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ラジエルの書第五十五巻―悪魔たちの王―  1

 「ディアス様! ディアス様!」
 扉の向こうから侍女の声が聞こえてくる。バタバタと走る足音も聞こえてきた。
 そろそろかと思った頃、ノックもなしに部屋の扉が開いた。
「ディアス様、産まれましたよ!」
「そうか……そうか……。ようやく産まれたか!」
 ディアスと呼ばれた男は部屋を飛び出し、風のように城の廊下を走って行く。侍女が後ろで何か叫んでいたが、ディアスには聞こえていない。
 男とは思えない美しいその顔に笑みを浮かべながら、ディアスは城の廊下を走って行く。長い黒髪がわずかになびいた。
 これでもディアスは一国の王で、今生まれてきた子供は大切な跡継ぎだ。
「アルメリア!」
 大きな声で妻の名を呼び部屋に入ると、そこにいた侍女たちがディアスに注意をする。
「ディアス様、お静かに! 今やっと眠ったところなんですよ」
「あ、ああ。すまん……」
 侍女たちに平謝りしながらベッドに横たわる妻の傍に行く。その隣には小さな赤ん坊がいた。
「あなた……男の子ですよ。あなたにそっくり」
 ディアスはそっとアルメリアの手を握る。そして隣にいる赤ん坊を見て、こぼれんばかりの笑みを浮かべた。
「男の子でも女の子でも、元気な子ならそれでいい。よく頑張ったな」
 ディアスが笑うと、アルメリアも安堵の笑みを浮かべた。
「あなたの顔を見たら安心しました。私もこの子と一緒に少し眠ります」
「ああ。今は休め。お前の体の調子が良くなったら祝いの宴を開こう」
「はい」
 返事をしてすぐアルメリアが目を閉じたので、ディアスはそっと傍を離れる。
「あなた」
 呼び止められ、ディアスが振り返る。
「この子の名前、考えてくれまして?」
「もちろんだ」
ディアスはもう一度アルメリアと赤ん坊の傍へ行き、言った。
「フランベルジュ……。フランベルジュ・ブラックレイ」
 その名前の意味を知ってか知らずか、アルメリアは微笑み、そして頷いた。
「あなたらしいですね。よい名だと思います」
 


 ディアスが治める国は、湖に囲まれた緑豊かな土地にあった。気候は一年中温暖で、寒さに苦しめられることはない。人々は自給自足で何不自由なく暮らしているようだったが、外国からこの国にやって来る人間は皆無だった。それはこの国が閉鎖的だからではなく、世界中の人々がこの国の存在を知らないからだ。
 それもそのはず。この国に住む者はみんな「黒竜族」という、ある大きな戦争で滅びたと言われる種族の生き残りたちだったのだ。
 竜といえども、その暮らしぶりは人間と何一つ変わらない。王族であるディアスやフランベルジュも例外ではなかった。
 特別な力があるわけでもないので、幼いフランベルジュにとっては自分が人間であろうが黒竜族であろうが関係のない話だった。
 母アルメリアはフランベルジュを産んでから病に倒れ、部屋で寝たきりの生活になってしまったが、フランベルジュは健康に育ち、無事に十歳の誕生日を迎えた。
 父親そっくりの端整な顔立ちに、父親と同じ黒い髪。姿は父親と似ていてもまだ子供。フランベルジュはちょっと怖がりで泣き虫だった。
 そんなフランベルジュをディアスは溺愛した。玉座の上であろうがお構いなしに、フランベルジュを膝に乗せて遊ぶディアスはとても幸せそうだった。
 城では毎日二人が遊ぶ姿が見られ、のんびり平和な時間が流れていた。
 国中の人々が城と呼ぶその建物は屋敷と呼んだほうが正しい建物だったが、みんなが城と言うので、フランベルジュもこれが城なのだと思っていた。
 天気の良いある日、フランベルジュが庭で遊んでいると見知らぬ男が声をかけてきた。
 一目で城の者ではないことが分かるその男は老けていて、背には大きな背嚢があった。男が何歳くらいなのか、フランベルジュには検討もつかない。
「よお、お前がフランベルジュか?」
 男はへらへらとフランベルジュに尋ねる。
「そう、ですけど……。ええと、どちらさまですか?」
 フランベルジュの顔をまじまじと見つめて、男は大笑いした。
「お前、本当にあいつそっくりだな! かわいそうだな!」
「え……」
 戸惑うフランベルジュ。どう反応してよいか分からずおどおどしていると、ディアスが怒りの表情でこちらへ向かってくるのが見えた。
「父さん、この人……」
 フランベルジュが口を開きかけたその時、ディアスは問答無用で男に殴りかかった。男は拳をひらりと避け、ものすごい形相のディアスを見てなおへらへら笑っている。
「危ねえじゃねえか。何すんだよ」
「貴様……このくそじじい! フランベルジュから離れろ」
 男はやれやれと肩をすくめ、フランベルジュに向かって言った。
「お前もいつか、あんなふうになるのかねえ」
 その言葉を聞いたディアスはさらに激怒し、腰の剣に手をかけた。冗談ではなく本気なのが、張り詰めた空気から伝わってくる。フランベルジュは思わず身をこわばらせた。
「おいおい、まさか可愛い息子の前でオレをぶっ殺したりしねえよな?」
「さあな。お前が今すぐに城を出て行くというのなら、考えてやろう」
「へいへい。分かったよ。今日のところは帰りますよ、と。せっかく来てやったってのに、酷いねえ」
 男はひらひらと手を振り、庭を出るべく二人に背を向けた。途中、振り返って男は言った。
「また来るわー」
「二度と来るな!」
 男の言葉が終わらないうちに、ディアスが叫ぶ。フランベルジュは気まずそうに二人のやり取りを見ていた。
「父さん、あの人、誰?」
 男が行ってしまってから、フランベルジュは恐る恐るディアスに尋ねた。
「あいつは……」
 ディアスは困った顔をし、言葉を詰まらせた。そして少し考えてから、こう言った。
「あいつは、父さんの友達だ」
「そうなんだ。なんて名前?」
 友達なのに追い返していいの? とは聞けず、フランベルジュは無難に彼の名を聞いた。
「名前? あいつの名前か……」
 ディアスは再び言葉に詰まる。
そういえば、あいつの名はなんといったろう。もう長い間名前なぞ呼んでいない気がする。そうだ。思い出した。確か、そんな名前だった。しかし、フランベルジュに教える必要は、ない。
 ディアスは笑って、フランベルジュの頭を撫でた。
「じいさん、とでも呼んでおけ。案外喜ぶかもな」
 ディアスの答えに、フランベルジュは首を傾げる。じいさんという言葉が人の名前でないことくらい、フランベルジュにも分かっていた。しかし、ディアスがそう言うのならそれでいいのだろうと思った。
 二度と来るなと言われたにも拘らず、じいさんは数日後にまた城へやって来た。
 フランベルジュが「じいさん!」と、呼ぶと、なぜだか嬉しそうな顔をした。そして、ぽつりとこんなことを言った。
「懐かしいねえ……。昔、オレのことをそう呼ぶ連中と一緒にいたこともあったなあ。まあ、お前に言っても分かんねえかー」
 遠い昔を懐かしむように、じいさんはため息をついた。
 じいさんが何の用事で城に来るかは分からない。ディアスが乱暴に追い出したのはあれっきりで、今はじいさんが城をうろうろしたり、フランベルジュにちょっかいを出したりしても怒らない。
 二人はディアスの自室にこもって何かを話しているらしかったが、大人の話らしいので、フランベルジュには何も教えてくれなかった。
 ディアスと何の話をしているのかは教えてくれないじいさんだったが、暇を見つけてはフランベルジュにいろいろな遊びを教えてくれた。
 ある時、じいさんはフランベルジュに長い紐を結び付けた棒切れをプレゼントした。
「これ、なに?」
 フランベルジュが聞くと、じいさんは驚いた顔をして言った。
「釣竿だよ、釣竿! お前、釣りを知らないのか?」
 フランベルジュは苦笑いをしながら首を横に振る。
するとじいさんは、釣りがどんなに面白いことなのかを延々と語り始めた。釣れそうな場所探しから始まり、餌はどうだのと長くなりそうだったので、フランベルジュはじいさんの話を遮って言った。
「うん、うん、分かったよ。父さんに湖へ行ってもいいか、聞いてくるね!」
 じいさんの長話に興味はなかったフランベルジュだが、釣りというものはとてもやってみたかった。
 玉座にいるディアスのもとへ駆けて行き、一生懸命お願いをする。
「ね、ね、いいでしょ? この釣竿を使って湖から魚を引っ張り上げるんだって。面白そうでしょ?」
「じじいと釣り、ねえ……」
 頬杖をつき、呆れた顔でディアスは呟く。
「父さんとじゃなく、じじいと、ねえ……」
 自分とではなくじいさんと一緒に行くことが気に入らなく渋っていたディアスだったが、フランベルジュの熱意に負け、釣りに行く許可を出した。
 喜ぶフランベルジュにディアスが釘を刺す。
「日が暮れる前には必ず帰って来い。あいつにもそう言っておけ」
「分かった」
 こうしてフランベルジュはじいさんと一緒に近所の湖へと足を運んだ。じいさんが竿を持ち、フランベルジュは釣れた魚を入れるための桶を抱えていた。
「よーし。ここらでいいだろ。始めるぞー」
 釣れそうな場所探しについてあれだけいろいろと語っていたのに、じいさんの場所選びは酷く適当だった。
「岩場とか水草のあるところがいいってさっき……」
 フランベルジュが言うと、じいさんは針に餌を引っかけながら面倒そうに答えた。
「そりゃお前、海の話よ。ここは湖だろ?」
 なんだか納得いかなかったが反論もできず、フランベルジュは黙ってじいさんの釣りを見ていた。どんな魚が釣れるだろうと、わくわくしていた。
 しかし、いつまで経っても魚が釣れる気配はない。そうしているうちにだんだんと日が暮れてきた。
「じいさん、そろそろ帰らないと父さんが……」
「まー待てって。もうすこし粘れば釣れるかもしれねえ」
 呑気に釣りを続けるじいさんを尻目に、フランベルジュはそわそわして落ち着かなくなっていた。
 約束を守らなければディアスはとても怒るだろう。じいさんが責任を取ってくれるとも思えない。
 フランベルジュは一刻も早く城へ帰りたかった。
「ねえ……」
 「もう帰ろう」と、もう一度じいさんにそう言いかけた時、背後の森からがさっと何かが動く音がした。
 びくりと肩を震わせフランベルジュが振り返る。じいさんも気づいたのか、釣りをやめ、音がした方に視線を向ける。
「こ、これは……!」
 じいさんが音の正体に一歩歩み寄る。
「あ、危ないよ! じいさんっ」
 フランベルジュが止めるのも聞かず、じいさんは嬉しそうに舌なめずりをした。
「おい、フランベルジュ。釣りはやめだ。今夜はこいつを食うぞ!」
「で、でも、食べるって、それ、く、く」
「熊はうまい! オレが保証する!」
 じいさんは迷わず腰の剣を抜き、恐れる様子もなく自分より大きい熊と向かい合った。
 熊のほうもじいさんを食べ物と認識しているらしく、獲物をしとめるべくじいさんに向かって突進して来た。
 じいさんは熊の一撃をひらりとかわし、剣を振り上げる。その剣の黒い刃が、夕日を受けてぎらりと光った。
 ほとんど一撃だった。
 熊の巨体が地面にどさりと崩れ落ちた。
「やったぜー。へっへー」
 気楽に笑うじいさんだったが、フランベルジュは笑えなかった。心臓が今までにない速さで動いている。
 立ち尽くすフランベルジュに、じいさんは声をかけた。
「おーい、帰るぞ。早くしねえと完全に日が暮れちまう」
 じいさんの言葉にはっとし、フランベルジュは竿と桶を持って走り出した。じいさんは熊を引きずりながらその後を追う。
 熊よりも、怒ったディアスの方が恐ろしい。
 フランベルジュが城へ駆け込むと、すぐ目の前でディアスが待ち構えていた。
「やっと帰って来たな、フランベルジュ。あともう少し遅ければ父さんはお前を探しに……」
 そこまで言って、ディアスは後からやって来たじいさんを見た。熊を引きずっている。
「そう怒るなって。オレがついてんだから心配ねえだろ」
 フランベルジュを叱るディアスに、じいさんは軽くそう言った。ディアスは顔を引きつらせる。
「貴様と一緒だから余計に心配なんだ! しかもなんだそれは! 熊……? どういうことだ。お前たちは釣りに行ったんじゃなかったのか?」
「まあ、細かいことは気にすんなって。熊食おうぜ、熊」
 じいさんは熊を引きずったまま勝手に調理場の方へと向かう。それを慌ててディアスは追いかけた。
「おい、待て! 勝手なことをするな」
 一人残されたフランベルジュは、とりあえずディアスに怒られずに済んでほっと胸を撫で下ろした。
 その日の夕食の席にはじいさんも同席し、テーブルには熊を焼いたものが置かれていた。じいさんは美味しそうにそれを食べフランベルジュにも勧めてきた。勧められるままに一口食べたフランベルジュだったが、肉はとても固く、美味しいとは思えなかった。
 ディアスはじいさんに付き合い、仕方なく食べているといった様子だ。
「まったく、城の料理人たちを困らせやがって……」
「いいじゃねえの。どうせ焼くだけなんだから」
 罵り合う二人を見ながら、フランベルジュはディアスが作った焦げたパンをかじる。
 病気のために部屋から出られないアルメリアの代わりに少しでも自分が母親の代わりをしようと、ディアスはフランベルジュの食事の世話までしていた。腕の良い料理人がいるから食事のことは彼らに任せておけばよいものを、ディアスは無理をして自分とフランベルジュの食事を作っていた。パンは苦く、丸焼きにした肉はいつも真っ黒に焦げていた。もちろん、スープには何の味もない。
フランベルジュはそれが苦痛でたまらなかったが、熊の肉を食べるくらいならディアスのまずい料理を食べているほうがましだった。
 その夜、じいさんが帰って城が静かになってから、フランベルジュはディアスの自室を訪れた。
「子供はもう寝る時間だぞ」
 そう言いながらも、ディアスはフランベルジュを部屋に迎え入れてくれた。
 フランベルジュが生まれる前はアルメリアもこの部屋で生活していたが、病気になってからは別室に移っていた。今はディアス一人しかいない。
「父さん、今日ね……」
 フランベルジュが話し始めると、ディアスは少し微笑みながらその話に耳を傾けた。
「なんだ」
「今日、じいさんが熊と戦ってるのを見たんだ。剣を抜いて、とっても格好良くてね。それで」
 フランベルジュは一瞬間をおいて、再び口を開く。
「ぼ、僕にもできるかな。あんなふうに、僕も戦えるかな」
 フランベルジュの問いかけに対し、ディアスは真剣な顔で頷いた。
「できるとも」
「僕にも、できる?」
 ディアスの意外な答えに、フランベルジュはとても驚いた。いつものように笑われて終わると思っていたからだ。
 しかし、ディアスは本気のようで、部屋に置いてあった剣の一つをフランベルジュに手渡す。
 まだ十歳のフランベルジュにとってその剣は、持っているだけで精いっぱいの重さだった。
「本物の剣だ。お前が本気で私から剣を学びたいと思うなら、それはお前にくれてやる。さあ、どうする。お前は本気か? それとも、その剣の重さを知って諦めるか?」
 剣を手渡されてから僅かな時間しか経っていないが、両手で抱えるのも限界だ。それでもフランベルジュは剣を離さない。体が震えるのを我慢し、首を横に振る。
「僕は、僕は本気だよ、父さん」
 強がってそう言うのが精いっぱいだったが、ディアスは満足そうに微笑んだ。
「分かったよ、フランベルジュ。しかし、一たび剣を持てば親も子もない。本気でいくぞ。それでも、いいんだな」
 何度問われても、フランベルジュの意思が揺らぐことはなかった。
 部屋に戻ると、フランベルジュはすぐさまベッドに潜り込んだ。
 今日はいろんなことがあってとても疲れた。早く寝ようと思い、目を閉じる。
「自ラ戦イニ身ヲ投ジタカ……」
「ヤハリ、血ハ争エン」
「止メナクテイイノカ?」
「無駄ダロウ。止メタトコロデ……」
 なんだか変な声が聞こえたような気がした。それも、一人ではなく複数だ。しかし、部屋の中にはフランベルジュ以外の誰もいないはずだ。
 夢の中の声だろうか。そう思い、フランベルジュは気にもとめなかった。


 翌日からフランベルジュはディアスに剣を教えてもらおうと思い、重たい剣を半ば引きずるようにして持って行った。
 しかし、それを見たディアスは笑いながら言う。
「そんな状態では私が教えることは何もない。その剣をきちんと持ち上げて百回振れるようになったら来い」
 幼いフランベルジュにとって百という数字は無限に近い数だ。
 途方に暮れながらも、とりあえず庭に行き、剣を振ろうと持ち上げてみる。
 一回目はなんとか振り上げて振り下ろすことができたが、二回目、三回目になると体力が続かない。五回もやらないうちに、フランベルジュは地面にへたり込んでしまった。
「はっはっは! なんだよ、ずいぶん無理してんなあ」
 どこからともなく聞こえてくるじいさんの笑い声。普段ならなんとも思わないが、今はそれが腹立たしい。
「そんなんじゃお前、手合せするなんて百年早えな」
 むっとした目つきでじいさんを睨む。
「おお、こええ! やっぱりお前、あいつそっくりだわ」
 そう言ってじいさんはまた笑った。
「馬鹿にしに来たなら帰ってください。僕は真剣なんです」
「わーってるって。お前がその剣を自由に扱えるようになるまで、オレが手伝ってやるから。そう怒るな」
 じいさんはそう言うと、フランベルジュに二つの桶を手渡した。じいさん自身も両手に桶を持っている。
「この桶に湖の水を汲んで、先にこの城に帰って来た方が勝ちだ。よーい、始め!」
「あ、ちょ、ちょっと!」
 じいさんは勝手に合図をし、ものすごい速さで走り去って行く。フランベルジュはだいぶ遅れてじいさんの後を追う。
 じいさんと釣りへ行ったあの湖は、城下町を出て十五分ほど歩いた所にある。その道のりをフランベルジュは走った。
途中、水を汲み終わったじいさんとすれ違う。
「おい、おっせーぞ!」
「うるさい!」
 やっとのことで湖に着き、両手の桶になみなみと水を汲む。後はこれを持って帰るだけだ。
 二つの桶を持ち上げようとし、フランベルジュは「うっ」と唸った。
「お、重い……」
 これを持って走って城に帰るなど、とてもできそうにない。しかし、じいさんに馬鹿にされたくなくて、力を振り絞る。
 城に着く頃にはもう、走る体力が残っていなかった。ふらふらと帰って来たフランベルジュをじいさんが叱咤する。
「いつまでかかってんだバカヤロウ! そら、もっかい行くぞ」
「も、もう一度? そんな……」
「もう諦めんのか? 親父に相手にもされないうちに?」
 じいさんはフランベルジュを挑発するようににやりと笑った。
「僕は……僕は諦めないぞ!」
 フランベルジュは再び桶を持つ。
「そうそう、それでこそ男ってもんよ。ほら、行くぞ!」
 今度はじいさんと同時に出発したが、みるみるじいさんが小さくなっていく。
 次の日も、その次の日も、フランベルジュの腕が痛くなっても、じいさんの謎の特訓は続けられた。
 一度もじいさんより早く湖に着けないばかりか、すれ違いざまに「おせー! バカ!」と、罵られても、歯を食いしばって耐えた。
 じいさんに馬鹿にされることだけでもう十分腹が立つのに、最近フランベルジュにはもう一つ腹の立つことがあった。
 あの不思議な声だ。
 毎夜聞こえてくるその声は、少しでも体を休めたいフランベルジュにとって耳障りで仕方なかった。
「アイツハ強クナルカ?」
「ナラナケレバ、死ヌダケサ」
「ソノ時ハ……」
 フランベルジュは頭から布団をかぶり、その声を聞かぬよう努力した。
 あれは一体なんなのだろう。他の人にも聞こえるのだろうか。彼らは何の話をしているのだろう。
 気になりはしたが、誰にも相談できなかった。
 疲れ果てたフランベルジュはじいさんの特訓をサボり、こっそり母のいる部屋へ行った。
 ドアをほんの少しだけ開け、「母さん」と、呼ぶと、中からアルメリアの声がした。
「フランベルジュ? 入ってらっしゃいな」
 部屋に入ると、いつもいる侍女たちはいなかった。
「今日は少し調子がいいから、みんなには少し休んでもらっているのよ」
 アルメリアはベッドの上でそう言った。フランベルジュが来たことをとても喜んでいるようだった。
「それで、父さんとの剣の稽古はどうなったの?」
 優しくそう聞くアルメリアに現状を話すのが恥ずかしくなり、フランベルジュは黙り込んだ。
「あまり上手くいっていないの?」
「そうじゃないけど……。僕、まだ父さんとは稽古してないんだ。ちゃんと剣が持てないから」
 その代わりにじいさんと特訓していることや、めげそうなことをぽつりぽつりと話すと、アルメリアは優しくフランベルジュの頭を撫でた。
「頑張ってるね、フランベルジュ。父さんはきっとあなたと剣を合わせる日を楽しみにしているわ。今か今かって、待っているのよ。フランベルジュが剣を持てるようになったら、父さんはとても喜ぶわね」
 フランベルジュは黙って頷く。
「期待……しているんでしょうね」
 独り言のように、アルメリアはそう呟いた。
「よし、じゃあフランベルジュ、母さんと約束しない?」
「約束?」
「そう。フランベルジュがおじいさんとの特訓を終えて父さんとの特訓ができるようになったら、プレゼントをあげる」
「プレゼント? 何?」
 フランベルジュの目が輝く。
「それは内緒! 父さんとの特訓の日が決まったら、必ず母さんに教えてね」
「うん、分かった! 僕、頑張るね」
 フランベルジュはアルメリアの部屋を飛び出し、じいさんが待つ庭へと急ぐ。
「どこ行ってたんだこのバカ!」
「ごめん。今日はいつもの二倍やるよ」
「当たり前だ!」
 じいさんに叱られながらも、フランベルジュは特訓を再開する。父と、そして何より母の期待を裏切りたくない。
 一年後、フランベルジュはついにディアスとの剣の稽古が許された。
 じいさんとの特訓のおかげで、ディアスがくれた剣を軽々持ち上げられるようになったのだ。
 いよいよ明日は父と初めて剣を合わせる日だ。それなのに、その夜もあの声が聞こえた。
「トウトウココマデキタカ」
「早カッタ」
「シカシ、アイツ、殺サレルゾ」
「バカナ。自分ノ息子ヲ殺スモノカ。ダガ、死ヲ見ルカモシレナイナ」
 声の主たちはそう言って笑っていた。


 ディアスは内心喜んでいた。フランベルジュがこんなに早く自分と剣を合わせる日が来るとは思っていなかったのだ。興奮する気持ちを抑え、自分の剣を抜く。
 目の前にいるのはただの十一歳の子供ではない。ディアスは自分にそう言い聞かせた。
 いつまでも小さな子供だと思っていたが、一年前よりも背が伸び、じいさんの特訓のおかげか体格もよくなった気がする。
「剣を構えろ、フランベルジュ」
 フランベルジュはみようみまねでディアスと同じように剣を構えた。
 まず始めにディアスは何を教えてくれるだろう。フランベルジュがそんなことを考えていると、なんとディアスがいきなり斬りかかって来た。
 驚いてディアスの剣を受け止めるも、力の差は歴然としている。
 フランベルジュは剣を振るうための力をつける特訓はしたが、実際に剣を使って戦うのはこれが初めてだ。
 ディアスの剣をひたすら力任せに押し返す。
「なるほど、力はそれなりにつけたか」
 そう言って、ディアスはフランベルジュとの距離をとる。フランベルジュにはディアスが相当手加減しているのが分かった。悔しいが、本気でかかってこられたら、死ぬ。
「まだ何も教えてもらってないのに!」
「いきなり斬りかかるのは酷い、か?」
 ディアスは剣を収め、腕を組んだ。
「実戦なんてこんなもんだ。お前の剣の腕前なんてどうでもいい。剣を持っている奴はみんな剣士。戦い、殺し合う対象だ」
 ディアスの言葉に、フランベルジュはごくりと唾を飲み込んだ。つまり、相手が父でなければフランベルジュは殺されていたと言いたいのだろうか。
「私は本気だぞ。死なない程度に手加減はするがな」
 そう言って薄く微笑んだディアスの目が怖かった。これが戦うということなのか。フランベルジュにはまだよく分からなかった。
「それと、剣に頼りすぎるな。本当に強い剣士は名剣なんて使わなくても強いものだ。お前を守るのは剣ではなく、お前自身だ」
 ディアスが何を言わんとしているのか、今のフランベルジュには理解できなかった。

 アルメリアの容体は良くない。フランベルジュと約束したプレゼントも作れなかったらしく、申し訳なさそうに何度も謝った。
「ごめんね、フランベルジュ。後で必ず……」
「いいんだよ、母さん。プレゼントなんかより、早く体を治してね。その間に僕はもっと強くなるよ」
 フランベルジュはアルメリアの手をそっと握った。プレゼントは楽しみだったが、母の体のほうがずっと大事だった。
 不思議な声たちが言う。
「モウ長クナイナ」
「アイツハ悲シムカナ」
「サア、ドウカナ。シカシ、所詮アイツモ我ラノ仲間サ」
 長くないとは、母のことだろうか。あいつとは?
 今まで聞こえないふりをしていきたその声に、フランベルジュは耳を傾ける。誰のことを言っているのだろう。問いかけたら答えてくれるだろうか。
 そう思いながらも、フランベルジュはそれ以上深く追究しようとしなかった。
 それよりも、ディアスとの稽古が辛すぎて死にそうだった。稽古を始めて一ヶ月以上経っても、フランベルジュはディアスに反撃すらできない。
 稽古の時だけは、ディアスは人が変わったように厳しい。本当にフランベルジュのことを息子だと思っていない様子である。
「守りの態勢から抜け出せなければ、いつまで経っても上達しないぞ!」
「そんなこと、できたらとっくにしてるよ!」
 腹が立ち、力任せにディアスの剣を弾いて反撃に出た。しかし、隙だらけの攻撃はすぐに防がれ、フランベルジュの手から剣が落ちた。
「……今日はここまでにしよう」
 ディアスが剣を収める。
 疲れて地面に座り込んだフランベルジュの隣にディアスも座った。さっきまでの剣幕はどこへやら、優しい口調でディアスはフランベルジュに言い聞かせる。
「感情で動くと隙ができるぞ。あと、守りから攻めに入るときにはよく間合いをはかってだな……」
 ディアスの話をフランベルジュは返事もせずに聞いていた。いつもこうなのだ。稽古が終わってからああだこうだと言って。なぜさっき言ってくれなかったのか。さっき教えてくれれば、フランベルジュにも反撃の機会があったはずだ。
 自分の胸の中で言ったはずだったのが、思わず口に出たらしい。ディアスは険しい顔をした。
「それでは何か。私はお前が必ず反撃に成功するよう剣を振るえばいいのか。手本通りの剣術なんて何の役にも立たない。敵はお前の思い通りには動かないのだぞ」
「そんなこと……そんなこと……」
 ディアスに言い負かされたのが悔しくて、フランベルジュは顔を真っ赤にした。
「言われなくたって分かってるよ、父さんのばか!」
 本当は分かってなんかいない。ディアスの言うことなんてちっとも分からない。でも、悔しくてついそう叫んだ。また何か言われるのが怖くなり、一目散に城の中へと走って行った。
 もちろん、向かう先は母の部屋だった。
 部屋に入るなり、フランベルジュはアルメリアにすがりついて泣きじゃくった。
「あら、あら……。どうしたの? 父さんと何かあったのね?」
 フランベルジュが泣き止むまで、アルメリアはずっと背中をさすっていた。
 少し落ち着いてきた頃、アルメリアは机の上に置いてあった包みをフランベルジュに差し出す。
「フランベルジュ、見て」
 アルメリアがにこにこしながら包みを開く。
「じゃーん。母さんの手作りクッキーよ」
「クッキー?」
 フランベルジュはアルメリアから包みを受け取り、まじまじと見つめる。
 丸くてきつね色のクッキーがたくさんあった。いい匂いもする。
 一つ食べてみると、それは今まで食べたことのない味がした。
「クッキー……。クッキーって、こんなに甘くてさくさくしてるものなんだね。おいしいね。クッキー……」
 嬉しそうにクッキーを頬張るフランベルジュの言動にアルメリアは疑問を感じたが、その原因がすぐに分かった。
「あ、フランベルジュ! お前、ここにいたのか!」
 ノックもなしに部屋に入ってきたディアスは、フランベルジュの手の中の物を見て言った。
「いいもの持ってるな。父さんにも一つくれよ」
「やだ! これは母さんが僕にくれたんだ。これ、クッキーっていうんだって。クッキーって丸くて甘くておいしいお菓子だよ。父さんが作ってくれたのは真っ黒で苦かったもん。あんなのクッキーじゃないや。嘘つき!」
「なんだと! ちょっと焦げただけじゃないか。生意気言いやがって……」
 二人の会話を聞いて、アルメリアは呆れたようにディアスに言う。
「あなた、料理……してるの?」
「あ、い、いや……。料理というか……その……」
 ディアスは都合が悪そうに言葉を続ける。
「子供は親の作った料理を食べて育つものだろ? 私もそうだった……。だから、フランベルジュにも何か作ってやりたかった」
「そうだったの。言ってくだされば私もお手伝いしたのに」
 フランベルジュの様子から、ディアスの料理の出来があまり良くないことに気づいたアルメリアは苦笑した。
「フランベルジュ、今度から母さんも父さんの料理を手伝うね」
「うん。ぜひそうして」
 フランベルジュはクッキーを頬張りながら返事をする。
「まったく、フランベルジュは母さんの前だと強気だな。ほら、父さんにもクッキーくれよ」
「うん、いいよ」
 さっきまで喧嘩をしていたのも忘れ、フランベルジュはディアスの口にクッキーを放り込み、アルメリアにも一つ手渡した。
 稽古でしごかれても、言い争っても、やはり二人は親子だ。
「フランベルジュ、明日も稽古をするぞ。今日はもう休め」
 ディアスが声をかけると、意外にもフランベルジュは笑みを浮かべて答えた。
「分かってる。明日は負けないから」
「ほう。では、私も本気を出さねばな」
 フランベルジュが行ってしまってから、アルメリアは心配そうにディアスに尋ねた。
「あなた、少し厳しくしすぎじゃありませんか? あの子、泣いていましたよ」
「うむ……。確かに厳しいかもしれない。だが、フランベルジュの命を守るためだ。私にできることはあの子を守ることではなく、自分で自分の身を守る術を教えることだ。辛いとは思うが、なんとかついてきて欲しいと思っている」
「それなら……!」
 アルメリアはディアスの腕をそっと掴み、強い口調で言った。
「それをきちんとフランベルジュに伝えてください。あなたの本当の気持ちを……。そうでなければ、いつかあなたたち二人の間に亀裂が生じます。私はそれを望みません」
 ディアスは返事こそしなかったが、深く頷いた。アルメリアの気持ちが痛いほど伝わってくる。
「あなた、忘れないで。言わなければ分からないことはたくさんあるわ。私に愛していると言ってくれたように、フランベルジュにも言ってあげて。約束よ」

 その数日後、アルメリアは亡くなった。フランベルジュを産んだ時、もう何年も生きられないと言われたのに彼女は十一年も生きた。
「きっと、お前のためだったのだろうな」
 葬儀の時、ディアスはぽつりとフランベルジュに言う。しかし、フランベルジュはアルメリアの棺の前で茫然としていた。
 フランベルジュはこの世で一番大切なものをなくしてしまった。
 それに追い打ちをかけるように、じいさんもまた城を去ると言ってきた。
 別れ際、じいさんはフランベルジュに一本の剣を手渡した。じいさんが愛用していた、刃の黒い剣だった。
「それ、お前にやるよ。世界に二つとない名剣だ」
 菓子でもくれるような軽い物言いで、じいさんは剣をフランベルジュに手渡した。一旦はそれを受け取るも、フランベルジュはじいさんに剣を返そうとした。
「いらない。僕は……」
 剣に頼るなと言ったディアスの言葉が思い出される。
「父さんが、本当に強い剣士は名剣なんて使わなくても強いって……」
 若干俯きながらフランベルジュがそう言うと、じいさんは呆れたように額に手を当てた。
「かーっ! あいつ、まだそんなこと言ってんのかよ。おい、よく聞けフランベルジュ。錆びた剣とこの名剣、どっちの切れ味がいいと思う? 名剣だろ? 言わなくても分かんだろ? いくら強い奴でも、いい剣を持ってないと負けちまうこともあんだよ。な? だからありがたくもらっとけって」
 半ば無理やりフランベルジュに剣を贈る。
「じいさんは、いいの? この剣が惜しくないの?」
「オレはお前の親父が言う、名剣なんて使わなくても強い奴だからな」
 言いながら、じいさんはへらへら笑う。その態度に、フランベルジュはむっとした。
「じゃあ、僕が弱いからくれるんだ。これ」
「ま、はっきり言っちまえばそうだな」
 フランベルジュがそのことをよく思っていないのを察し、じいさんは急に真剣な顔になって言った。
「お前がいくら毎日親父にしごかれても、急には強くならねえ。時間がかかる。だけどな、強いやつが襲ってくるのはお前が強くなってからとは限らねえ。今、この時かもしれねえ。その時お前、そいつらに勝てるか? 今の力で勝てると思うか?」
 フランベルジュは口を尖らせながらも、「無理」と、答える。
「だろ? だからな、弱い間は剣に頼ったっていいんだ。大事なのは生き残ること。死なないことだ」
 フランベルジュはもらった剣を鞘から抜いてみる。あの時見たのと同じ黒い刃だ。
「お前にゃ実感ねえだろうが、黒竜族ってのは強さを求める種族だ。常に強い者が上に立つ。強くなけりゃ、お前はお前でいられない」
 じいさんの言わんとしていることがよく分からず、フランベルジュは少しだけ首を傾げる。だが、じいさんはそれ以上説明しなかった。
「母ちゃんが死んで悲しいだろうが、やけを起こすなよ。親父……ディアスにはもうお前しかいないんだからな」
 言い終わると、じいさんはいつかのようにひらひらと手を振った。
「じゃ、オレ行くわ。またいつか会おうな」
 ふらふらと立ち去るじいさんを、フランベルジュは無言で見送る。また、振り向きそうだった。
「あ、そうだ!」
 案の定、じいさんは何かを思い出したらしく、フランベルジュの方を振り返る。
「その剣の名前、知ってるか?」
 フランベルジュが首を横に振ると、じいさんはにやりと笑って、言った。
「フランベルジュ、だとよ」
「え……?」
 どういうことか聞く間もなく、じいさんはさっとフランベルジュの目の前から消えてしまった。フランベルジュがぼうっとしていたのだろうか。とにかく、じいさんの姿は見えなくなっていた。

 フランベルジュの手に残ったのは、じいさんがくれた黒い剣、「フランベルジュ」だった。
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