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ラジエルの書第五十五巻―悪魔たちの王―  6

 リオラが夕食を持ってそっとフランベルジュの部屋に入ると、フランベルジュは着替えを済ませてベッドに腰掛けていた。
「フランベルジュ! まだ寝てないとだめだよ!」
 リオラはテーブルに食事を置き、すかさずフランベルジュの元へ駆け寄る。
 しかし、フランベルジュは、「大丈夫だ」と、言って少しだけ微笑んだ。
 もう外は暗くなり始めたので、リオラは部屋の至る所にある蝋燭に火を点けて回った。先ほどより部屋が明るくなり、フランベルジュの顔もよく見えるようになった。
「フランベルジュ、ご飯食べる?」
「いや、まだいらない……。そこに置いといてくれ」
「スープが冷めちゃうよ」
「構わん」
 フランベルジュは冷めたスープでも気にしないだろうが、今日のスープは冷めないうちに飲んでほしかった。
 いつもはフランベルジュの好きにさせておくリオラだったが、今日はどうしても譲れなかった。
「今……今食べて。今日のご飯はソラちゃんが作ったから」
 一瞬、フランベルジュは驚いたような目でリオラを見た。だが、すぐに黙って食事を始めた。
 パンはいつもと変わらないものだったが、スープにはちゃんと味があった。味覚オンチのフランベルジュでも、いつものリオラが作ってくれるスープとは違うのが分かった。事前にソラが作ったものだと聞かされたからそう感じたのかもしれないが、そんなことは重要ではない。特別な何かを感じたのは言うまでもない。
 食事を済ませると、フランベルジュは空になった食器に視線を落としたまま、リオラにこう問いかけた。
「なあ……。ショウフって、なんだ?」
 食器を片づけようとフランベルジュの傍にやって来たリオラの心臓が跳ね上がる。食器に伸ばした手を引っ込め、絶句した。
 フランベルジュは決してふざけた様子で聞いているのではなかった。
「お前なら知っているだろう。教えてくれ」
 言えるわけないと、涙ながらに言ったソラの顔が浮かぶ。しかし、フランベルジュの頼みを無視することもできない。
 リオラは決心して口を開いた。
「娼婦っていうのは、その……。男の人の夜の相手……つまり、性行為をしてお金を稼いでいる女の人のことだよ。ソラちゃんはご主人様が買った奴隷だから、お金はもらっていないけど……」
 それを聞いたフランベルジュは、すぐに言葉を発することができなかった。さすがに性行為が何かとまでは聞かなかったが。
 少し間をおいて、ようやく口を開く。
「夜の相手とは、そういうことだったのか……」
 顔を上げ、リオラの方を見た。
「ソラは今も公爵と?」
 フランベルジュの問いに、リオラは激しく首を横に振った。
「してない! ソラちゃんは、今はフランベルジュがご主人様なんだよ……」
「そう……だったな」
 フランベルジュはそれ以上言葉が出てこなかったが、それは娼婦のソラに嫌悪を感じたからではなかった。
 ソラは一体どんな気持ちで今までフランベルジュの傍にいたのだろうか。フランベルジュが鈍感すぎで、がっかりしただろうか。自分の仕事が全うできなくて、残念に思っているだろうか。それとも、もっと違う何かを感じているだろうか。
「フランベルジュ……。ソラちゃんは娼婦だけど、普通の女の子と何も変わらないよ。奴隷だから自分の仕事を選べないだけ。もしソラちゃんが、自分から好き好んで誰とでも寝るような人だったら、僕は……僕は……」
 好きになるわけない。
 リオラはぐっとこの一言を飲み込んだ。
「ソラちゃんとは、今まで通りに接してあげてほしいな。何も悪いことはしていないから」
「……分かっている。ソラが娼婦だということは始めから知っていた。私がその意味を理解していなかっただけだ。何も変わらないよ」
 フランベルジュの言葉を聞いて、リオラはほっとするのと同時に、ソラがフランベルジュに恋心を抱くのも仕方がないことだと思った。いつ、どんな時でもフランベルジュは冷静に物事を判断できると、リオラは思っていたのだ。
 いつもおろおろして狼狽えている自分とは大違いだった。
 僕もフランベルジュみたいに強かったらなあ……。
 弱々しい自分がそんなことを考えていることを知られたくなくて、リオラは手早く食器が乗った盆を持ち上げテーブルを綺麗に拭いた。
「今日はもうゆっくり休んで。じゃあ……」
 何も言わないフランベルジュを一人部屋に残し、リオラは足早に去って行った。
 リオラが部屋から出て行った後、フランベルジュはすぐさまベッドに潜り込み、かたく目を閉じたのだった。

 医者が言った通り、フランベルジュの怪我は三日もしないうちに全快した。虎に引っ掻かれた傷は跡形もなくなり、打撲していた胸の痛みももうない。
 そのことを公爵が知ると、またすぐにでも次の試合の予定があると言った。
 特にすることもなく、ただ部屋にいてリオラが次の試合の予定を公爵から聞いてくるのを待っていると、扉をノックする音が聞こえた。
「……リオラか?」
 フランベルジュが扉に目を向けると、入って来たのはリオラと、そして意外にも公爵だった。
 公爵は窓辺にいたフランベルジュの方へずんずん歩み寄って来ると、いつもの無表情で唐突に話し始めた。
「次の試合は明日に行うのだが……。お前に一つ頼みがある」
「頼み?」
「そうだ」
 公爵はもったいぶったように間を空けて、次の言葉を発した。
「次の試合相手を、殺してくれ」
 フランベルジュは目を見開いた。だが、それを見た公爵は珍しく口元に笑みを浮かべた。
「早とちりするな。あれは人間じゃない。そして、虎でもない」
 公爵の後ろにいたリオラが、じゃあ一体なんだと考え込む姿が目に入る。フランベルジュの方は、黙って公爵の言葉を待っていた。
「試合で使おうと思ってメディア王国から取り寄せたのはよかったが、戦わせても生き残れる可能性がある剣奴が見つからなくてな。それに、このまま飼っておくのも私の手に余る。あいつのおかげで私の奴隷が十人以上食い殺されているんだ。このままでは大損失だ。幸い、お前ならばあの怪物に勝てそうだ。だから頼む。あれを殺してくれ」
 フランベルジュに拒否をする権利はない。それでもこうして公爵が頼んだということは、よほどその怪物とやらを始末してほしいのだろう。
「分かりました」
 フランベルジュが二つ返事で承諾したので、よほど嬉しかったのだろう。公爵はフランベルジュの肩に手を置き、もう二度と見られないであろう笑顔でこう言った。
「助かる。お前があれに勝てば、お前の名声も上がるし、コロッセウムにも多額の金が入ってくるだろう」
 名声にも金にも全く興味のないフランベルジュだったが、公爵の機嫌を損ねないよう、とりあえず頷いておく。
「一つ聞いてもいいですか。その怪物というのは、どんな生き物ですか。虎よりも大きいのですか」
 フランベルジュの質問に、公爵の顔から笑顔が消えた。
「獅子の頭と山羊の頭を持ち、尾は毒蛇になっている。この世の誰も見たことがなかった化け物、キマイラだ」
 言葉だけではいまいちどのような姿をしているのか想像がつかない。第一、そのような変な生き物がこの世にいるはずがないと思った。
 公爵の説明に半信半疑なフランベルジュの心を読んだかのように、公爵は再び笑った。
「信じられないのも無理はない。だが、本当だ。見れば分かる。あれはとんでもない化け物だ」
 公爵が嘘をついているとは思わない。だが、何度聞いてもそんな生物がいるとは信じられない。実際にこの目で見るまでは。
 フランベルジュが何も言わないので、「では、頼んだ」と、言い残し、リオラを残して部屋を出て行った。
 公爵が出て行ったのを確認すると、すかさずリオラが口を開く。
「キマイラって何? 僕、そんなのをご主人様が飼ってるなんて初めて知ったよ!」
「公爵の奴隷がたくさん死んだと言っていたが?」
「それも知らない……。僕が知っている奴隷じゃないと思う」
 もしかしたら死んだ奴隷が自分だったのかもしれないと思ったリオラの顔が真っ青になる。
「どう考えても普通の生き物じゃないな。対策の練りようもない」
 そう言いながら、フランベルジュはふと窓の外に目をやる。相変わらず庭には見張りの兵士がたくさん立っている。この屋敷のどこかにその生き物がいるのなら、戦う前に一度見てみたいという気持ちがあった。
 しかし、リオラがそれを反対した。
「それはやめたほうがいいよ。この屋敷はとても広いし、その生き物がいる場所の検討もついてないもん。むやみに歩き回るだけ時間の無駄かも……。僕やソラちゃんでも、この屋敷の全ては知らない。隠された部屋や通路がたくさんあるって噂だし」
「そうか……」
 フランベルジュは窓辺に腰掛け、腕組みをする。
「もう試合は明日に迫っている。焦らずともその化け物には対面できるしな……。わざわざ探す必要もないか」
「行くしかないってことだね」
 翌日、フランベルジュはリオラとソラを連れてコロッセウムに入った。控室で準備をしていると、試合を行う広場の方で、観客たちの悲鳴のような声が聞こえてきた。
「ぼ、僕ちょっと見てくる!」
 リオラが部屋を飛び出し、広場へ続く廊下を駆けて行く。ソラは不安そうにその後ろ姿を見送った。
「何かあったのかしら……」
「ただ事ではなさそうだな」
 しばらくすると、案の定リオラが血相を変えて戻って来た。
「フランベルジュ! 早く来て!」
 再び廊下を走り出すリオラを追って、フランベルジュとソラも広場の方へ向かう。もう広場が見える所まで来ると、フランベルジュは立ち止まった。
「待て! お前たちはここにいろ。何があっても絶対に出て来るんじゃないぞ」
 フランベルジュは剣を抜き、二人を残して再び走り出した。広場では公爵が言っていたあの化け物が、おそらく世話役であっただろう奴隷を数人食い殺していた。
 広場に躍り出たフランベルジュは化け物キマイラを見上げた。
「なんてことだ……。一体どこでこんなものを飼っていたんだ。よくもここまで連れて来たものだ」
 見上げるほど大きいとは思っていなかったフランベルジュは一瞬ひるむも、しっかり剣を握ってキマイラと対峙する。公爵が言っていた通り、獅子と山羊の頭を持ったとんでもない化け物だ。見たところ、体は獅子だろうか。
 どこから攻撃を仕掛けてよいか考える間もなく、獅子の頭が襲い掛かってくる。それを避けたと思えば、反対側の山羊の角がフランベルジュを襲う。
「後ろか! いや、だめだ、後ろは……!」
 頭を避けてキマイラの背後に回り込もうとしたフランベルジュだったが、待ち構えていたのは尾に扮した三匹の巨大な蛇だった。
 蛇の鋭い牙での攻撃を食らう前に、フランベルジュはすぐさま剣を振るったが、一太刀も浴びせることはできなかった。
 予想不可能な動きをする三匹の蛇の相手は後回しにして、やはり正面の獅子と山羊の頭をどうにかしようと考えたフランベルジュは、蛇の追撃を軽々しく避けながら、再びキマイラの正面に回った。
 だが、相手は見上げるほどの大きさだ。フランベルジュの跳躍力ではあの頭に剣で攻撃を加えることは相当難しかった。
 そうだ、魔法を……!
 フランベルジュがキマイラに向かって剣を一振りすると、魔法の閃光が矢のように獅子の頭に直撃した。
 キマイラは少しだけよろけたが、すぐに体勢を戻し、獅子の頭がその口を大きく開けた。
「な、なんだ!」
 何が起こるのか予想もできずに微動だにしないフランベルジュの耳元で、あの声が叫んだ。
「剣ヲ地面ニ突キ立テロ!」
 言われるがまま、フランベルジュは持っていた剣を勢いよく地面に突き立てた。
「手ヲ離スナヨ!」
 フランベルジュが地に膝をつき、突き立てた剣の柄を握りしめたその時、獅子の口から巨大な魔法の玉が吐き出された。
 誰もがフランベルジュにその魔法が直撃するかと思ったが、黒い剣の魔法石が激しく輝き、目に見えない壁を作った。
「魔法壁(まほうへき)ダ。本デ読ンダダロウ?」
 声がそう言って笑うと、獅子が吐き出した魔法の玉は見えない壁に弾かれ消滅した。
 フランベルジュはすかさず地面から剣を引き抜き、獅子と山羊の頭に向かって魔法の閃光を放ちながら走り出した。相手の足元を斬りつけようと考えたのだ。
 だが、その考えは甘かった。キマイラは足を踏み鳴らし、フランベルジュを踏みつぶそうと躍起になり、さらには長い尾の蛇も足元まで潜り込んで来たのだ。
「くそっ!」
 フランベルジュは半ばやけくそになって剣を振るう。
「前も後ろも隙がない。なんて化け物だ……」
 地面を転げるようにしてキマイラの足元から脱出したフランベルジュだったが、獅子と山羊の頭の攻撃が自分に当たらない距離まで移動するので精一杯で、他には為す術もなかった。
 頼みの魔法も、今のフランベルジュには先ほど放った閃光を出すくらいしかできず、それでは相手をひるませることはできても、致命傷を与えることはできなかった。
「私ガ行コウ」
「え?」
「モタモタスルナ。モウ一度、剣ヲ地面ニ突キ立テロ。後ハ私ニ任セテオケ」
 こうなったら仕方がない。フランベルジュは言われた通りに再び剣を地面に突き立てた。
 その瞬間、魔法石から真っ黒な光が溢れ出し、キマイラの足元にこちらも真っ黒な魔法陣が現れた。だが、フランベルジュは魔法陣の描き方を勉強してはいない。
「愚カナ人間ガ創リ出シタ化ケ物ヨ。地獄ニ引キズリ込ンデ食ッテクレル」
 魔法陣の中から無数の巨大な黒い手が現れ、キマイラの体を鷲掴みにした。
 雄叫びを上げながら魔法陣の中に引きずり込まれていくキマイラを、フランベルジュは茫然と立ち尽くしたまま見つめていた。
 茫然としていたのはフランベルジュだけではない。リオラもソラも、観客席でこの戦いを見ていた公爵も、もちろん観客も。今目の前で起こっていることが理解できずにいた。
 やがてキマイラの体は完全に広場から消え、黒い手も、黒い魔法陣も消え去った。
 観客席は静寂に包まれていた。
「な……何だったんだ……」
 当の本人のフランベルジュでさえ何が起こったのか理解できず、とりあえず地面に刺さったままの剣を引き抜いた。
「やった……やったぞ!」
 観客席の誰かがそう叫ぶのが聞こえた。それと同時に、静まり返っていた広場がいつもの歓声に包まれた。
「やったぞ、って……。やったのは私じゃないけどな」
 フランベルジュはそうぼそりと呟き、何もいなくなった広場に背を向けた。
 戻って来たフランベルジュは心配そうに待っていたリオラとソラに、「帰るぞ」と、言い、二人の肩を抱いて廊下を歩いた。
 観客がコロッセウムから出て来る前に屋敷に戻ったほうがいい。
 フランベルジュはそう思っていた。
 試合が終わって早々に屋敷に戻ったフランベルジュは、リオラとソラと共に公爵が来るのを部屋で待っていた。
 恐る恐る、リオラが無言のフランベルジュに話しかける。
「キ……キマイラって、なんか、す、すごかったね。あんなのが本当にいるなんて……」
 今まで黙っていたソラも口を開く。
「ご主人様があんなものを持っていただなんて、知らなかったわ。だけど、フランベルジュが倒してくれてよかった。きっと、フランベルジュじゃなかったら倒せなかった。だけど……」
 ソラが言葉を続ける。
「あれは、何だったの? あれもフランベルジュの魔法なの?」
 フランベルジュは困ったように首を横に振った。
「さあ……。自分でもよく分からないんだ。あんな魔法は練習したことがないから使えないはずなんだが」
 部屋の空気が重苦しくなりそうになった時、ノックもなしに公爵が部屋に飛び込んで来た。
 リオラとソラが慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「ああ、今日はそうかしこまるな。楽にしろ」
 公爵の意外な言葉に、リオラとソラは驚いて顔を上げる。公爵は二人が今まで見たことのない満面の笑みでフランベルジュに言った。
「見事だ……。見事だった! お前に賭けたかいがあった。私は今日ほど嬉しかった日はない!」
 フランベルジュの肩を揺さぶりながらそう言う伯爵を見て、フランベルジュは苦笑いを浮かべることしかできなかった。
 その横で、リオラとソラが顔を見合わせ少しだけ笑った。
「これでお前の剣だけではなく、魔法もよい見世物になると分かった。次は魔法も使える相手を探すぞ」
 フランベルジュはどきっとしたが、公爵があの魔法について何も尋ねないので黙っていた。
「約束通り、褒美を与えよう。何でもいいぞ。ただし、自由以外でだ。お前にはまだ戦ってもらわなければいけないからな。さあ、何が欲しい?」
 フランベルジュは悩まなかった。リオラとソラを一瞥し、ご機嫌な公爵にこう願った。
「一日だけでもよいので、休みと、外出許可をください。私と、この二人の奴隷に」
「なんだ、そんなことか。容易いな」
 公爵はリオラとソラの方を見て、もう一度フランベルジュに視線を戻した。
「いいだろう。ただし、逃げようなどと考えるなよ。見張りはつける。どこへ出掛けるのかを決めたら、必ず私に報告しろ。いいな」
 これが逃げるチャンスなどとは考えていなかったフランベルジュは、公爵の言葉に黙って頷いた。傍ではリオラとソラが嬉しそうにぱっと顔を輝かせていた。
「あれを始末してくた功績は大きい。少しくらいなら無理も聞こう」
「あ、あの……!」
 ソラが公爵の前に進み出る。
「フランベルジュにとっておきのお料理を作りたいんです。いつもより良いお肉や良いパンをいただけませんか?」
 なぜだか公爵は憐れむような目でソラを見ていた。そして、笑顔こそなかったが、いつもよりは穏やかな口調で返事をする。
「いいだろう。自分たちで作ることが条件だ。もちろん、三人分だ」
「あ、ありがとうございます!」
 こうして異例の褒美をもらった三人は、公爵との話が済むと、早速どこへ出掛けるかの相談を始めた。
「どこか行きたいところはあるのか?」
 ここの地理に詳しくないフランベルジュには特に希望もなく、どこへ行くかはリオラとソラに任せようと思っていた。すると、すかさずリオラが希望を挙げる。
「僕、ある! 街を出て少し南に行ったところにある森」
「そこに、何かあるのか?」
 フランベルジュが問うと、リオラは目をきらきらと輝かせて言った。
「うん! そこにね、大きな木があるんだけど、その木がね、ずっと昔に何かの女神様が姿を変えた木らしくて、その木の下でお願いごとをすると叶うって言う……」
「あ、それ私も知ってる。でも、本当にそんな木があるの?」
「え? それは……分からないけど……」
 言葉に詰まるリオラに、フランベルジュは思わず口元を綻ばせる。
「それを確かめに行くっていうのはどうだ?」
 フランベルジュの提案に、二人はすぐさま賛成した。
「そうね! せっかくだから見に行きましょう」
「本当にあったらお願いごともできるしね!」
 その後も話は弾み、当日はソラ手作りのお弁当を持って出かけることになった。公爵への報告はリオラがするという。
「フランベルジュは明日一日ゆっくり休んで。出かけるのは明後日にしましょう」
「私は明日でも構わないが?」
「だめよ! 楽しみはとっておかなくちゃ!」
 ソラは持って行く弁当の中身を何にするかを考えると言って、その晩はフランベルジュとは一緒に過ごさなかった。リオラも、公爵への報告を済ませた後すぐに休ませた。
 二人は戦ったわけではないが、あんな化け物との戦いを見て、きっと疲れているだろうとフランベルジュは思ったのだ。
 昼間の戦いでよほど興奮したのか、体は疲れているはずなのになかなか寝つけなかった。
 外は真っ暗で何も見えないが、月は見える。
 フランベルジュは窓辺に腰掛けて、煌々と輝く月を眺めていた。その周りで輝く星も無数にあったが、フランベルジュはあまり星には興味がなかった。
 その時、部屋の隅に何か気配を感じ、フランベルジュは勢いよく振り返った。
「誰だ!」
 暗闇の中で何かがうごめいた。
「私ダヨ……」
 その何かは、とても聞き慣れた声で返事をした。見れば、壁に立て掛けてあった黒い剣の傍にその何かはいた。
 フランベルジュは安易に近寄ることができず、窓辺からもう一度声を掛けた。
「何者だ……?」
 かすかな月明かりがその何かを照らす。顔は見えない。見えたのは、耳元から生えた歪な角だった。しかし、姿は人のように思えた。
「悪魔タチヲ統ベル者……ト、言ッテモ納得スルマイ。私ハオ前ノ父ディアスノ父親ダ」
「父さんの……父さん?」
 つまりはフランベルジュの祖父というわけだが、フランベルジュはすぐには信じられなかった。事態もよく飲み込めない。
 恐る恐る声の主に一歩近づいてみる。
「オ前ノコトハヨク知ッテイル。オ前ニモ、私ノ声ガ聞コエテイタダロウ?」
「ああ……。あの声は、あなただったんですね」
 幼い頃より聞いてきたこの声を聞き間違えるはずはない。彼が本当にディアスの父親かどうかは別として、フランベルジュを知る者だということはすぐに信じた。
「時ニハ私デハナイ者モイタガナ。シカシ、オ前ハ一度モ返事ヲシテクレナカッタ。チョット寂シイ……」
 相手がどんな顔をしていたのかは分からないが、フランベルジュは最後の一言には苦笑するしかなかった。不気味な声に返事をする物好きはそうそういないだろう。
「あの……。あなたの名前は?」
「ベリアル……。ソウ呼ンデクレ」
 長年不気味で怖いと思っていた声の主にほんの少しだけ親しみを感じたフランベルジュは、もう一歩ベリアルに近づいた。
「昼間、助けてくれたのもあなたですね?」
 ベリアルは笑った。
「ソウダ……。オ前ガ死ヌヨウナコトガアレバ、ディアスニ一生怨マレル」
 ディアス、という言葉にフランベルジュははっとしてベリアルに問いかけた。
「父さん! 父さんはどうしていますか。知っていますか?」
「オ前ガイナクナッテ、随分ヤツレタヨ……。アイツハオ前ヲ溺愛シテイタ。マア、少シクライ子離レシタ方ガイイト思ッテ、オ前ガサラワレタ時、私ハ助ケナカッタワケダガ」
「父さんは、私がここにいると?」
「知ラナイナ。教エテヤラナンダ。ソノ方ガ面白イ」
 言いながら、ベリアルは終始笑っていた。しかし、フランベルジュはむっとする。
「なんで父さんに教えてくれなかったんですか! 早く知らせてくれればこんな目に遭わずに済んだのに……」
 フランベルジュが怒ってみても、ベリアルは笑うだけで動じない。
「私ハ悪魔ダ。残念ナガラ良心ハ持チ合ワセテイナイノデナ。ソレニ、戦イノ時ハ助ケテヤッタダロウ。悪魔ニシテハ親切スギルト思ワナイカ?」
「悪魔にしては親切かもしれないが、父さんと私はあなたの家族でしょ。もっと親切にしてくれてもいいと思うけど」
「ソレモソウダナ」
「そもそも、父さんの父さんが悪魔とはどういうことだ。何かの間違いでは?」
 ベリアルは笑みを絶やさず、フランベルジュの質問に答える。
「間違イナモノカ。ディアスハ私ノ息子ダ」
「では、私にも悪魔の血が?」
 ベリアルが首を横に振る。
「イイヤ。オ前ハ違ウ。オ前ハ黒竜族ダ」
「それではつじつまが……。私は父さんの本当の子ではないということですか」
「ソレモ違ウ。オ前ハ確カニディアストアルメリアノ息子ダ」
 フランベルジュは訳が分からなくなって頭を抱えたくなった。ディアスと血が繋がっているなら、自分だって悪魔のはずだ。
「なんで……」
「ディアスニ聞イテミレバヨカロウ。私ノ口カラハトテモ言エナイガナ!」
 そう言うと、ベリアルは腹を抱えて一人大笑いした。その様子からして彼は理由を知っていそうだが、教えてくれそうもない。
 フランベルジュが大笑いするベリアルを呆れた表情で見つめていると、ベリアルが急に笑うのをやめて真顔になった。
 自らフランベルジュに歩み寄る。今までぼんやりとしか見えなかったベリアルの姿が月明かりに照らされた。
 漆黒の髪に漆黒の瞳。歪な角以外はやはり普通の人間に見えた。
「シカシ、モウイイダロウ。オ前ガコレ以上ココニイル理由モナイ。スグニ帰ッタ方ガイイ。城ニイルディアスガ心配ダ。アノ男、ヨアンネス。アイツガヨカラヌ事ヲシデカス前ニ」
「ヨアンネス!」
 フランベルジュは思わず声を荒げる。
 なぜこんなことになってしまったのか、元を辿れば悪いのはベリアルではなくヨアンネスだ。きっとヨアンネスはこうなることを計画していたに違いなかった。
「オ前ハ気ヅイテイタカ? アノ男ノ秘密ヲ」
「秘密?」
「アイツノ体ニ触レタ時、何カヲ感ジナカッタカ?」
 フランベルジュがヨアンネスに触れた時と言えば、初対面で握手をしたのが最初で最後だ。あの時、フランベルジュは背筋が寒くなるほどぞっとしたのを覚えていた。
「感ジタダロウ。不気味ナ感触……。ダガ、オ前ガオカシイノデハナイ。アイツ……アレノ体ハ死ンデイル。ダカラ、生キテイル者ノ感触ガシナイノハ当タリ前ダ」
「じゃあ、あの人は父さんの友達のヨアンネスじゃなく……」
「タダノ死体ダ。中身ハ得体ノ知レナイ何カトイウコトダ」
「そのこと、父さんは……」
「私ガ言ワナクテモ、気ヅイテイルダロウ。シカシ、アノバカ、現実カラ目ヲ逸ラシテイルヨウダ」
 ベリアルの話では、ディアスはヨアンネスの正体を薄々感づいていながらも、それを信じたくなくて城に滞在することを許したらしかった。
「シカシ、オ前トイウ息子ヲ失ッテイイ加減気ヅイタト思ウガ」
「父さんは今どうしているんですか」
 フランベルジュが問うと、ベリアルは悪びれることなく、「知ラン」と、答えた。
 卒倒しそうになったフランベルジュだが、かろうじて踏ん張る。
「ヨアンネスハ城ニ悪魔避ケノ結界ヲ張リヤガッタ。ダカラ城ニ入リ込メナクテナ」
「それで私に帰れと……」
「私ガ見張ッテイル間ハ特ニ危ナイ動キハナカッタガ、今ハドウカ分カラン。ダカラ、早ク帰レ」
 ヨアンネスの企みが何か分からない今、早く国へ帰らなければ。
 フランベルジュは焦る。
 何よりも一番ディアスが心配だった。フランベルジュがいなくなった上に友人であるはずのヨアンネスも信用できないとなると、その心労は計り知れない。
「……どうやったらここから脱出できる?」
 ようやく話が本題に入ってきたとばかりに、ベリアルはにやりと笑う。
「オ前ノ奴隷ガ言ッテイタダロウ。コノ屋敷ニハ隠サレタ部屋ヤ通路ガ沢山アルト」
「そうか! じゃあ、外に繋がる道もあると?」
「保障ハデキナイ。ダイタイ、私ガコノ屋敷ノ事ヲ詳シク知ッテイルワケガナイダロウ」
 悪魔らしい返答だったが、フランベルジュは怒ったりいらいらしたりせず、ベリアルと同じようににやりと笑う。
「調べてくれ。この屋敷の秘密の通路を全部!」
「……ハ?」
 先ほどまで悪戯っぽく笑っていたベリアルの目がまん丸くなる。
「リオラやソラに頼めば危険が及ぶ。かと言って、私が探すわけにもいかない。あなたなら誰にも見つからずに探せるでしょう?」
「ウン……マア、ソウダガ……」
「ではお願いします! 外へ出る道を探してください。あと、安全な時間帯とかも調べてくれると助かります」
 まんまとフランベルジュに乗せられたベリアルは、この屋敷から脱出するための道を探すことになった。
 ちょっと助言をしてあげようと思っただけだったベリアルは、余計な仕事が増えて面倒だと思う反面、なぜだかとても嬉しくなった。
「私ガ頼ミゴトヲ聞イテヤルコトナンテ、滅多ニナイカラ感謝スルンダゾ」
「もちろんです。でも、もう少し早く教えてくれれば……」
 フランベルジュはベリアルから視線を逸らし、窓の外の月を見る。
 ディアスは無事だろうか。何事もなく、フランベルジュのことだけを心配する毎日を送っているだろうか。
 リオラやソラのおかげで孤独を感じずにすんで自分は幸運だったが、ディアスこそ独りぼっちでとても寂しい思いをしているに違いなかった。
「あの……」
 もう一つ聞きたいことがあって、フランベルジュは振り返る。しかし、そこにベリアルの姿はなかった。
「あ……」
 立ち尽くすフランベルジュに、ベリアルは語りかける。
「心配スルナ。約束ハ守ル。オ前モ、友達トノ約束ヲ守ッテヤレ。オ前ハ……」
 一瞬、ベリアルが言葉を止める。そして……。
「オ前ハ悪魔デハナク、黒竜族ナノダカラ」
 そう言って、部屋は再び静寂に包まれたのだった。
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