴隷だから、ご主人様を満足させるのは当たり前。そういう行為をしたからって、別にご主人様は私を愛しているわけじゃないわ。それが、幼い私には分からなかった。きっとご主人様は私を愛してくれているんだと思ってた。だから、別に自由なんていらなかったの」
 ソラは自嘲気味に笑う。
「お姉さまは私に言ったの。愛されてなんかいない、私たち娼婦はただの道具だって。その通りだったわ。私ね、もうすぐここから追い出されるの。ご主人様は若い女の子が好みだから、もう私は不必要。だから、ご主人様は私を遠ざけるために、あなたに下げ渡したのね」
 そう言いながら、自分で自分を納得させようとしていようにも見える。
 恋とか愛に疎いフランベルジュだったが、自分の欲のために女性を道具のように使い捨てる感覚はよく分からなかった。お金で奴隷や女性を買うという考えが理解できない。
 フランベルジュは思い切ってその思いをソラに話した。すると、ソラは大きく頷いた。
「フランベルジュがそういう人でよかった。お金で人を売買するなんて、普通じゃないわ。でも、この国の人たちはそれを当たり前だと思ってる。私だって、ティーナお姉さまがいなかったら自分の身分を仕方のないものだと諦めていたと思う……。娼婦の中には好きでその仕事をしている人もいるし、お金のために仕方なくやっている人もいるわ。だけど、私は自分の性を売り物になんかしたくない。自分が少しでも好意を寄せた人が求めているのが私の体だけなんて……。そんなの、いや。体じゃなくて、私自身を見て欲しい。普通に愛されて、幸せになりたかった」
「ソラ……。お前は自由に生きる権利がある。幸せになる権利も……」
 奴隷や娼婦に自由に生きる権利があるなんて、この国の人間は誰も思わないだろう。そう言ってもらえたことは嬉しかったが、ソラは目にいっぱい涙を溜め、言った。
「私は……卑しい娼婦よ。普通の娼婦とは違う、奴隷なの。自由に生きたい。誰かに愛されたい。でも、どうやって? 誰が奴隷の私を愛してくれるの? お姉さまのように上手くはいかないわ」
「だけど、まだそうと決まったわけでは……」
 フランベルジュが口ごもる。ソラと話していると、今までに感じたことのない妙な感情が胸の中に現れるのだ。
 そうして次の瞬間ソラが発した言葉で、フランベルジュはその感情の正体を知った。
「私が思いを寄せているのがフランベルジュ、あなただって知っても、同じことを言える?」
 フランベルジュは絶句した。ソラの顔を直視したまま、頭の中が真っ白になってしまった。
 こんな告白をしてフランベルジュを困らせてしまった。
 そんなふうに思ったのか、ソラは、俯いて静かに泣いた。
普通の人なら、娼婦に本気の愛の告白なんてされたら、鼻で 笑うか酷く困惑するに決まっている。
 だが、ソラの常識が通用しないのがフランベルジュという男だった。今まで女性との交流もほとんどなく、当然お付き合いしたこともないフランベルジュは、どうしたらいいのかさっぱり分からない。こういう時、どんなふうに返事をしたらよいのか、真っ白な頭では考えられない。
 口が半開きのまま目線を泳がせると、壁に立て掛けてある剣の傍に、なんとベリアルの姿があった。笑っている。
「ハッキリシロ。男ダロ」
 フランベルジュが助けを求めるような視線をベリアルに向けると、ベリアルは笑いながらも強くこう言った。
「自分ノ気持チヲ大切ニシロ。ディアスハオ前ノ愛シタモノヲ同ジヨウニ愛シテクレル。民ハオ前ニ絶望シハシナイ」
 それでもフランベルジュが迷う素振りを見せると、ベリアルはさらにフランベルジュに言葉を投げかける。
「ソレトモ、オ前モ娼婦ヲ差別スルノカ? クダラン……。身分ナド、ソノ人間ヲ判断スル材料ニハナリ得ナイ。決メルノハ、オ前ダガナ」
 すっとベリアルの姿が消えた。
 フランベルジュは泣いているソラに向き直り、意を決して口を開いた。
「ソラが……ソラがそう言うなら、私は……」
 俯いていたソラが顔を上げる。もう泣いてはいない。
 顔を赤くしながらそう言ったフランベルジュを見て、ソラは一瞬微笑んだと思ったら、そのまま笑い始めた。
 フランベルジュはきょっとんとソラを見つめる。
「フランベルジュったらもう……。すぐ本気にするんだから」
 そして、衝撃的な一言が飛び出してきた。
「冗談よ、冗談。ちょっと言ってみただけ」
「じょ……冗談?」
 フランベルジュの顔からさっと熱が引いていく。耳元でベリアルがでかい声で大笑いしていた。
 うわあああああああああああ!
 フランベルジュは机に突っ伏して頭を抱えた。今まで生きてきて、こんなにも恥ずかしい思いをしたことがあっただろうか。
「フラレタ」
 ベリアルが何度もそう言いながら笑う。口答えの一つでもしてやりたかったが、ソラがいる前では何も言えない。
 一方ソラは、予想を遥かに超えてショックを受けているフランベルジュの姿に戸惑っていた。
 本気の告白はフランベルジュにとって人生初めてのことだったが、ソラ自身も同じだった。真剣に答えてくれたフランベルジュだったが、ソラはついいつもの癖で、はぐらかすような態度をとってしまった。
 ソラは苦笑しながらも、フランベルジュの頭にそっと手を置き、こう言った。
「ありがとう、フランベルジュ。真面目に答えてくれたのよね。それだけで、十分よ。ありがとう」
 冗談だと言ったわりにはソラの表情がひどく悲しそうだったので、フランベルジュはどうもすっきりしなかった。しかし、こう言われてしまった以上はどうすることもできなかった。
 するとまた、ベリアルが二人の間に割って入るように言葉を発した。
「オ喋リハ済ンダカ。外ヘ通ジル道ヲ見ツケタゾ。奴隷用ノ厨房、水瓶ノ床下。ソコカラ地下水路ヲ経テ外ヘ出ラレル」
 フランベルジュはがたっと立ち上がり、ソラを見た。
「ど、どうしたの?」
 ソラは驚いて自分も立ち上がる。
 すると、フランベルジュが傍まで来て、力強くソラの肩を掴んだ。
「こんな所に……。こんな所にいるから、お前は自由になれない。ここを、出よう。ここを出て、新しい生活を始めるんだ」
「え? ちょ、ちょっと何言ってるの? フランベルジュ?」
 戸惑うソラに構わず、フランベルジュは勝手に話を進める。
「奴隷用の厨房の床下に、外へ通じる地下水路があるんだ。リオラも呼んで来て、三人で外へ出よう!」
「ほ、本当に? 本当にそこから外へ出られるの?」
 半信半疑ではあるが、ソラは胸が高鳴るのを感じた。一人なら絶対に逃げ出すことなんて考えない。しかし、フランベルジュとだったら……?
 ソラは急いで、でもなるべく静かにリオラを起こしに行き、フランベルジュの部屋へ連れて来た。そこでリオラは事の成り行きを知ると、眠気も吹っ飛んだ。
「外へ出たら、ひとまず私の国まで一緒に行こう。後のことはそれから考えればいい」
 リオラの心は不安でいっぱいだったが、ソラと同じくフランベルジュと一緒ならここを出てもいいと思っていた。
 一緒に行く決意をし、リオラは言う。
「よ、よし。じゃあ厨房まで行ってみようよ」
「そうね。本当に地下水路があるか確かめてみなくちゃ」
「そうだな。行こう」
 三人はこそこそと部屋を出て、一階にある厨房へと向かう。途中で人に会うと面倒なので、なるべく音を立てないよう静かにしなければならなかった。
「水瓶はどれだ」
 厨房に着くや否や、フランベルジュは二人にそう尋ねた。
「水瓶? これのこと?」
 ソラが指差した大きな瓶を、フランベルジュは渾身の力を込めて動かした。
「この下から地下水路へ行けるはず……」
 しかし、そこはただの床。隠し扉のようなものもない。
 どうすべきか悩んでいると、声が聞こえた。
「逃ゲ道ヲ分カリ易ク作ッテイル訳ガナイダロ。床ヲブッ壊セ」
 フランベルジュは剣を抜いた。
「二人とも、下がっていろ」
 リオラとソラが不安げに見守る中、フランベルジュは一瞬剣に魔力を込め、放った閃光で床を破壊した。
 暗くてよく見えないが、下へ降りられそうだった。
「さあ、行こう。早くしなければ……」
 魔法を放った時、少々大きな音がした。誰かが聞きつけてもおかしくはない。
 フランベルジュは先に暗闇の中へ降りた。思ったよりも深かったので着地する時によろめいてしまった。
 足元でびちゃ、と音がして靴が濡れた。
「リオラ、ソラ、早く降りて来い」
 上にいる二人に呼びかけると、リオラの声が返ってくる。
「ね、ねえ、そこ深くない?」
「大丈夫だ。私が受け止める」
 フランベルジュがそう言うと、リオラが思い切って床下へ飛び込む。続いてソラも、暗闇の中へ飛び込んだ。
 二人を難なく受け止めたフランベルジュは、魔法石の魔力が放つ小さな明かりだけを頼りに歩き始めた。
「ここを出れば、外なのかな」
 リオラが言うと、フランベルジュは真っ直ぐ前を見据えたまま、小さな声で答える。
「ああ。そうだといいが」
「それにしても、真っ暗ね。出口に近くなれば光が見えるかしら」
 意外にも臆する態度を見せないソラが、フランベルジュの隣を歩きながらそう言った。
 三人の足元はびしょ濡れだった。
 出口なんてないのではないかと思い始めた頃、真っ暗だった水路に、一筋の光が見えた。
 足早にそこへ行くと、重い鉄格子の向こうに月明かりが見えた。
「そ、外だ!」
 リオラが鉄格子に駆け寄る。外には草木が見えたので、どうやら街の外へ出たらしい。これなら門を通過する手間が省けたと、三人はほっと胸を撫で下ろした。
「でも、この鉄格子をどうしよう……?」
 リオラにそう言われ、フランベルジュが辺りを見回すと、傍に鉄格子を開けるためのものと思われる大きなレバーがあった。
「これか!」
 フランベルジュが重いレバーを引くと、鉄格子はそれに合わせてゆっくりと開いた。
「これで、外に……」
 しかし、そう簡単に事は進まなかった。フランベルジュがレバーから手を離した瞬間、鉄格子は無情にも再び閉じてしまった。
「そんな……」
 ソラは立ち尽くしたまま、落胆の声を上げる。リオラも言葉が出ない。
「くそっ! ここまで来て!」
 フランベルジュは苛立ちをぶつけるように、剣を鉄格子に向け、魔法の閃光を放った。眩い光が辺りを包んだが、鉄格子はびくともしなかった。
「くっ……。どうすれば……どうすればいい!」
 肝心な時なのに、ベリアルは黙ったまま何も答えてはくれない。
 為す術なく、鉄格子の向こうの月を見上げていると、リオラがレバーに手を掛けた。
「僕がレバーを動かすよ。だから、フランベルジュ……。ソラちゃんを連れて外へ出て」
「リオラ、何を言いだすんだ。お前をここへ残して行くなど……」
「そうよ! 三人で行くの。私たち、三人で自由になるのよ」
 リオラはそう言う二人の顔を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「僕、嬉しかったよ。初めて友達ができて……。フランベルジュ、ソラちゃん……。ご主人様にとって僕は役立たずだけど、二人の役には立ちたいんだ!」
 フランベルジュよりもずっと細い腕で、リオラは重い重いレバーを引いた。
 先ほどよりゆっくりではあるが、鉄格子が持ち上がる。
「さあ、行って! 早く!」
 フランベルジュは迷った。リオラのお蔭で外へ出られるが、そのリオラを置いては行けない。ソラも同じで、フランベルジュとリオラを交互に見ては、決断できずにいた。
「早く……。僕、力がないんだから、そう長くはもたないよ」
 言いながら、リオラがいつもの無邪気な笑みを浮かべた。
「リオラ……」
 フランベルジュが口を開きかけたその時、誰かがばしゃばしゃと水を弾きながら水路の中を走って来る音がした。
 追手だ。
「フランベルジュ、追っ手が来た! 早く、早くここから出て!」
「くそっ……。リオラ……」
 フランベルジュは咄嗟にソラの手を取り、鉄格子の向こう側へと飛び出した。その瞬間、重い音を立てて再び鉄格子が閉まる音がした。
「リ、リオラ君……リオラ君!」
 ソラは振り返って叫んだが、フランベルジュはソラを引きずるように引っ張り森の中へと駆け込んだ。
 二人が必死に駆けていると、背後から追っ手の兵士たちの声が聞こえた。
「こっちへ逃げたぞ!」
「あと二人だ、捕まえろ!」
 相手の数は多い。せっかく地下水道から出たというのに、このままでは二人とも捕まってしまう。
 ソラはフランベルジュの手を振りほどき、立ち止まった。
「何をしている! 早くしろ!」
 フランベルジュが再びソラの手を掴んだが、ソラは大きく首を横に振った。
「このままだと二人とも捕まってしまう! 私が囮になるから、フランベルジュはその隙に逃げて」
「お前まで、何を言いだすんだ。せっかくここまで来たんだぞ!」
 ソラの手を握るフランベルジュの手はとても熱かった。
「追っ手が追いついても、あなた一人なら蹴散らせる。でも、私を守りながらじゃ逃げ切れないわ」
「そんなの……」
 フランベルジュはソラをぐっと引き寄せる。
「やってみなければ分からない!」
「いいえ、無理よ。追っ手の兵士を甘く見てはだめ。彼らは精鋭揃いなのよ。お荷物を背負ったままじゃ、逃げられないわ。私が囮になる」
 今度はフランベルジュが首を横に振る。その表情は苦痛に溢れていた。
「囮だなんて……。冗談はもうよせ! 一緒に行くと言っただろう?」
 フランベルジュは震える両手でソラの頬を包み込んだ。
「私とお前の気持ちは同じはずだ……」
 フランベルジュの両手の中で、ソラは笑った。そうだとも、違うとも言わなかった。
 言わなくても、分かっていたから。
「さあ、行って、フランベルジュ。あなたを待っている人たちがいるわ!」
 ソラはそっとフランベルジュから離れた。フランベルジュの両の手の温かさだけが微かに残る。
「あなたは優しい王様になるわ。ねえ、そうでしょ?」
 フランベルジュは涙で目が霞んでソラの表情がよく見えなかった。
「フランベルジュ、必ず逃げ切って、国へ帰るのよ」
 ソラは踵を返し、元来た道を走り出した。
「ソラ……。ソラ!」
 フランベルジュの呼び止める声も聞かず、走った。
 涙で目が霞んでいたのは、フランベルジュだけではなかった。走りながら、ソラは涙を拭った。
「ありがとう、フランベルジュ」
 ソラは足を止める。
 目の前に鋭い刃を持った兵士がいても、怖くなかった。

 ソラのおかげで追っ手に追いつかれることなく、フランベルジュは森の中を走っていた。しかし、しばらくすると息が上がり、全力で走ることができなくなっていた。気づけば肩で息をしながら歩いていた。
「リオラ……。ソラ……」
 三人で行こうと言ったはずなのに、ここまで来たのはフランベルジュ一人だった。皮肉にも、二人のおかげでフランベルジュはここまで来られたのだった。
 疲れ果ててフランベルジュが地に膝をつくと、目の前の木の傍にベリアルの姿があった。
「何ヲシテイル。早ク立テ」
 今さら現れたベリアルに、フランベルジュは恨めしそうな視線を投げる。
「どうして……。どうして……」
 フランベルジュが何を言いたいのかを理解していたベリアルは、静かに笑った。
「奴隷共ガイナケレバ、オ前ハ逃ゲラレナカッタ。アイツラニ感謝スルンダナ」
「ふ、ふざけるな!」
 フランベルジュが立ち上がる。
「私たちは三人一緒に……」
「甘インダヨ、フランベルジュ。弱イクセニ調子ニ乗ルナ。アンナ鉄格子モ壊セナイ貧弱ナ魔力トチカラシカ持タナイオ前ニ、何ガデキル?」
 フランベルジュは言葉を失った。
「今ハソノ時デハナカッタノダ。諦メロ……」
 俯くフランベルジュの横をベリアルが通り抜け、その姿は消えた。
「徒歩デハ時間ガカカリスギル。馬ヲ貸ソウ……」
 フランベルジュが顔を上げると、さっきまでベリアルがいた場所に真っ黒な馬が一頭いた。
「私は乗馬ができない」
「馬鹿! 偉ソウニ言ウ事デハナイ。ソイツハ魔法デツクッタ。乗レバ勝手ニ走ルカラ、捕マッテイロ」
 フランベルジュは言われた通り馬の背に跨る。すると、馬は何の指示を出さなくても自ら走り出した。手綱を持ったまま、フランベルジュは茫然としていた。
「家ニ帰ッタラ、本物ノ馬ニ乗ル練習ヲシロヨ」
 ベリアルの小言も、今のフランベルジュの耳には入らない。
 馬は風のように、黒竜族の国へ向かって走り続けていた。その風を受けて、フランベルジュの耳元の黒い宝石が髪と一緒に揺れ動いた。
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