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ラジエルの書第五十五巻―悪魔たちの王―  5

  その日は雨が降っていた。
 フランベルジュは窓辺で雨の降る様子をじっと眺めていた。こんな日でも、警備の手は緩まない。これではきっと、嵐が来ても逃げ出すのは不可能かもしれない。
 思わずふっとため息を吐きそうになった時、扉を叩く音と同時にリオラが部屋へ飛び込んで来た。屋敷を掃除している最中だったのか、手にはぼろぼろの布きれが握られていた。
「フランベルジュ! 決まったよ!」
 興奮気味にそう言うリオラとは正反対に、フランベルジュはできるだけ平静を装って口を開いた。
「日取りは?」
「明日だよ」
「それはまた急だな」
 ついに次の試合が決まった。
 フランベルジュは部屋の隅に立て掛けてあった剣に目をやった。
 勝たなければ死ぬ。
 その言葉が一瞬脳裏を過った。
「ソラちゃんが言ってた強い剣奴かどうかは分からないけど、フランベルジュなら楽勝だね!」
「おいおい、あまり買い被らないでくれよ」
 なぜかフランベルジュよりも張り切っている様子のリオラを前に、思わず苦笑する。
「明日のためにちゃんと食べてちゃんと眠らないとね! 今食事を用意するから待っててね!」
 リオラが慌ただしく部屋を出て行く。きっとやりかけだった掃除のことはすっかり忘れているだろう。フランベルジュの食事の用意より先に掃除を済ませておかないと、後で公爵に叱られるというのに。
 きっとすぐに戻って来るだろうから、その時に教えてあげればいい。
 そんなことを考えながら、フランベルジュは鞘から剣を抜いてみた。じいさんからもらったあの日から何も変わらない、黒く光る刃がそこにあった。

 翌日、フランベルジュはリオラと共に屋敷からコロッセウムまでの道のりを歩いていた。どうやら公爵は二人よりも先にコロッセウムに向かったらしい。
「フランベルジュ、荷物、持とうか?」
「荷物? この剣しかないが……」
「そ、そうだよね。それしかないよね。なんか、何も持たずに歩くのに慣れてなくて」
「いいじゃないか、たまには」
 街中を歩く二人は、どう見ても主人とその奴隷には見えない。フランベルジュにはリオラに持たせるような荷物はなく、リオラの身なりも奴隷にしては綺麗すぎた。
 フランベルジュがそのことに気づいたのは、まさにこの時だった。
 道行く人々を見てみると、主人らしき人の荷物を運ぶ者が何人かいたが、その誰もが一瞬我が目を疑ってしまうほどひどい恰好をしている。やせ細った体にぼろ切れのような布の服を纏い、ただひたすら重そうな荷物を背負って主人の後について行く。
「あれは何だ?」
 フランベルジュが問うと、リオラは周りの人間に聞こえないよう小声で答えた。
「あの人は僕と同じ奴隷だよ」
 奴隷と聞いて、フランベルジュも小声で話を続ける。
「お前と同じ? 全然違うじゃないか。だってお前は……」
 リオラはフランベルジュを道の端まで引っ張って行き、やはり小声でこう言った。
「フランベルジュ……。フランベルジュはそう思わないかもしれないけど、僕らは……ガルヴァーニ公爵の奴隷たちはとても恵まれているんだ。ご主人様は奴隷も屋敷の装飾品の一つと考えているから着る物だって綺麗な物を与えられるし、食事もまともな物を食べてる。でも、それはご主人様が裕福だからできることであって、さっきの奴隷みたいに貧しい家で働かなければいけない者の方が多いんだよ」
 フランベルジュは言葉が出て来ず、ただただリオラの顔を見つめるだけだった。
「僕を奴隷として売り飛ばした両親に一つだけ感謝することがあるとすれば、それは今のご主人様の家に売ってくれたことだよ……」
 リオラはそう言って自嘲すると、再びフランベルジュを引っ張って、コロッセウムまでの道のりを歩み始めた。
 リオラと会った時、本の中の奴隷とはずいぶん違うと感じた。しかし、本が書かれたのはずいぶん昔のことで、時代と共に奴隷も変化を遂げたのだろうと安易に考えていた。しかし、リオラが特殊な存在であっただけで、奴隷の本質は何も変わってはいなかったのだ。
 コロッセウムに到着した二人を出迎えたのは公爵だった。公爵はまずフランベルジュの方を見て口を開いた。
「ずいぶん待たせてしまったが、お前に見合う相手を探し出したつもりだ。しっかりやれ」
「……はい」
 フランベルジュが小さく返事をすると公爵は頷き、そして今度はリオラに向かってこう言った。
「掃除すら満足にできない役立たずなお前だが、最近はきちんと仕事をこなしているようだな。今後も私をがっかりさせないでくれよ」
 公爵の言葉に、リオラは深々と頭を下げた。リオラは公爵に対しては何か意見を求められた時にしか言葉を発することが許されていなかった。
 話が終わるとすぐに、フランベルジュは控室へ放り込まれた。この先は闘技場に繋がっている。
「ねえ、フランベルジュ。鎧はどんな物がいい?」
 椅子に座って剣の手入れをしていたフランベルジュに、リオラが声をかける。
「鎧か……。いらないな」
「じゃあ、盾は?」
「……いらない」
 特に必要だと思わなかったのでいらないと答えたのだが、リオラの顔はさっと青くなった。無言で剣の手入れを続けるフランベルジュの前でおろおろし始めた。
「きっと相手は鎧も着ているし盾も持ってるよ。フランベルジュ……せめてどっちかだけでも……」
「私の剣は両手で持つものだから、盾は持てない。鎧は……重そうだ」
「じゃあ、これはどう?」
 リオラは部屋に置かれた鎧ではなく、道具箱の中から何かを取り出した。それは、全身を覆う鎧ではなく、胸につける軽い金属板だった。
「これなら軽いし、邪魔にならないと思うよ」
 せっかくリオラが見繕ってくれたものであったので、フランベルジュは素直にその金属板を受け取った。装備してみると、少し重量感があるもののそんなに悪くはなかった。
「いい感じだね! 次までにはぴかぴかに磨いておくから!じゃあ、フランベルジュ……」
 フランベルジュは頷いた。
「ああ、行ってくる」
 リオラに見守られ、フランベルジュは闘技場の中へ足を踏み入れた。
 初めてここに立った時は、訳が分からず大勢の観衆に戸惑った。しかし、今日は不思議と大きな歓声が気にならなかった。何も聞こえない。見据えるのは対面する相手の剣奴。
 リオラの言った通り、相手は全身鎧で身を包んでいる。盾は持っていないようだ。体格はフランベルジュよりもはるかに大きく、確かに強そうに見える。
 だが、フランベルジュは不思議と冷静だった。焦りや恐怖といった負の感情はどこにもない。
 相手を見据えたまま剣を抜く。
 これが公爵の探してきた強い剣奴? 図体がでかいだけじゃないか。体の大きさは決して不利にも有利にも働かない。どちらにも弱点があるからだ。
 両手で剣を握りしめたまま、フランベルジュは走り出した。何も恐れることはない。このまま相手の懐に飛び込もう。
真っ直ぐに向かって来るフランベルジュに、相手の剣奴は
巨大な剣を力いっぱい振り下ろす。やはり体が大きいだけあり力が強い。あの攻撃を食らえば、さすがのフランベルジュも耐えきれるかどうか分からない。
 破壊力のある相手の攻撃を目の当たりにしても、フランベルジュは少しも恐れる様子を見せなかった。
 この攻撃は絶対に私には当たらない!
 破壊力はあっても攻撃が繰り出される頻度は少なく、遅い。毎日稽古で見てきたディアスの鬼のような猛攻に比べれば、太刀筋を見切るのは容易であった。
 相手の攻撃を避けながら、フランベルジュはその懐に飛び込んだ。そして、剣の刃ではなく柄で相手の額を思い切り突いた。
 まさに一瞬の出来事。相手の巨体が地に倒れ、ようやくフランベルジュの耳に観客たちの歓声が聞こえてきた。
 周りを見回すと、興奮した観客たちが立ち上がり、勝利したフランベルジュを称えているように見えた。
 フランベルジュも思わず笑みを浮かべる。今までこんな気持ちを味わったことがない。自分の強さが証明されたこの瞬間がなんともいえない快感であった。
 控室に戻って来たフランベルジュに、待っていたリオラが駆け寄る。
「フランベルジュ、すごいや! あっという間だったね。やっぱりフランベルジュはとっても強い!」
「いや、私なんてまだまだだよ」
 謙遜しながらも、フランベルジュは強敵とされた相手に軽々と勝利したことを内心誇らしく思っていた。そして、フランベルジュの勝利を喜んだのはリオラだけではなかった。客席で試合を見ていた公爵も、すぐさまフランベルジュのもとへやって来る。
「おめでとう。見事な勝利だ。お前よりも腕の立ちそうな剣奴を探してきたつもりだったが、あんなにも容易く倒してしまうとは……。人間相手ではもの足りないか?」
 フランベルジュが何と答えようか言葉を探していると公爵は、「まあ、いい」と、言った。
「すぐにでも次の相手を探そう。それまでまた、屋敷で待っていろ。後を頼むぞ」
 公爵にそう言われ、リオラが頭を下げる。公爵が控室から出て行くと、リオラは笑顔でフランベルジュに言った。
「帰ろっか」
「そうだな」
 リオラはフランベルジュが使った金属板を持ち、控室を出た。帰り道、屋敷に帰ったらこれをぴかぴかに磨き上げるのだと得意気に語った。
 夜になっても賑やかな街を歩きながら、フランベルジュがひとりごとのようにぽつりと呟く。
「見張りもつけずに私たちだけで外を歩かせるなんて、公爵は不用心ではないか。隙を見て逃げることも……」
 リオラは露店で売っていたおいしそうな菓子からはっと目を逸らし、フランベルジュの疑問を解決すべく、辺りをきょろきょろと見回して言った。
「それは無理だよ。見て、フランベルジュ。あの店もあっちの店も、全部ご主人様のもの。もちろん、働いているのはご主人様の奴隷。ということは、僕のこともフランベルジュのことも知ってる。他にもご主人様に通じている人はこの街にたくさんいるから、僕たちが何をしているかなんて全部お見通しだよ。運よくこの街から出られても、すっごく怖い人たちが追いかけてくるよ。本当だよ。その人たちにしてみれば、逃げた奴隷を捕まえるなんて朝飯前なんだから」
「そうか。やはり、逃げるのは無理か」
「フランベルジュ、逃げたいの?」
「いいや、言ってみただけだ」
 リオラの言う通り、きっと精鋭揃いの追手がかかるだろうが、フランベルジュ一人なら逃げ切る自信があった。だが、どうしてもここにリオラを置き去りにして逃げるのは気が進まなかった。
 結局、フランベルジュはリオラと共に屋敷へ戻って来た。食事の用意をすると言うリオラと別れ、フランベルジュは一人部屋へ戻る。
 考え事をする間もなくリオラが持って来た食事を食べしばらくすると、いつものようにソラがやって来た。
 ソラは部屋に入って来るなり、フランベルジュに飛びつき、「おめでとー!」と、喜びの声を上げた。
 突然のことでフランベルジュは身動きできず、リオラはどうしていいか分からずおろおろと二人を見ていた。その表情は、なんだか悲しそうである。
「楽勝だったんでしょ? すごい! さすがフランベルジュね」
「ま、まあ、運が良かったというか……」
「またまた、謙遜しちゃってー」
 フランベルジュに抱きついたまま会話するソラを、リオラは引き剥がすように二人の間に割って入った。
「ぼ、僕も一緒に行ったんだよ。フランベルジュ、すごかったんだから」
 ソラはようやくリオラの方を見て、「やっぱり?」と、言って笑った。リオラの複雑な心境にはお構いなしに、ソラは言葉を続ける。
「今度は私も見に行くわ! ねえ、フランベルジュ。私もリオラ君と一緒に雑用係として連れて行って。いいでしょ? そしたら私もフランベルジュの試合が間近で見られるもの」
 フランベルジュが困った顔をして答えに窮していると、リオラがぼそりと言った。
「……つ、連れて行ってあげなよ。行きたいって言ってるしさ」
「リオラがそう言うなら……。でも、公爵は怒らない?」
「あら、あの人はそんなに心が狭いお方じゃないわよ? 大丈夫、大丈夫。じゃあ、約束したからね。今度の試合は絶対私も連れて行ってね」
 すっかりその気のソラを見て、フランベルジュは嬉しいけれど少し不安もあった。あのような血なまぐさい争いを見て、ソラは楽しいだろうか。フランベルジュは血しぶきが上がるような戦いはしないつもりだが、相手によってはそれがやむを得ない場合もある。そんなものを見て、ソラは気分を悪くしないだろうか。
 リオラが部屋を出て行き二人きりになっても、フランベルジュはそのことを聞けなかった。来て欲しくないと受け取られるのではないかと思ったからだ。
 黙り込んでいると、ソラが唐突にこんなことを聞いてきた。
「ねえ、フランベルジュ。フランベルジュってさ、恋したことある?」
 恋なんて言葉は、フランベルジュにとって縁のないものであった。興味もなければ意識したこともない。
「ないな。そもそも城は男ばかりで、女といえば母親くらいしか…………あっ!」
 フランベルジュは咄嗟に言葉を切ったが、時すでに遅し。ソラは訝しげに、「城?」と、聞き返した。
「どういうこと?」
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
「え、そんなの無理よ。教えて」
 ここまで言っておいて隠すのは無理だと感じたフランベルジュは、渋々自分がここへ来た経緯をソラに説明した。ただ、黒竜族のことだけは伏せておいた。
「その話が本当なら、フランベルジュは王子様なの?」
「そういうことだ。頼むから、誰にも言わないでくれよ」
 焦るフランベルジュだが、ソラはふふっと笑って軽くあしらう。
「分かってるわよ。二人だけの秘密ね。それにしても……」
 ソラは頬杖をつき、机に視線を落とす。
「王子様、か……。そっか……」
 蝋燭の火が寂しげに揺れる。
 何かを考える仕草をしていたソラだったが急にぱっと顔を上げ、話の続きを再開した。
「と、いうことは……フランベルジュがここへ来たことは事故ってわけね」
「まあ、そうだな」
「じゃあ、ここから逃げようと思ってる?」
 ソラに自分が逃げ出す意思があることを白状していいものか悩んだが、ここまで知られたのだから無理に隠す必要はないとフランベルジュは考え、頷いた。
「そうよね。あなたを探している人もいるだろうし、こんなところで命を懸けて戦い続ける意味はないわ。あ、心配しないで。私、リオラ君にはうっかり口を滑らせてこの話をするかもしれないけど、ご主人様や他の奴隷には絶対に言わないわ」
「リオラには言うのか……」
「あら? もしかしてもう知ってる?」
 ソラの問いに、フランベルジュは苦笑いを浮かべながら首を横に振る。
 フランベルジュがここから逃げ出そうとしていることは薄々感づいているかもしれないが、剣奴として売られた経緯までは話していなかった。
「そう、なら話したほうがいいわ。だって……」
 ソラは先ほどまでとは打って変わり、真剣な眼差しをフランベルジュに向ける。そして、言葉を続けた。
「味方は多い方がいいもの。まあ、今のところは私とリオラ君だけで、今後も増える見込みはないけどね」
 最後に不安になりそうな一言を付け足してきたものの、ソラの言う通り事情を知って味方になってくれる者がいるのは心強かった。
「ここから逃げ出す方法は?」
「今のところ、ないわね。無計画に飛び出してもすぐに連れ戻されるわ。時間はかかるけれど、これから三人で考えましょう。そのうち何かいいこと思いつくわよ」
「そうか……そうだな」
 フランベルジュが力なくそう答える。
「だから、絶対に負けないでね。フランベルジュにもしものことがあったら、逃げ出すどころじゃなくなっちゃう」
「試合で負けることは……ないよ。大丈夫。心配するな」
 自信満々のフランベルジュの様子に安堵したのか、ソラはほっと胸を撫で下ろし、笑顔に戻った。
「それにしても……」
 また頬杖をつきながら、ソラが呟く。
「フランベルジュが王子様か……。なんだか実感が沸かない。でも、そう言われると他の人とは違うような気もしないわけじゃないけど」
 一人でぶつぶつとそう言っているソラに、フランベルジュは返す言葉もない。フランベルジュだって自分が王子だなんて自覚はなかった。
「ねえ、フランベルジュのお父さんってどんな人?」
 唐突な質問にフランベルジュは驚き、言葉を詰まらせる。
「どんな人かと言われても……。父はとても強い人だ。あとは……よく周りのみんなは私と父がよく似ていると言う。顔が……」
「へえ。じゃあかっこいいんだ、フランベルジュのお父さん」
 そう言いながら、ソラがにやっと笑う。
「自分の父親を客観的に見たことがないから何とも言えないが、そうかもな。強いし……」
「フランベルジュだって強いじゃない」
「いや、父さんに比べたら私なんて……」
 それからフランベルジュは自分の父ディアスがどれほど強い男なのかをソラに延々と話して聞かせた。ソラは適当に相づちを打ちながら話を聞いていた。そして、区切りのいいところで一言。
「フランベルジュってお父さんのこと大好きなのね」
 ソラに笑いながらそう言われ、フランベルジュはちょっと顔を赤くした。ソラの言うことは決して間違ってはいないが、フランベルジュは慌てて否定する。
「そ、そうじゃなくて! 父さんは強いから私はそれに憧れて……」
「うん。だから、大好きなんでしょ? お父さん」
「う……」
 今夜はフランベルジュの意外な一面が見られたと、ソラは面白そうに笑う。しかし、フランベルジュは恥ずかしそうに俯いてしまった。
「でもさ、親と仲がいいなんて羨ましいな。私は小さい頃に娼婦として売られてそれっきりだもの」
 ため息交じりにそう呟いたソラに、フランベルジュはずっと気になっていたことを聞いてみた。
「その、ショウフってなんだ? ソラはリオラと同じ奴隷じゃないのか?」
「娼婦っていうのは……」
 教えてあげようとしたが、ソラは口を噤んだ。誤魔化すようにまた笑う。
「フランベルジュは知らなくていいの! さ、話はここまで。ねえ、またトランプしない?」
 不自然に話題を変えられ、フランベルジュはそれ以上ソラを問い詰めることができなかった。
 聞いてはいけないことを聞いてしまったのか。気を悪くしたのではないか。そう心配するフランベルジュだったが、ソラは別段気にしている様子はなかった。
 その晩の二人は一緒に過ごしたが、初めて出会った時と何も変わらぬトランプの夜だった。

 フランベルジュの次の試合の相手は、思っていたよりも早く見つかった。公爵から伝言を預かったリオラは、約束通りぴかぴかに磨いておいた金属板を持ってフランベルジュの部屋へやって来た。約束通り、ソラも一緒である。
「はい、これ。できるだけ綺麗にしておいたよ。どうかな」
「ありがとう、リオラ。十分だ」
 フランベルジュは満足そうに微笑み、リオラが磨いた金属板を胸につけた。
 準備が整ったところで、三人は普段は出ることを許されていない屋敷の外へ足を踏み出した。
「久しぶりに外へ出たわ! 最近は買い物を頼まれることもなくて街へ出てなかったの。今日は何も買えないけど、ちょっとその辺のお店を覗きたい……」
 呑気な口調でそう言うソラだが、リオラは少しだけ強い口調でそれを制止する。
「だ、だめだよ! フランベルジュの試合があるんだからすぐにコロッセウムへ行かなくちゃ」
「分かってるわよー。ちょっと遠くから覗くだけ!」
 二人が言い合っている間に、フランベルジュはすでに歩き出していた。二人がついて来ないことに気づいたフランベルジュは振り返る。
「おい、二人とも何やってるんだ。行くぞ」
 リオラが慌ててフランベルジュのもとに駆け寄り、ソラがそれに続く。やはりフランベルジュの頭には試合のことしかないらしく、道中にソラがよく行く店の話をしても半分も聞いていなかった。
 早く逃げる方法を見つけ出してここを脱出しなければと思うものの、コロッセウムでの試合で自分の力がどこまで通用するのか試してみたい気持ちもあった。
 ディアスとの練習では負けばかりだったフランベルジュだが、今のところ敵なし。自分は弱いと思い込んでいたが、それなりに力はあるのではないか。たとえ、ディアスのにその力が及ばなくても……。
 もしかしたら、守れるのではないか?
「フランベルジュ!」
 リオラに呼ばれ、はっと我に返る。目の前はもうコロッセウムだ。
「僕ら、見ていることしかできないけど……頑張ってね」
「大丈夫、私がちゃんと応援してあげるから!」
 フランベルジュが二人からの激励を受けていると、そこへ公爵が早足にやって来る。フランベルジュの到着を待ち侘びていた様子だ。
 公爵はリオラとソラには目もくれず、緊張気味のフランベルジュに言った。
「来たな。今日は面白い相手を用意しておいた。存分に戦ってくれ。いつも以上に客も金も入った。戦い次第では、お前に少し還元してやってもいいと考えている」
 それだけ伝えると、公爵は早足に客席へ向かう。公爵のフランベルジュにかける期待のほどは大きかった。
「うわー……。ご主人様、ものすごく機嫌が良いわね。フランベルジュ、しっかり頑張るのよ。ご主人様のご機嫌を損ねないように」
 控室に入るなり小声でそう言ったソラだが、フランベルジュは首を傾げた。
「機嫌が良かった? いつもの無表情にしか見えなかったが」
「ぼ、僕も……。ご主人様の感情って読めない……。ソラちゃんはすごいや」
 二人の鈍感さに呆れたソラはため息をついたが、リオラが思い出したように「あ!」と、小さく叫ぶ。
「そうだ、ソラちゃんは昔ご主人様と一緒に過ご……」
 その言葉を聞いた瞬間、ソラはものすごい形相でリオラの足を踏みつけた。力いっぱい踏んだので、リオラはあまりの痛さに床に転げた。
「な、なんだ、どうしたんだ二人とも」
 うろたえるフランベルジュだが、ソラはおほほと笑いながら、「何でもないのよ」と、笑顔で言った。
 半泣きで床に転がるリオラが心配ではあったが、試合の時間は迫る。
 フランベルジュは意を決して競技場の中へ出た。
 今回はどんな剣奴が相手なのか。
 誰が来ても負ける気はしなかったが、この瞬間の緊張感は計り知れない。
 しかし、フランベルジュの目の前に現れたのは人間ではなかった。巨大な檻。その中にいたのは……。
「な、なんだ?」
 金色の体に黒いしま模様があるそれは、フランベルジュが今まで見たことのない生き物であった。猫に似ている気がするが、あんなに大きな猫は知らない。
 初めて見る動物に戸惑うフランベルジュを、観客席から公爵が見ていた。
「さて、虎相手にどんな面白い戦いをしてくれるのか……。楽しみだ」
 もちろん公爵はこの動物が虎であることを知っているが、フランベルジュは知る由もない。
 檻から放たれた虎は、目にも止まらぬ速さでフランベルジュ目がけて疾走してくる。そして、呆気にとられ身動きできずにいるフランベルジュに飛びかかった。危機を感じ、慌てて身をひるがえす。
「なんて速さだ!」
 フランベルジュは間一髪で虎から逃れ剣を構えたが、予測不可能な動きをする虎に一太刀も浴びせることができない。
 剣で切りつけるには虎に接近しなければいけないが、安易に近づくと鋭い爪が襲ってくる。
 フランベルジュは襲い掛かってくる虎の攻撃を懸命に避けたが、避けてばかりで全く歯が立たない。
 その様子をリオラと見ていたソラが、届かぬ悲痛な叫び声を上げた。
「フランベルジュ! 危ない!」
「うっ!」
 虎の爪が金属板を抉る。態勢を崩したフランベルジュは地面に転倒した。
 獲物が隙を見せたところを、虎は見逃さない。鋭い爪と牙をむき出しにしてフランベルジュに飛びかかった。
 虎の爪が両肩に食い込み、フランベルジュの体は完全に地面に叩きつけられた。
 遠くからでも血が見える。痛々しいその光景に、ソラは思わず顔を覆った。
 肩を抉られるその痛みに、フランベルジュは悶絶していた。
 逃げられない、殺される!
 まさに虎がフランベルジュの首にかぶりつこうとした、その時だった。
「コンナ所デ死ニタクナイダロウ?」
 笑いを含んだあの声が聞こえた。そして、かろうじて右手が握り締めていた剣の魔法石から、黒い閃光が飛んだ。
 虎は驚き、獲物の体の上から飛び跳ねた。フランベルジュは痛みを堪え、すぐさま立ち上がり怯んだ虎に立ち向かう。
 剣を構えたフランベルジュ。それを見た虎は、大きく跳躍した。
 もう、逃げないぞ。
 フランベルジュは飛び上がった虎の懐に飛び込み、その腹に深々と剣を突き刺した。吹き出した血が、フランベルジュの顔や腕に降り注ぐ。
 最後の力を振り絞り、フランベルジュは虎の体から剣を引き抜いた。
 やったのか?
 虎が死んだのかどうかまでは確認できなかった。虎に抉られた傷の痛みに耐えかね、フランベルジュは地面にうずくまる。
「フランベルジュ!」
 リオラが駆け寄って来た。ソラも一緒だ。
「大丈夫? 僕に掴まって、歩ける?」
 どうやら虎との勝負はついたらしかった。観客が歓声を上げる中、フランベルジュはリオラに支えられて競技場を後にする。
 ソラは血がついたままの剣を鞘に収め、二人の後を追う。
 その様子を観客席から見ていた公爵は、隣にいた付き人の奴隷に耳打ちをした。
「すぐに医者を呼べ。確か今、グロムナートから来ている優秀な医者がいたはずだ。そいつならこの国の医者よりも役に立つはずだ。金は惜しまん」
 奴隷は頷き、すぐさま席を立つ。
 公爵は観客席から死んだ虎を眺め、口元を歪ませて笑う。
「魔法が使えたとはな……。どこまでも楽しませてくれるじゃないか。私もついに、あれを使う覚悟ができたよ」

 傷を負ったフランベルジュは、公爵の付き人が用意してくれた馬車で急ぎ屋敷へ帰った。すぐにも医者が来ると言うので、リオラとソラはフランベルジュの傍で今か今かと待っていた。
「お医者さんすぐ来るって! 大丈夫だよ、フランベルジュ」
 ソラが励ますも、フランベルジュは意識が朦朧としていて答えることができない。
 待ち望んだ医者が屋敷に到着したのは半時間ほど経った頃だった。
「失礼しまーす。医者でーす」
 呑気な声でそう言いながら部屋に入って来た男を見て、リオラとソラは絶句した。
「こ、この人が、医者?」
 ソラの口から思わず本音が飛び出す。リオラは唖然としたまま男を見つめていた。
「え、ちょっと嫌だなあ。僕はれっきとした医者ですよ」
 困った顔でそう言った赤い髪の男は、長身だが顔は童顔で年の頃は三人とほぼ変わらないのではないかと思われた。グロムナート王国から来た優秀な医者と聞いていたが、とても国が認可した医者とは思えない。
 だが、医者だと言うからには治療をしてもらうしかない。二人は言いたいことを飲み込み、とりあえずはこの自称医者の男にフランベルジュの治療を任せることにした。
 男はフランベルジュの体をさっと見た。そして、「異常なーし。包帯巻いときますねー」と、軽い口調で言った。
 それを聞いたソラが憤慨する。
「ちょっと! ちゃんと見てちょうだいよ。こんなに酷い怪我なのよ! 虎に襲われたのよ!」
 そう詰め寄られ、赤髪の医者は困ったように頭を掻いた。
「知ってますよ。僕もさっきの戦い見ていました。でも、外傷は目立つけど血は止まっているから問題ないし……。胸は打撲しているけど、こんなのすぐに治りますよ。彼、頑丈なんで」
「なんであんたにフランベルジュが頑丈かどうかだなんて分かるのよ! 無責任なこと言わないで」
「ソ、ソラちゃん……」
 噛みつくように男に反論するソラをリオラがなだめるも、ソラは終始男を不審な眼差しで見ていた。
 男は決して優しいとは思えない手つきで包帯を巻いたので、時々フランベルジュが痛そうなうめき声を上げた。
「ちょっと! もっと丁寧にやりなさいよ!」
 ソラが注意すると、男は悪びれた様子もなくこう言った。
「あ、はい、ごめんさない。好きな人が大怪我したり病気になったりした時って、とても心配になりますよね。分かります」
「あ、あ、あんたねえ!」
 ソラは今すぐこいつの首を絞めてやりたい衝動に駆られたが、再びリオラになだめられて未遂に終わった。
「終わりましたー。これで大丈夫。びっくりするほどすぐに治りますよ。じゃあ、僕はこれで」
 包帯を巻き終わった男はもうここに用はないと言わんばかりにさっさと部屋を出て行ってしまった。これ以上ソラに何か言われるのも面倒だと言わんばかりに。
 部屋を出た男は訝しげにぽつりと呟いた。
「なんで同族がこんなところに?」
 しばらく考えるも、すぐに男は歩き出す。
「ま、僕には関係ないや」
 仕事は終わり、金ももらった。もう、ここに用はなかった。
「もう! なんなのあのやぶ医者!」
「まあ、まあ、ソラちゃん……」
 男が出て行った扉に向かってソラが叫ぶ。リオラはフランベルジュとソラを交互に見ながら、どうしようもなくおろおろしていた。
「ねえ、あの医者と知り合い?」
 ソラがベッドに横たわるフランベルジュに問う。
「し、知らな……」
「そうよね! あんな奴、知り合いなわけないわよね!」
 ソラの怒りが凄まじいので、リオラはフランベルジュに気を使い、勇気をだしてこう言った。
「あ、あのさ、ソラちゃん。フランベルジュも少し休みたいだろうし、僕らちょっと席を外さない?」
「……そうね。その方がいいかしら」
 案外素直に自分の提案を受け入れてくれたので、リオラはほっとした。そして、すぐに二人は部屋を出る。
「もう少ししたら食事を用意するから、それまで休んでてね。じゃあ、僕らはこれで」
 フランベルジュは小さく頷き、出て行く二人を見送った。

 リオラとソラは奴隷とはいえ、屋敷の中では自由に歩くことを許されていた。公爵の部屋や食事をする広間には仕事以外での出入りは禁止されているが、大切な書物などが貯蔵されている部屋でさえ、自由に出入りしても何も問題はない。公爵は字の読み書きができない者を選んで働かせていたからだ。
 フランベルジュの部屋を出た二人は、奴隷用の厨房で座り込んで話していた。
「フランベルジュ、大丈夫かな……。あの医者信用できないわ」
 ソラがそう言うのを、リオラは黙って聞いていた。リオラもあの医者を完全に信用してはいなかったが、公爵が呼んだ医者なのだからいい加減な診断をするとは思えなかった。もし、フランベルジュが戦えなくなれば公爵の損害も計り知れない。
 ぶつぶつと医者の文句を言うソラだったが、リオラは思い切って話を断ち切り、こんなことを聞いた。
「ソラちゃん。ソラちゃんは、フランベルジュのことが……好きなの?」
「え? なんでそんなこと聞くのよ」
 ソラは笑いながら軽く聞き流そうとしたが、リオラは引き下がらなかった。
「だって、だって……。そう、見えるから」
 俯き加減でそう言ったリオラだったが、ソラはそれを否定しようとした。
「わ、私は娼婦よ? 身を売る相手に好意的な態度を取るのはと、当然だわ。だって、し、仕事だもの……」
 そうは言ったものの、ソラは胸が締め付けられる思いがした。言葉が途切れ途切れになる。さっきまでの笑顔も消えていた。
「でも、フランベルジュはソラちゃんが娼婦だって知らないよね?」
「言えるわけ……言えるわけないじゃない!」
 ソラはつい声を荒げてしまった。リオラの顔を見ずに、「ごめんなさい」と、謝った。
「フランベルジュが……フランベルジュが最初から私を娼婦として見てくれていたらこんな気持ちにはならなかったわ。ただ、自分の欲を満たす為だけの道具として使ってくれたら……。でも、あの子、何も知らないのよ。娼婦のことはおろか、男と女はそういう行為をするものだってことすら知らないわ。もう、なんなのあの子は。おバカさんなの?」
「ソラちゃん……」
 自分から話を初めておきながら、リオラは何と答えてよいのか分からなかった。しかし、ソラは自嘲気味に言葉を続けた。
「……嬉しかったの。私のことをそういう目で見ない人に出会えて。夜だけじゃなく、いつでも私を歓迎してくれるあの子が……」
 泣き出しそうになり、ソラは口を噤んだ。
 黙って話を聞いていたリオラは拳を強く握りしめ、意を決したように言った。
「あの……あのさ、ソラちゃん。いつになるかは分からないけど、フランベルジュはきっとご主人様に自由にしてもらえるよ。その時、フランベルジュがソラちゃんを欲しいって言えば、ご主人様もきっと許してくれると思うんだ。奴隷同士が結婚するのはおかしい話じゃないし、それに……」
「無理よ」
「え?」
 ソラがリオラの言葉を遮った。
「フランベルジュは、どこかの国の王子様なんだって。悪い連中にさらわれて剣奴として売られたって……。それが本当なら、王子様のフランベルジュが娼婦の私なんかをもらってくれるわけないじゃない。最初から身分なんて釣り合ってないのよ。あの人は、奴隷じゃないわ。今も王子様なのよ」
「フランベルジュが、王子様?」
 リオラは話の内容がいまいち飲み込めていなかったが、フランベルジュが高貴な身分であることはなぜか納得してしまった。あの身のこなしには、どこか上流階級の公爵と通ずるものを感じていたのだ。
「フランベルジュはきっとここから逃げ出すわ。私にできるのは、それに協力してあげることだけよ……」
 ソラが無理をして笑ったのくらい、リオラにだって分かっていた。だけど、どうすることもできなかった。
「ねえ、リオラ君……」
 ソラは俯いたまま、消え入りそうな小さな声で言った。
「それまで……フランベルジュがここから逃げ出すその時まで、私、あの人を好きでいていいのかな?」
 リオラはすぐに答えられなかった。
 ソラがフランベルジュの名を呼ぶ度に、リオラの心もちくちくと痛むのだった。
 本当の気持ちを言えないのは、ソラだけじゃない。それでも、リオラは……。
「うん、いいと思う。ソラちゃんの気持ちが変わらないなら、ずっと好きでいいと思う」
 とうとうソラは、ぽろぽろと涙を流した。なんだかリオラまで泣きたくなってしまう。
「ねえ、ソラちゃん。僕たち、本当にフランベルジュが大好きになっちゃったんだね……」
 その日のフランベルジュの夕食は、ソラも一緒に作ってくれたものだった。しかし、こんな顔じゃフランベルジュに会えないと、ソラは自室に戻ってしまった。
 フランベルジュに夕食を食べる元気があるかどうか不安だったが、リオラは約束通り夕食を持ってフランベルジュの部屋へ向かうのだった。
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