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ラジエルの書第五十三巻―炎の魔法使い―  中編

 ベリアルがフレアを抱きかかえ、玉座の間から飛び出した。どうやらフレアを連れていては、姿を消す魔法は使えないようだ。
「ちょっと! 自分で走るから降ろして!」
「無理ダ! お前、さっき魔力を使いすぎてまともに立てないぞ」
 父を完全に敵に回した以上、この国に二人の居場所はない。追手が迫る前にせめて城下町を出たかった。
 フレアの魔力のせいでベリアルの姿が誰にでも見えるようになってしまった。街中で悪魔が女を抱えて走る姿は目立ちすぎるので、二人はなるべく人目につきにくい道を選び、なんとか城下町から出ることができた。
「ねえ、こっからどうする?」
「……さて。何も考えていなかったな」
「えーっ! 作戦何もなし? やだ! 行き当たりばったりじゃない」
 ベリアルは悪魔とは思えないほど爽やかな笑顔を浮かべた。
「お前だって何も考えてなかっただろ。まあ、この先は……」
 そう言いかけ、ベリアルは口を噤んだ。馬が一頭、こちらに走って来る音が聞こえる。
 追手かと思い身構えるが、すぐにそれが必要ないと分かった。
「フレア様!」
 二人を追いかけて来たのは、フレアの愛馬である栗毛の馬に乗ったセデルナだった。
「よかった、追いつきました! フレア様が心配で待っていたら、お城から飛び出して行くのが見えて……」
 セデルナは二人の前でさっと馬から降り、手綱をベリアルに渡した。
「この子を連れて行ってくださいまし! フレア様がいないときっと寂しがります」
 手綱を手渡したセデルナは、ベリアルに向かって一礼した。
「どうかフレア様をお守りくださいまし。わたし、フレア様とあなた様がお城に戻って来るのをずっと待っています!」
 フレアは馬上からセデルナを見て、心配そうに言った。
「私のために……セデルナ、ありがとう。でも、ばれたら大変なことに……」
「フレア様」
 セデルナはにっと笑って見せた。
「わたしのことは心配しないでくださいまし。なんていったって、わたしはフレア様の一番弟子です。みんなが思っているよりずっと強いです! さあ、気にせず行ってください」
 セデルナに促され、馬を走らせる。ベリアルは悪魔なのに馬の扱いに長けていて、気まぐれなこの雌馬を巧みに操っていた。
「なんで悪魔なのに馬に乗れるの?」
「乗れたら悪いのか」
「悪くないけど、変な悪魔だなって思って」
「いいから、少し黙ってろ。疲れているんだろう?」
 フレアはベリアルの背中に顔を埋め、ふふっと笑った。
「笑うな」
「なんで? いいじゃん。だって面白いんだもん」
「……おかしなやつだ」
「悪魔に言われたくないし」
 着の身着のままで国を追われ、この後どうしたらいいのかも分からないのに、フレアは絶望するどころかわくわくしていた。
 今失ったものよりも、これから得るものの方がずっと大事なのではないか。
「……このままこの国を出ようと思う」
 馬を休ませるために少し休憩をした時、ベリアルがそう言った。
「うん、分かった」
 フレアが二つ返事で承諾したので、ベリアルは少し驚いた。
「……本当にいいのか」
「別に? だって、もうこの国に私たちの居場所なんてないよ。私の最終目標は国を変えることだけど、今はこの子を産んで育てるのが最優先、でしょ? こんな危なっかしい場所で子育てしたくないわ」
「そうか。分かった」
 ベリアルは再び馬を走らせ、ついに二人は黒竜族の国を出た。国を出ればそこは、ベルトキアという国の領内に入る。首都は遠く離れているが、コロッセウムという闘技場で栄える大きな街がわりと近くにあった。
 しかし、それは知識として知っているだけだ。フレアはこの時初めて黒竜族の国の外に出た。
 フレアの体のことを考えると、あまり遠くまで旅をするわけにはいかない。ベリアルは、黒竜族の国からあまり離れていないこの辺りで住む場所を探そうと考えていた。
 小さな村はいくつもあるが、自分たちのようなよそ者は歓迎されないだろう。人間に紛れるならそれなりに大きな街がいい。
 フレアは知らないだろうが、ベルトキアの中には黒竜族の商人たちが出入りしている街がある。そこへ向かおう。
「でも、それって大丈夫? もし見つかったら……」
「……大丈夫だ」
 そう言って、ベリアルは自分の顔を一瞬手のひらで覆う。そして、ゆっくりと手を離した。
「これで、私はただの人間だ」
 頭にあった角が消え、フレアが心配していた顔色も良くなっていた。見た者を震え上がらせる不気味さが消えている。
「えーっ! すごい! ベリアルってなんでもできるんだね」
「私の力だけでは無理だ。お前がいないとこの姿を維持できないし、誰も私の姿を見ることができない」
「それって、私がすごいってこと?」
 フレアが得意げに笑う。
「そういうことにしておこう」
「素直じゃないなあ」
「お前に言われたくない」
 そう言って、互いに顔を見合わせ笑った。
 ベリアルはもうどこからどう見ても普通の人間にしか見えなかった。
「悪魔といるから目立つのだ。こうしていれば、その辺の人間と何も変わらん」
 同族との繋がりがある街なら、何かしら国の情報も手に入るかもしれない。だが、気を付けなければ正体がばれてしまうリスクも高かった。
その街の名はプラトというらしい。このまま馬で行けば、三日もかからず辿り着けるとベリアルは言った。
「なぜ」
 街へ向かう道中、ベリアルはずっと気になっていたことをフレアに尋ねた。
「なぜお前は、これほどまでに父や兄に逆らうのだ。お前は、あの戦いを直接見たわけではなかろう。竜族が失った力も、お前にとってはもともと持っていなかったも同然だろう」
「そうだね」
 フレアは馬に揺られながら、ベリアルの背中に向かって語り始めた。
「あの戦いで力を失ってから、竜族は人間と変わらない生き物になってしまった。寿命も、人と変わらない。だからもう、あの戦いのことを覚えている者はいなくなってしまった。現状を受け入れて生きていくしかないって、それがお父様の口癖」
 戦う力はない、とも言っていた。
「そういうものなのかなって思ってた。最初はね。だけど、メアルナ様からイデアベーラ様の話を聞いたの。とても、勇敢な人だったって。イデアベーラ様は、今は人間が神と崇めている者たちからこの世界を守るために戦った」
 しかし、メアルナの話は肝心な部分が抜けていた。なぜ、竜族は神々を排除しようとしたのだろうか。
 残念なことに、城にはその記録が何一つ残っていない。メアルナも、あの戦いを実際に見ていないので知る由もないだろう。それでも。
「私たちの一族が命を懸けた戦いが、間違っていたなんて思いたくない。真実を知るためにも、竜族はもう一度立ち上がるべきだ。自分たちが何のために生きているのかを知らなければいけないんだって思う。今のお父様は逃げているようにしか見えない。王があれでは、民は何も知らないまま国と共に滅びてしまう。だけど、お父様は私の考えが間違っていると言う。ねえ、私は、間違っていると思う?」
 少しだけ間を置いて、ベリアルが答えた。
「何が正しいのか、私には分からない」
 話している間に、開けた場所に出た。まだ距離はあるが、遠くに街が見える。
「だが、お前の意見に賛同する者は必ずいるだろう。今はそれがセデルナと私だけだったとしても……」
 二人はついに、プラトの街に辿り着いた。馬を降り、街の中へと入る。
 黒竜族の国の城下町よりもずっと活気がある。人や馬車が街中をひっきりなしに行き来していた。
「わあっ! すごい! ねえ、見て見て! あそこで何か売ってるよ。あれ何? 食べ物? あっちにもあるー!」
「おい、こら! 私から離れるな。迷子になっても知らんぞ」
 ベリアルは馬とフレアを引っ張りながら、街の奥へと進んで行く。本当なら宿でフレアを休ませたいが、金がない。
 どうしたものかと考えていると、突然フレアがベリアルの手を振り払って走り出した。
「お、おい!」
 制止する声も聞かず、フレアは広場の隅に座り込んでいた若い男に話しかけていた。その男は使い古した鎧を身に着け、腰には剣を携えていた。
「ねえ、そんなに傷だらけで、何かあったの?」
 フレアに声を掛けられ、男は顔を上げる。深手は負っていないものの、彼の体は傷だらけだった。
「いやあ、まいったよ……。街の近くの森にやたらでかい熊が出るって言われて退治しに行ったら、そいつが思ったより凶暴でね。姉さんは魔法使いかい?」
 男はフレアが持っていた杖に目をやる。
「うん。私、魔法には自信があるの。代わりにやっつけてあげようか?」
 フレアがそう言うと、男は苦笑する。
「姉さんの魔法の腕前がどんなもんかは知らないけど、やめときな。あいつ、体はでかいが動きは速いぞ。あの巨体に襲われたら、姉さん、ひとたまりもないだろうな」
 フレアを心配しての言葉だったが、なんだか馬鹿にされたように感じる。
「もし私がその熊を退治できたら、どうする?」
 そう尋ねると、男は大笑いした。
「本気で言ってんのかい?」
「当然」
「あっはっは! もし本当に退治できたら、姉さんの望みを一つ聞いてやるよ」
 その言葉を聞いて、フレアもにやりと笑う。
「約束、絶対守ってね」
「ははは。せいぜい頑張りな」
 フレアは踵を返し、街の入り口へ向かう。ベリアルのことはすっかり忘れていた。
「フレア!」
 早足で歩くフレアに追いついたベリアルに腕を掴まれた。
「おい、お前正気か。いくらお前でも、一人で猛獣と戦うには無理があるだろう」
「あれ? 聞いてた?」
「お前の声はでかいからな。よく聞こえていたぞ」
 ベリアルは再び馬に跨り、フレアを後ろに乗せた。
「どうせ止めても無駄だろう。一緒に行こう」
「さすがベリアル! 分かってるねえ」
「お前の……夫だからナ」
 男が言っていた熊を探し出すのに、そう時間はかからなかった。二人が森に入ってすぐ、熊の方からこちらに向かって来るではないか。
「あ! いた! こっちに来るよ。懐っこいね」
熊を指差して、愉快そうにフレアが言う。
「待て待て、喜ぶんじゃない。あっちから寄って来るなんておかしいだろう」
「なんで?」
近づいてくる熊との距離を保つため、ベリアルは馬を後退させる。熊は全く怯える様子がない。
「熊は本来、人間を避ける。それが向こうから寄って来るとなると、答えは……」
 言いながら、馬を後退させ続ける。
「さてはお前、味をしめたな?」
 一瞬、熊が舌なめずりをしたように見えた。
熊にとってはご馳走にしか見えない馬と人間が二人。食べない手はない。
 フレアが熊に杖を向けたが、なぜかベリアルはそれを制した。
「待て。お前、あまり魔法を使うな。腹の子がどうなっても知らんぞ」
「ちょっとくらい大丈夫! この子、そんなに弱くない」
「いいから。黙って見ていろ」
 ベリアルの手の中から、一振りの剣が現れた。刃は美しく輝いているが、かなり年季が入っている。
 馬を巧みに操りながら、ベリアルは馬上から熊目がけて剣を振り下ろした。
 刃が熊の顔面をかする。
「フレア、手綱を頼む」
 ベリアルはフレアに手綱を握らせ、自分は馬から飛び降りた。
「さて……。この獣に私の刃は通用するだろうか」
 ベリアルが剣を構える。フレアが知らない剣の構えだ。兄たちが剣の稽古をするのを何度か見たことはあるが、それとは全く違っていた。
「へえ、やっぱり剣にも型ってもんがあるんだ。私にはぜんっぜんよく分からないけど」
 ベリアルは特別素早くはなかったが、繰り出される一打には相当な威力があった。剣をよく知らないフレアでも分かる。だが、獣の皮膚は分厚く、なかなか致命傷を与えられない。
「ベリアルー。まだー?」
 少し離れた場所で見ていたフレアが呑気な声を出す。
「お、お前……。ふざけるのはよせ。人間を斬るのとは違うんだぞ」
 毛と固い皮膚という鎧に覆われた獣を、剣で仕留めるのは容易ではない。
 体は、だめだ。
 ベリアルは突進してきた熊の鼻目がけて剣を突き立てた。
「やった! 隙あり!」
 動きが鈍ったその一瞬で、フレアの魔法陣が熊の足元を捕えた。
「今日の夕ご飯にする!」
 普段に比べたら威力は弱いとはいえ、フレアの炎はめらめらと熊を焼いてしまった。辺りはなんとも言えない臭いに包まれる。
「フレア! ばかものっ。魔法は使うなと言っただろう」
「だって、ベリアルに任せてたら日が暮れそうだったんだもん」
「まったく、しょうもない! こんなに丸焦げにしおって。こんなもの食えないからな!」
「なによ! 私が倒してあげたんだから感謝くらいしてよね!」
 ああだこうだと言い合いながら、ベリアルは黒こげになった熊の首を切り落とす。証拠ならこれで十分だろう。
 本当に熊を退治してくるとは思っていなかった男は報酬を出し渋るが、機嫌の悪いフレアがまくし立てた。
「助けてあげたんだから、あんたも誠意を見せなさいよ! それとも、あんたもあの熊みたいに丸焦げになりたい?」
 焦げた熊の首を見て、男の顔が青くなる。
「そ、それは勘弁してくれ! 姉ちゃんは何がお望みなんだい?」
「住む家と、仕事を紹介して。今すぐ」
「いや、聞いてやれるのは一つ……」
「家と仕事!」
 腰に手を当て、杖の石突を地面に叩きつける。その形相はとても恐ろしかった。
 ほとんど脅しだが、こうしてフレアとベリアルは無事にこの街で生活をすることができるようになった。
 フレアとベリアルはその戦闘能力の高さが評価され、街の自警団の一員となった。
 フレアに脅された若い男グラートは、二人を家まで案内してくれた。
「なんだ、姉ちゃん妊婦だったのかよ。あんま無理するなよな。旦那が心配するぜ」
 グラートが紹介してくれた家は、大通りからかなり外れた場所にあった。家は狭いが、馬小屋と広い庭つきだ。
 人通りも少ない場所なので、街中よりは静かに生活できそうではあった。
「この辺、不便なんであんまり住む奴いないんだ。でも、いいとこだろ? 馬も置いとけるしな」
「すまない、助かった」
 ベリアルが礼を言うと、グラートは照れくさそうに笑った。
「いいって。こっちも助けてもらったし。あんたたちみたいな強い奴が自警団に入ってくれれば、俺もこんな傷だらけにならずに済みそうだしな」
 グラートは正真正銘とてもいい人だった。さすがのフレアも、勢いで脅してしまったことを申し訳なく思った。
「とりあえず、仕事は旦那の方にやってもらいなよ。あんたは体を大事にしな」
「そのつもりだ」
 ベリアルが言う。
「じゃ、明日から頼むぜ旦那……じゃなくって、えっと……。旦那、名前は?」
「……ヨシュア」
 小さな声で、ベリアルはそう答えた。
「ヨシュアか。じゃあ、明日から俺と一緒に仕事な! よろしく」
 陽気に手を振りながら去っていくグラートを見送り、二人は家の中へと入る。
 部屋にはふかふかのベッドがあった。城の物よりは小さかったが、野宿続きだったフレアにとってそこは天国だ。
 ベッドに寝転び、天井を見上げる。
 ベリアルはグラートにもらったパンをテーブルに並べていた。
「ねえ」
「ヨシュアの話か」
「うん」
 ベリアルが手を止める。
「……今は、何も聞くな」
「すっごく気になる」
「だろうな。だが、今は余計なことを考えずに自分の体を大事にしろ。お前は無理をしすぎだ」
 フレアは仰向けのまま、両の手のひらで自分の腹に触れた。ここに自分の子供がいるなんて、まだ信じられない。
 ベリアルが傍に来て、フレアの手を握った。
「お前は強い女だ。だが、これからは私を頼れ。私たちは……家族、だろう?」
 開いたままの目から、涙が零れた。フレアの涙が枯れるまで、ベリアルはその手を離さなかった。何も言わないが、それが彼の優しさだと分かっていた。
「ねえ」
「今度はなんだ」
 涙がすっかり乾くと、フレアはいつもの笑顔を取り戻す。ベリアルの手を握ったまま、その手を胸に当ててけらけらと笑っている。
「なんだ」
「ベリアル、角」
「は?」
「つ、の!」
 フレアが頭を指差したので触ってみると、そこには隠したはずの角があった。
 無言で角を触る姿を見て、フレアは大笑いしながらベッドの上を転げ回った。
「やだ、もう! 笑わせないで」
 げらげら笑うフレアとは反対に、ベリアルは眉をひそめる。どうやら夜になるともとの姿に戻ってしまうようだ。これでは、夜に人前に出ることは不可能だ。
「いいじゃん別に。夜なんて、誰も外を歩かないし」
「だが、もし仕事を頼まれたら……」
 また、フレアが笑った。
「もう、ベリアルったら意外と心配性なんだね。そんなの、断って帰って来てよ。私もこんなだし、ね?」
 フレアの目を見つめたまま、ベリアルは何も言えなかった。
「大丈夫」
「フレア……」
「なんとかなるよ」
 決して馬鹿にしているわけではない。フレアの笑顔は、これからの生活への期待に満ち溢れていた。
 何が起こるのか分からないこの状況を、楽しもうとしている。
「もし何かあったら、その時はその時」
 フレアの楽観的な言葉に救われ、ベリアルはようやく口元を綻ばせた。


 フレアとベリアルがプラトにやって来てから数ヶ月が経っていた。
 ベリアルはヨシュアとして自警団で働き、その活躍は街中で評判になっていた。贅沢はできないが、ベリアルのおかげで安心して生活できる。
 ある日の昼頃、フレアは散歩がてら買い物へ出掛けた。
「あら、フレア。またお腹大きくなった? もうすぐ産まれるんじゃない?」
 近所に住んでいる女性、ベルティーナに声を掛けられ、足を止める。彼女はとても面倒見がよく、フレアは生活の面で助けてもらうことが多かった。
「そう思う? 私も、もうそろそろかなって思って」
「散歩もいいけど、気を付けてね。最近、街の近くに狼が出るって噂よ。自警団の誰かが仕留めそこなったみたい。熊の次は狼……。いやね、物騒で」
「狼……」
 狼なんてこの辺りにいるはずがない。きっと大きな野良犬と見間違えたのではないか。
「まあ、街までは入ってこないと思うけどね。それよりフレア。子供が産まれそうな時はすぐに呼んでね。私でよければ力になるわ」
「うん、ありがとう」
 ベルティーナと別れ、再び歩き出す。何か買わなければいけないものがあったはずなのに、そのことはすっかり頭から抜け落ちていた。
 なんとなくその狼の話が忘れられないまま、フレアはその晩ベッドに横になっていた。
 隣にはベリアルがいるが、悪魔なので目を閉じて寝ているところを一度も見たことがない。
 屋根に激しく雨粒が当たる音がする。風も少し強かった。
 目を閉じていると、不意にコツコツと、扉を叩く音が聞こえた。
 雨が当たった音だろうか。
 コツ、コツ。
 また音がした。
 気になって、フレアはベッドから起き上がる。
「待て。私が行く」
 ベリアルが先頭に立って、そっと扉を開けた。
 背後から様子を見ていたフレアは、扉の隙間から見えたその姿に驚きの声を上げた。
「あ、あんた……! どうして、こんなところに?」
「狼……?」
 扉を開けたまま、ベリアルも驚いているようだった。
 ずぶ濡れになったその狼は、舌をべろんと出して笑っていた。体は汚れていて、ひどい怪我もしていた。
「なに……やってんの? 怪我してるじゃない」
 フレアはずぶ濡れの狼をわしゃわしゃと撫でた。狼は嬉しそうにくーんと鳴いた。
「お前を探してここまで来たのではないのか」
「まさか……そんなこと……」
 このあほ面な狼は、間違いなくあいつだ。
「ばかだね、あんた。人間なんて簡単に食い殺せるはずなのに、自分がこんな怪我をして……。私の居場所を聞こうとしたの? 言葉が通じないから無理だよ。そんなこと、分かってるでしょ?」
 狼はフレアの膝に頭を載せ、満足そうにふーっと鼻から息を吐いた。安心しているようにも見える。
「竜と狼は、切っても切れない縁だな」
 ベリアルが笑う。
「でもなんで、こいつは群れから離れたんだろう……」
「さあな。ま、お前もそいつと似たようなものだろう。気が合うんじゃないのか」
「うーん……。せめて、言葉が話せたらなあ」
 なぜかは分からないがここまで自分を慕ってくれる狼を追い出すこともできず、フレアはこの狼を犬と偽って家に置いてあげることにした。
 もともと大人しい性格だったので、近所の子供たちにはすぐに人気者になった。


 狼が家に来てから数日が経った頃。その夜はひどい嵐だった。強い風と雨が窓を激しく打ちつけ、今にも家ごと飛ばされてしまいそうだ。
 しかし、今家の心配をする者はこの場にはいなかった。
「だ、大丈夫か……?」
「だい……じょうぶ……なわけないでしょ!」
 フレアの声が部屋中に響き渡る。離れた場所で、狼がじっと伏せたまま二人を見ていた。
 朝からずっと腹が痛いと言っていたフレアが、夜中になってとうとう耐えられなくなったらしい。
「これ、絶対産まれる……」
 ベッドの上でシーツを握りしめ、痛みに耐える。すでに全身汗だくだった。
 激しい雷が鳴る。
 痛みに耐えるのに必死で、フレアの呼吸が浅くなる。
「フレア、しっかりしろ。ちゃんと息を吸っておけ」
「ちょっと……黙っててくれる?」
 どうしても和らぐことのない痛みに加え、ベリアルの言動がいちいち癇に障る。殴りたい。
「やはり、ベルティーナを呼んで……」
 痛みで頭がいっぱいだったフレアだったが、ベリアルの言葉を聞き、咄嗟にその手首を掴む。
「だ、だめ!」
 肩で息をしながら、フレアはベリアルを睨みつける。
「だ、だが……」
「だめ! 絶対に、だめ!」
 窓の外が光る。
「角が……。赤ちゃんに、角があったら、ど、どうするのっ!」
「つ……の……」
「だい、たい……その姿で、外に、出る……つもり?」
 ベリアルの動きが止まる。
 一番苦しいはずのフレアが、一番冷静だった。
「あ、あ、悪魔なんだから、この……痛いのなんとかしてよ!」
 少しでも楽になればと、ベリアルはフレアの背や腰をさすってみたが、全く効果はなかった。フレアの苛立ちばかりが募っていった。
「もうっ! ベリアルのばかー! 役立たず!」
痛みに耐え続け、夜が明ける頃、フレアは無事に男の子を産んだ。フレアが産んだ子は、心配が外れて人の形をしていた。
 むしろ、とても可愛らしい男の子だったので見せびらかしたいほどだ。
「よく……頑張った。フレア……」
「やだ、ベリアル泣いてる?」
「な、泣いてなイ!」
 フレアの腕の中で眠る赤ん坊を、狼が目を細めて見ていた。穴が開いてしまいそうなほど凝視していたので、フレアはそっと狼に赤ん坊を見せた。
「この子の名前、ディアスっていうの。どう思う? いい名前じゃない?」
 狼はべろっとディアスの頬を舐めた。
 眠っていたディアスは大泣きし、狼は驚いて目を丸くした。
「あははっ。びっくりしちゃったね。大丈夫だよ、ディアス。みんなあんたのことが大好きなんだよ」
 狼の真似をして、フレアもディアスの頬にキスをした。頬は、狼のよだれで濡れている。
 嵐はすっかり過ぎ去っていた。


 ディアスが産まれてから、ベリアルは自警団で剣を振るうのをやめた。使われなくなった剣は、馬小屋の隣の倉庫に放りっぱなしになっている。
 今のベリアルは、自警団の人々が使う剣を作る鍛冶屋をしていた。
 初めてそれを知った時、フレアはディアスが眠っていることを忘れ、つい大きな声でこう言った。
「すごい、ベリアル! 剣を作れるの? 鍛冶屋なの? 前から思ってたけど、本当に器用だよね。私が修理しようとして諦めた馬の飼い桶もあっという間に直しちゃうし、狼の小屋も作っちゃうし」
「いや、飼い桶の件はただ単にお前が雑なだけ……」
「え、なに?」
 フレアの笑顔が妙に怖かったので、ベリアルは口を閉じた。
 ディアスを抱きながら、フレアはぽつりと呟いた。
「ベリアル……じゃない。ヨシュア、なの?」
 ヨシュアの話はあれ以来一度もしていなかった。
「ヨシュアは……」
 ベリアルが口を開く。
「ヨシュアは、鍛冶屋の跡取り息子だった。だが、親の反対を押し切って、とある国の騎士団に入った……」
 フレアは黙ってベリアルの言葉を聞いていた。
「私とは、違う。ヨシュアは、私ではない。悪魔じゃ、ない」
 ディアスを抱いたまま、フレアはベリアルの胸に顔を埋めた。
「もう、いいよ、ベリアル。私、全部分かったから」
「フレア、私は……」
「うん。分かってる。ベリアルは、ベリアル」
 ベリアルは唇を噛みしめながら、妻と我が子を抱きしめた。


「ねえ、ベリアル! ディアスを知らない? ちょっと目を離したら姿が見えなくて」
「家の中にはいないのか。まさか、遠くへは行くまい」
 ほんの一瞬フレアが目を離した隙に、先ほどまで家の中にいたディアスの姿がない。
 歩き回れるようになった子供ほどやっかいなものはない。
 フレアが真っ青になりながら家から飛び出すと、ディアスは狼小屋の傍にいた。狼に寄りかかって眠っている。
 その姿を見て、フレアは大きく胸を撫で下ろした。
「私が中に運ぼう」
 眠っていたので、ベリアルが抱きかかえて家の中へ連れ戻す。
 狼は残念そうにくーと鳴いた。
「ごめんごめん。守ってくれてたんだよね」
 フレアの言葉に、狼は目を細めて笑った。
「ふうん……」
 何かを考えながら、フレアはしばらくの間狼を見つめる。そして、おもむろに魔法の杖を取り出して言った。
「あんた、本当にただの迷子狼なの?」
 狼が首を傾げる。
「違うよね、追い出されたんだよね? どうして? 群れを追い出されるなんて、よっぽど変なやつか……」
 フレアは杖を持つ手に魔力を集中させた。
「それか、とんでもなく強いやつ。あんたは、どっち?」
 杖を振り上げ、魔法石で狼の頭を叩いた。その瞬間、強い光が狼の体を包み込んだ。光が消えると、そこにはもう狼の姿はなかった。
「あ……」
 狼だったものが言葉を発した。
「これ……。手……だ。人間の、手……。オ、オレ、人間に……なったの?」
 フレアの目の前にいるのは、狼ではない。銀色の髪の青年だった。自分の両手を見つめている。その手は少し震えていた。
「や、やったあ……。これで、あの子を抱きしめてあげられる。あの子に、好きって伝えられる」
「あちゃー!」
 フレアは杖を握りしめたまま、なんとも気まずそうな表情を浮かべた。
「ごめん、ちょっと力加減間違えちゃった。喋れるようにしてあげようと思ったら、人間になっちゃったよ。ほんとごめん! すぐ元に戻すね」
 再びフレアが杖を振り上げると、狼はそれを素早い身のこなしで避けた。
「や、やめて! お願い。オレ、このままの姿でいたい」
「え? いいの? あっそ」
 フレアはあっさり杖を下ろした。
「あんた、名前は?」
 狼だった青年は、にっと笑って言った。
「レヴィ」
 狼だった頃のあほ面は、もはや面影がない。
 輝く銀色の髪と、鋭い目つき。狼の頃より狼らしい。
「あら、やだ。あんたいい男だね。あれ? もしかして私って、面食い……?」
 フレアの呟きをレヴィは聞き逃さない。自分の顔を両手で触りながら、目を輝かせる。
「オレ、いい男? 人間に好かれそう?」
「えっ? ま、まあその顔なら女の子が放っておかなそうだけど……?」
 フレアが肯定すると、レヴィは嬉しそうに笑う。その笑顔は美麗だったが、同時にどこか危うい雰囲気も併せ持っている。
 彼はふざけているように見えるが、隙が全くない。
「ねえ、あんたはどうして……」
 一番聞きたかったことを聞こうとフレアが口を開いたとき、背後からふわりと布切れが飛んできた。布切れは、地面に座っていたレヴィの前にふわりと落ちた。
「とりあえず服を着たらどうだ。誰かに見られたらどうする」
 家の中から一部始終を見ていたベリアルが、裸のレヴィのために自分の服を投げてよこしたのだ。
 たどたどしい手つきで服を着るレヴィ。
「オレ、ちゃんと着れてる? これで合ってる?」
 そう言いながら立ち上がる。シャツはぶかぶかで、ズボンは今にもずり落ちそうだ。
 思わずフレアが笑い出し、ベリアルはため息をついた。
「とりあえず、中に入れ。話はそれから聞く」
 ズボンを引きずりながら、レヴィは二本足で家の中へと入っていった。
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