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ラジエルの書第五十三巻―炎の魔法使い―  前編

 
 そのつるぎは悪魔か、竜か。
 ラジエルの書第五十三巻を記す。

――書は真実を語る。


 黒竜族の国には英雄がいた。
 今ではその人の話をする者はほとんどいない。英雄がこの世を去ってからまだ百年ほどしか経っていないのに、人々の記憶からその人は消えようとしていた。いや、消そうとしていた。
 彼女はそれが気に入らなかった。
 城の地下室にひっそりと飾ってある、その人の肖像画を見に来るのは彼女くらいしかいない。
 彼女が英雄と崇める女性、イデアベーラは、百年ほど前に起こった神々との戦で唯一ゼウスと剣を交えた黒竜族の戦士。
 憧れていた。
 魔法だけではなく、剣術も使いこなした優秀な人だった。
 肖像画に描かれているのは戦っている姿ではない。ドレスを着たごく普通の女性だ。
 肖像画を見上げていた彼女は、長い黒髪を結い上げ、自分の背丈とほぼ変わらない長さの魔法の杖を持っていた。
彼女の名前はフレア・ブラックレイ。現在の黒竜族の王、キルノス・ブラックレイの末っ子だ。キルノスにはフレアの他に、二人の息子がいた。
「フレア様、またこんなところに! お父上に叱られますよ!」
 いつの間にか地下室にやって来た侍女がフレアを叱咤する。
 いつものことだ。
 フレアは肖像画をもう一度見て、ふっと笑みをこぼした。
 いつか、自分もイデアベーラ様のように強い女性になりたい。
「さあ、早く玉座の間に来てください。お父上がずっとフレア様を待っているんですよ」
 侍女がフレアの手を引く。
 父上と聞いて、フレアはとても嫌な顔をした。できることならこのまま逃げ出したかったが、そんなことをすれば侍女が罰を与えられてしまうかもしれない。
 仕方なく、地下室を後にする。
 玉座の間に行くなんて気乗りしないので、重い足取りで侍女について行く。フレアは、前を歩く侍女のスカートの裾がひらひら揺れるのをじっと見つめていた。
 あんなものを着ていて動きにくくないのだろうか。
 フレアはいつでも馬に乗って城から逃走できるよう、ドレスは絶対に着ないと心に決めていた。
「さ、フレア様。中へどうぞ」
 侍女が扉を開け、フレアはなんの遠慮もなくずかずかと中へ入っていく。その姿は決しておしとやかなお姫様ではなかった。
「お呼びですか?」
 魔法の杖を携えたまま、ぶっきらぼうにフレアは言った。
 玉座に座る父の傍らには、二人の兄もいた。
 向かって左側に立っている背の高い方が兄のイシュルス・ブラックレイ。
 右側の童顔が弟のベスナル・ブラックレイ。二人とも、フレアとはだいぶ歳が離れている。
 フレアは兄のことが大嫌いだったが、兄たちは何かとフレアの世話を焼きたがる。鬱陶しいことこのうえなかった。
 玉座に腰掛けたまま、父キルノスが口を開いた。
「フレア、先日の縁談の件だが……」
 その言葉を聞いた瞬間、フレアは天井を見上げてわざとらしくため息をついた。分かってはいたがやはりこの話か。
「お前にふさわしい男を三人紹介したが、気に入った者はいたか」
 フレアはイライラしながら、杖を持っていない方の手を腰に当てた。
「お前の兄たちとも話し合って決めたんだ。どの男と結婚してもお前は幸せになれる。安心して……」
「お父様」
 キルノスの言葉を遮り、フレアは持っていた杖の根元で床を叩いた。
「私はどの男とも結婚なんてしません」
「フレア!」
 キルノスより先に口を開いたのは、上の兄イシュルスだった。
「父上と兄さんがお前のためを思って考えたんだぞ。そんな言い方は……」
「私のため? イシュ兄、それ本気で言ってんの? 会ったこともない男といきなり結婚するのが幸せ?」
「そ、そんなことは……」
 イシュルスが口ごもる。
「で、でもフレア。お前ももうすぐ十八歳になるし……」
「ベス兄は黙ってて!」
「ひっ!」
 魔法の杖の先端を向けられ、ベスナルは咄嗟に玉座の後ろに身を隠す。
 フレアがあまりにも怒っているので、キルノスはやれやれと額に手を当てる。
「フレア……。お前も王族の娘なのだから、自分の身の振り方をよく考えろ。いつまでも今のままというわけにはいかないのだぞ」
「要するに、私はお払い箱ってわけね?」
 王である父と、その後継者である兄を目の前にしてもフレアは全く臆することはない。言いたいことは我慢しない主義だ。
「そんなに私が邪魔? なぜ? 私がイデアベーラ様のことを慕っているから?」
「フ、フレア!」
 口を噤んでいたイシュルスが叫ぶ。その顔は恐怖で強張っていた。
「や、やめなさいフレア。それ以上は……」
「それ以上は、なに? 私は言いたいことは全部言う。お父様も、イシュ兄もベス兄も……この城のみんなは腰抜けだ! 今、戦わなければいけないものから目を逸らして生きている。お父様、さっきの言葉、そっくりそのまま返すよ。私たち黒竜族は、いつまでも今のままでいてはいけない。なぜそれが分からない!」
 フレアの言葉を最後まで聞くと、キルノスはゆっくりと玉座から立ち上がる。そのままフレアの目の前まで来ると、腕組みをして彼女を見下ろし、睨んだ。フレアよりもずっと背が高いのでかなりの威圧感があった。
「何度も……何度も言ったはずだ。我々はもう、戦ってはいけない。神々とのあの戦いは間違っていた。多くの仲間を失い、この世界に住む他の生き物たちを危険に晒した。竜族は力を持ちすぎたのだ。これは、その罰なんだよ。我々はこのままここでひっそりと暮らし、そして消えていくのが運命だ」
「はあ? それ、本気で言ってるの?」
 フレアは父親のことなぞ全く恐れていなかった。
「お父様、ほんっとうに頭がおかしいんじゃない? 今のままでいいなんて、そんなわけない!」
 負けじと父を睨み返す。
「私たちは……竜族は、神々に奪われた力を取り戻すべきだ。そして、あいつらを一人残らず全員始末する。人間に必要なのは、まがい物の神様なんかじゃない。神様なんていなくても、私たちは生きていける」
 キルノスは怒っていたが、同時に悲しんでもいた。同じ家族なのに、なぜ彼女は父の考えを理解してくれないのか。
 今まで何度も言い聞かせてきたはずなのに。
「私に王族としての自覚を求めるなら、お父様こそ王として何をするべきか考えるべき。私たちはイデアベーラ様と同じ、誇り高き黒竜族なの!」
 神々との戦いに負けて失ったのは、仲間や住む場所だけではない。その身を竜に変えて空高く飛ぶことができた。あの偉大な力も奪われてしまった。
 これ以上の屈辱があるだろうか。なぜ父が黙って現状を受け入れているのか全く理解できない。
 もうこれ以上この場にいたくない。
 フレアは踵を返し、さっさと玉座の間を後にする。言いたいことを吐き出したのはいいが、ひどく気分が悪い。
 誰とも顔を合わせたくないので、フレアは一人街へ出た。
「あー、イライラする!」
 人通りのない路地で、フレアは置きっぱなしにされていた木の樽を思い切り蹴飛ばした。古くなっていた樽に穴が開く。とても一国のお姫様の行動とは思えない。
 その姿を、すぐそばで見ている者がいた。それは、フレアが蹴飛ばした樽の横に立っていた。
 破壊されていく樽を、目を丸くしながら眺めていた。そして、今度はフレアの顔をじっと見つめる。
 一瞬、フレアと目が合った。
「ん?」
 視線を感じ、フレアは樽を蹴飛ばすのをやめた。
 そばに立っていたそれと目が合う。
「んー?」
 しっかり目が合っているのに、それは全く視線を逸らそうとしない。
 二人はしばらくそのまま見つめ合っていた。
「え……。なに、これ」
 先に口を開いたのはフレアだった。自分を見つめていたその人物にずかずかと近づいていく。
「あの……今日って、なにかお祭りとかあったっけ?」
「は……?」
「いや、だってあんた頭に角みたいなのある……。ってか、顔色悪っ! 大丈夫? ちゃんとご飯、食べてる?」
 遠慮なしにどんどん距離を縮めてくるフレアを、相手は咄嗟に右手で制した。
「ちょ、ちょっと待て。お前、私が見えるのか……?」
「へ? 何言ってんの? しっかり見えてるけど? そ、そんなことよりあんた爪も長い……。これ、短くした方がいいよ。誰かに怪我させたら大変!」
 そう言うと、フレアはポケットから何かを取り出した。いつも爪の手入れをするために使っているヤスリだ。
「いや、いいから……。というかお前なんでそんな物持ち歩いてるんだ。意味が分からん」
「あんたの方が意味わからないでしょ。お祭りでもないのに頭に角つけてこんなところにいて。おまけに顔色悪いし、爪は長いし。もしかして、悪魔?」
 目の前にいる男のような生き物は、昔絵本か何かで見た悪魔の絵にそっくりだ。あんなの子供だましだと思っていたのに、まさか本当にいるとは。いや、ただの仮装好きの変な男かもしれない。しかしそれにしては、彼を取り巻く魔力が妙に禍々しい。
「……私は悪魔だ」
 いつもなら、冗談だと思って笑い飛ばすだろう。悪魔が素直に自分の正体を白状するだろうか。
 なんだかおかしなことだらけだが、今のフレアはこの退屈な毎日に刺激が欲しかったのかもしれない。
「へえ、やっぱりそうなの。ちなみに、私は黒竜族のお姫様」
 フレアは悪魔の爪にヤスリをかけながら、世間話をする感覚で悪魔に問うた。
「あんたなんでこんなところにいるの?」
「……答える必要はない」
 むすっとそう言った悪魔。フレアは思わず笑ってしまう。
「なぜお前は私が見える……」
「あら、自分は質問には答えないくせに私に質問するの? それってずるくない?」
「……あ、悪魔だからナ」
「ふうん。そっか、悪魔だもんね。じゃ、私も教えなーい」
 フレアが意地悪く笑う。
 見事な早業で悪魔の爪を短くすると、今度は満足気な笑みを浮かべる。
「はいっ、終わり! これで安心安全」
「う……」
 何と答えていいのか分からず、悪魔が唸る。
 その顔を、フレアが覗き込んだ。
 悪魔の髪はフレアと同じで黒かった。顔がよく見えないくらい無造作に伸びた髪。
「ねえ」
 悪魔が視線を上げる。
「顔を見せて」
 フレアの細い指が、悪魔の髪をそっと掻き上げる。顔色は悪いが、顔は普通の人間と変わりなかった。
「髪の毛、こうした方がいい男に見えるよ!」
「いや、そ、そういうのはいい……」
「遠慮しないの! せっかくいい顔なんだから見せびらかしてきなさい」
「だ、誰も見えないのに……?」
「私が見えてる」
 言いながら、フレアは自分の髪から髪留めの一つを引き抜いた。フレアの長い髪が風に揺れる。
「はいっ! いい男の完成!」
 フレアは悪魔の長かった髪を一つに束ね、顔がよく見える髪型にした。なかなかよい出来だと思った。
「かっこいい! これでモテモテですな、悪魔さん!」
「お前……。何をやってるんだ、まったく……」
「いいじゃない、とても似合ってるよ」
 悪魔は恥ずかしそうに頬を掻いた。どんな髪型になったのか自分では見えないが、邪魔な髪がなくなったので視界は広くなった。
「ねえ、そろそろ名前くらい教えてくれてもいいんじゃない?」
 フレアが言うと、悪魔は意外と素直に答えた。
「ベリアル」
「へえ、ベリアルか……。私は……」
「フレア・ブラックレイ」
「え?」
「お前の名前は、フレア・ブラックレイ。知っている。ずっと見ていた」
 フレアは驚きを隠せなかった。さすが悪魔というべきか。フレアが何も言わないので、ベリアルは言葉を続ける。
「私は強い憎しみを求めてこの地へ来た。お前がそうかと思って見ていたが、違ったらしい」
「強い憎しみ……。まさか、私のお父様たちへの思いが……」
 ベリアルは静かに頷く。
「最初はそう思った。だが、お前の心に宿るのは醜い憎しみなどではなかった。だから、取り憑くのをやめてここにいた。これが、お前が知りたかったことだ」
 ベリアルはふん、と、鼻で笑った。
「喋りすぎたナ……。もう私は消えるぞ」
「ま、待って!」
 フレアはベリアルを引き留めた。しかし、ベリアルはあっという間にその姿を消してしまった。
 まるで何事もなかったかのように、そこにはフレアだけが残された。
「嘘……みたい」
 本当のことを言えば、フレアは半信半疑だった。悪魔の仮装をした変な男にしか思えなかった。触れた手も髪も、人間とそう変わらない。
 しかし、一瞬で姿を消すなんて誰にでもできることではない。フレアは自分の魔法の腕に自信があったが、姿を消すことは不可能だった。そもそも、そんな魔法は存在しない。
 もしそんな魔法を使える者がいるとすれば……。
「人間でも、竜族でもない。本当に悪魔なの?」
 驚いてはいたが、不思議と怖くはなかった。悪魔とはもっと恐ろしいものだと思っていた。
 先ほどまでの苛立ちはどこへやら、フレアは軽い足取りで城へと向かう。この退屈な日々を壊すには十分な刺激だった。
「フレア様、またお城を抜け出して……。あっ! その髪はどうしたんです? 今朝つけて差し上げた髪飾りは……?」
「ん? ああ、これ? いいのいいの、気にしないで」
 侍女を適当にあしらって、フレアは足早に自室に戻る。
「ない……。あの本は図書室か」
 フレアは昔見た悪魔の本を探すため、城の図書室へと足を運ぶ。
 子供の頃から本を読むのが好きでよくここへ来ていたが、もう一つ、フレアには図書室が好きな理由があった。
「メアルナ様!」
「おやおや、フレア様。そんなに急いでどうなさったのですか」
 杖を突いた黒髪の老婆に、フレアはぎゅっと抱き着いた。
 メアルナはこの国を守る戦士の妻だったが、戦いを嫌う今の王に戦士は必要なかった。夫は早々に現役を引退している。
「私ね、本を探しているの」
「どんな本?」
 フレアはメアルナと一緒に本棚の前を歩く。
 実の母親とはそりが合わないフレアは、彼女を母親以上に慕っていた。
「悪魔の本!」
「あ、悪魔ですって?」
 メアルナは困った顔をしたが、すぐに一冊の本を見つけてフレアに手渡した。
 子供の頃に見た、あの悪魔の絵本だった。
「そうだ、これだ!」
 フレアは急いで本を開く。
 絵本には幼稚な悪魔の絵と、親の言うことを聞かないと悪魔に食われるという、これまた幼稚な内容しか書いていなかった。
「悪魔の本って、これだけ?」
「ええ、ここにあるのは……。フレア様、急にどうしたんですか、悪魔だなんて……」
 絵本をもう一度読み返しながら、フレアは答えた。
「んー、私さっき悪魔に会ったの」
「あ、悪魔に? フレア様が?」
「うん。爪を短くしてあげて、髪を結ってあげたの」
 メアルナは胸に手を当て、どうにか呼吸を整えようとしている。これまでの人生いろんなことがあったが、こんなに驚いたのは今日が初めてだった。
「それは、ほ、本当に悪魔だったのですか?」
 ぱたん、と、本を閉じてフレアはため息をついた。
「それが知りたくてここへ来たんだけど、情報がこの絵本だけじゃ……。見た目はまさにこの絵と同じだったんだけどな」
「フレア様、このことは……」
「大丈夫大丈夫。メアルナ様以外には絶対言わない」
 フレアの言葉に、メアルナはほっと胸を撫で下ろす。
 玉座の間での出来事はメアルナも聞いている。ただでさえ父親と揉めがちなフレアだ。悪魔に会ったなどとキルノスの耳に入ればただでは済まない。
 しかし、同時にメアルナは責任も感じていた。イデアベーラにまつわる逸話を話して聞かせたのは他でもない、自分だった。
「うん、とりあえず今はこの絵本が見つかっただけでもいいか」
 フレアは悪魔の絵本を服の中に隠し、図書室を出た。こんな本を持っているのが父や兄に見つかると面倒なことになる。
 メアルナに礼を言い、図書室を出る。
 気分よく廊下を歩いていると、自室の前に豪華なドレスを身に纏った女の姿が見えた。
 母だった。
「フレア、い、今までどこへ行っていたの? そんなお、男みたいな恰好でうろつくなんてはしたない……」
 母は、見た目は美しい人だった。国で一番の美人といっても誰も疑わないだろう。父が母のために見繕ったドレスもよく似合っている。彼女はドレスも宝石も、自分の欲しい物はなんでも持っていた。
 戦いとは無縁の世界で生きていた。剣を持つどころか、その膨大な魔力を誰かのために使うこともしなかった。
 父がそれを望まなかったからだ。
 母は、美しいだけのただの人形だ。自分の意思がなく、ただ言いなりになっているだけ。
「お母様、私に何かご用ですか?」
 本を隠しておいてよかった。悪魔なんて文字を見たら、この人は気を失ってしまうかもしれない。
「あ、あなた、またお父様に無礼な口をきいたそうじゃないの。だ、だめじゃない、ちゃんとお父様の言うことをきかないと……」
「お母様には関係ない」
 一度は忘れた苛立ちが、またフレアの心を支配する。
「私には私の考えがあるから」
「あ、あなたの考えなんて、必要ないのよ。女はね、黙って男の人の言うことをきいていればいいのよ。そ、そうすれば、幸せになれるの。綺麗なドレスも着られるし、何にも困らない生活ができ……」
「私はお母様とは違う!」
 母の言葉を遮り、フレアは叫んだ。
「お母様の幸せは、私の幸せじゃない! 私は誰の言いなりにもならない」
「フ、フレア……」
 母は狼狽え、きょろきょろと視線を泳がせる。
「で、でもねフレア……。女は男に尽くすものなのよ。お母様もそうしてきたわ。男の人はね、大人しくて物分かりの良い女を好むのよ。だからあなたも……」
「もう、やめて! お母様とは話したくない!」
 母を押しのけ、フレアは自室の扉を開ける。母の顔を見ないように、後ろ手で扉をぴしゃりと閉めた。
 女だからって、なぜ男の言いなりにならなければいけないのか。フレアには理解不能だった。
 私は、私だ。

 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 外はすっかり暗くなっていたが、夕食を食べる気分にもならなかった。
 とりあえず起き上がって、燭台に火を灯そう。
 悪魔の絵本を持ったまま、フレアはベッドから降りた。
「ひぇっ!」
 ごとん、と、音を立て、フレアの手から絵本が落ちる。
「び、びっくりした!」
 部屋の隅の人影に向かってフレアはそう言った。暗闇に紛れていたが、相手が誰なのかはすぐに分かった。
「いるならいるって言ってよ! 心臓が止まるかと思った!」
「す、すまン……」
「謝るくらいならしないでよね、本当にもう!」
 そう言いながらも、フレアは少し笑っていた。相手は悪魔なのに、また会えて嬉しいと思ってしまった。
「あ、こ、こレ……」
 ベリアルは遠慮がちにフレアに近寄ってきて、髪についた髪留めを指差した。
「返すのを忘れて……」
「もしかして、それを返しに来たの?」
 髪留めは昼間フレアがつけてあげたままの状態だ。取りたければ簡単に取れるのに。
「そんなの……。別に気にしなくてよかったのに」
「い、いや……悪いと思っテ……」
「律儀なんだね。悪魔なのに」
 フレアはベリアルの髪からそっと髪留めを外した。彼の長い黒髪がさらっと額に落ちてくる。
「ねえ、今度前髪切っていい?」
「それはだめダ」
「えー。けち」
「け、けチ……? うっ……」
 なぜか言葉に詰まるベリアル。
 悪魔をからかって面白がるなんて、この世に自分くらいだろうか。
 フレアは笑う。
「わざわざありがとう」
「いや……別ニ……」
 長い髪と暗闇で表情は見えなかったが、ベリアルは悪魔なのに優しい口調でこう言った。
「女だからって、その……。男の言うことをきかないといけないなんて、ことはない……と思う。少なくとも、私は……」
「えっ?」
 ちゃんと聞こえていた。聞こえていたけど、唐突にそう言われたので思わず聞き返してしまった。
「な、なんでもなイ! じゃ、じゃあもう用も済んだかラ、私は帰るッ!」
 今度は引き留める間もなくベリアルは消えてしまった。
 どこに帰るのか聞きたかったのに。
「変な悪魔」
 あの話を知っているということは、ずっとフレアのことを見ていたのだろうか。
「まさか……ね」
 誰もいなくなった部屋で、フレアは床に落ちた悪魔の本を拾い上げた。
 角があって顔色は悪いけれど、ベリアルはこの本の悪魔とは違う気がした。

 城下町を一歩出ると、そこは森と湖に囲まれた神秘的な世界が広がっている。人間たちの住む世界と黒竜族の国の境界線だ。
 人間の住む土地からここへ来るには、魔法の道を歩ける黒竜族の案内が必要だ。しかし、こちらから向こうへ行くのは案外簡単だ。
 栗毛の馬を颯爽と走らせながら、フレアは考える。
 このまま、馬に乗って外の世界へ行ってみたい。
 自分のことを誰も知らない場所で生きてみるのもいいのかもしれない。
「フレア様、フレア様! 待ってくださいまし!」
 声に気づき、フレアは馬を止める。後ろから、鹿毛の馬に乗った少女が必死にフレアの後を追ってくる。
「ごめんねセデルナ。ちょっと飛ばしすぎちゃった」
「いいえ! フレア様に追いつこうと必死になったので、わたし、また乗馬が上手くなった気がします!」
 セデルナは馬から降り、背中に背負ってきた魔法の杖を取り出す。
「フレア様、今度は魔法を教えてくださいまし!」
 やる気満々のセデルナ。フレアも馬を降り、魔法の杖を構えた。
 前言撤回。
 やっぱり国を出て行くなんて考えられない。この国の行く末は自分にかかっているのだ。
 フレアと共に馬に乗って来たセデルナは、メアルナの孫娘で今年十歳になる。母親はセデルナを産んだ時に死んだ。それからはメアルナが母親で、フレアのことは姉のように慕っていた。もちろん、フレアもセデルナのことは実の妹のように可愛がっていた。
「セデルナ、約束ちゃんと覚えてる?」
「はい、フレア様! 危なくなったら魔法壁(まほうへき)、ですね!」
 魔法壁とは、その名の通り相手の魔法を防ぐ壁のことだ。魔法使いと戦う時に自分を守る盾を作りだす魔法。魔力をあまり持たない剣士でも簡単に使える魔法だ。
「よろしい。じゃあ、始めるよ!」
 フレアの掛け声と同時に、セデルナが杖をフレアに向けた。
 この地上に生きる者は全て魔力を持っている。しかし、魔法を使うには、杖の先端についている魔法石という石が必要だ。そして、当然魔法はこの魔法石を通して放たれる。
「フレア様、今日はわたしからいきます!」
 セデルナの杖から飛び出したのは、魔力で作られた水の球。弓矢と同じくらいの速度でフレア目がけて飛んで行く。
 水の魔法が放たれたのとほぼ同時に、フレアの杖からも白い閃光が放たれた。
「えっ? 嘘……でしょ?」
 水の球は、氷となって地面に落ちていた。
「フレア様は炎の魔法を使うはずなのに……」
 唖然とするセデルナ目がけ、フレアは容赦なく炎の弾丸を浴びせた。
「セデルナ! よそ見してると死ぬよ!」
「は、はい!」
 セデルナは素早く水の魔法を操作して炎を防ぐも、今度はどこからか強い風まで吹いてくる。
「ま、前が見えない……」
 セデルナは攻撃を諦めた。杖を自分の胸の前でしっかり握りしめ、防御の体勢に入る。
 セデルナの杖が光り、魔法の壁が現れる。
「フ、フレア様、本気出しすぎ……!」
 目くらましの風の中から、まるで竜の口から吐かれたような激しい炎がセデルナを襲う。
 体中の全ての魔力を壁に込める。魔法壁で防いでも、炎の熱さはしっかり感じられる。もし当たっていたら笑い事では済まないだろう。
 必死に炎をやり過ごすと、向こうでフレアが笑っているのが見えた。
「よく耐えたね! セデルナ、腕を上げたんじゃない?」
「フレア様っ! わたし、もう必死で……。本当に死ぬかと思いました!」
 全身の力が抜け、へなへなと地面に座り込む。大した時間ではなかったが、セデルナは魔力の大半を使い果たしていた。
 セデルナの魔法はフレアには通用しなかったが、城の使えない魔法使いよりは断然素質があった。
「それにしてもフレア様。炎の魔法だけではなく、氷と風の魔法も使えるのですか?」
「水も出せるよ?」
 フレアが乱暴に杖を振ると、先ほどのセデルナと同じ水の球が飛び出し、目の前にあった木が一本折れた。ものすごい衝撃だ。もしあれが体に当たったら、絶対に立っていられる自信がない。
「す、すごいです! わたしにも教えてくださいまし!」
「いいよ。でも、ちゃんと水の魔法を使いこなしてからね」
「はい!」
 二人が楽しそうに話していると、がさっと草をかき分ける音がする。
 風の仕業ではない。何か大きなものがこちらに向かって歩いてくる。
 セデルナは気配に気づき、杖を握りしめる。
 隣にいるフレアは気付かないのか、「あー、この解放感たまんないわ」と、言いながら、寝転んでしまった。
 フレアの洋服が汚れてしまうことに気を取られたその瞬間、近づいて来た何かが飛び掛かってきた。
「きゃーっ! フレア様!」
「うおっ! またお前か!」
 フレアは自分の魔法の杖で、襲って来たそれを思いっきりぶん殴った。
 きゃいん! と、情けない声を上げたのは大きな狼だった。立ち上がればフレアよりもずっと大きい。それなのに、フレアに殴られて二メートルほど吹っ飛んだ。
「だ、大丈夫ですか?」
「平気平気。あいつ、悪い奴じゃないから」
 狼は起き上がり、しょんぼりした目でこちらを見ている。
 フレアは立ち上がり、腰に手を当てて偉そうに言った。
「こらっ! いきなり飛びつくなって言ったでしょ? おいで!」
 フレアが呼ぶと、狼は嬉しそうに近づいてくる。
「お座り!」
 狼は尻をべたりと地面についた。
「お手!」
 狼が左手を差し出す。
「違う! 反対!」
 一度出した左手を引っ込め、今度は右手を差し出した。
「よしよし。ほら、これでも食べな」
 フレアは腰に下げていた小さな鞄の中から、何やら黒い物体を出して狼の口にねじ込んだ。
 笑っているように目を細めながら、狼は黒い物体をもしゃもしゃと食べた。
 その姿はもはや狼ではなく、犬だ。
「何をあげたのですか?」
「クッキー。昨日自分で焼いたの。食べる?」
「はい! いただきま……」
 受け取ったクッキーを見て、セデルナは絶句した。渡されたのはクッキーのはずだが、手の中にあるのは真っ黒な物体だ。甘い匂いもしない。
 消し炭……?
 しばらく無言でクッキーを見つめたあと、息を止めて口の中に押し込んだ。
 自分からもらった手前、やっぱりいらないとは言えなかった。
 口いっぱいに広がる苦味に顔をしかめたが、幸いなことにフレアは狼の頭を撫でていたのでセデルナのことは見ていなかった。
「ところで、なぜここに狼さんがいるのですか? 狼さんはもっと西の方に住んでるって、おばあ様もフレア様も言っていましたよね」
 セデルナは、メアルナとフレアから聞いた神々との戦いの話を思い出す。神々に戦いを挑んだのは竜族だけではない。ここより東の地に住む一部の人間と、ペガサス。そしてこの狼たちだ。
 竜族と狼は、神々との戦いで共に力を合わせて戦った仲間だ。本来ならば人の言葉を話すことができるが、この狼はなぜか何も物を言わない。
「この辺にいるのこいつ一頭だけだし、仲間とはぐれたんじゃない?」
 狼はフレアにずりずりとすり寄って、かなり懐いているように見える。
「それにしても、ずいぶんとあほ面な狼だね。あんた、そんなんだから迷子になったんじゃないの?」
 セデルナは狼の顔をまじまじと見つめた。
 本で見たのは、もっと目が鋭くて牙を剥き出していた。だが、目の前の狼は目を細め、フレアに頭を撫でられて嬉しいのか口から舌がはみ出している。
「な、なんか可愛い……ですね」
「そうなの。なんか憎めなくてさ。悪さもしないし、たまにこうやって遊んであげるくらいは、ね?」
 そう言って、フレアは狼の頭をぽんぽん叩いた。
 フレアとセデルナが帰り支度をするまで、狼はずっと二人の側を離れなかった。
 二人が馬に乗って森を出て行く時も、姿が見えなくなるまでじっとその場に座っていた。

 玉座の間の一件以来、フレアは今まで以上に父と兄たちを避けていた。
 嫌々ながらも仕方なく共にしていた食事の時間も別々にし、うっかり城の中で出くわしても徹底的に無視をした。
 こちらからは目を合わせないようにしているのに、なぜか兄たちは二人してフレアの行く手を阻む。
 もう遅い時間だから早く部屋へ戻って休みたいと思っていたのに。
 イシュルスは淡々とした口調でこう切り出した。
「フレア、この前はすまなかった。そろそろ機嫌を直して、結婚のことを考えてはくれないか」
 ベスナルは兄の隣で、うんうん頷いている。
「どの男も金持ちだし、お前の好きなように生活していいと言っている。この城から出て、自由になれるんだぞ。悪い話ではあるまい」
 フレアは無言でイシュルスを睨みつけたが、彼は動じなかった。
「お前が、国や父上の心配をする必要はない」
「なぜ?」
 ようやくフレアが口を開く。
「私もイシュ兄やベス兄と同じ、お父様の子供。この国の王女。王女が国の未来を考えて何が悪いの?」
「お前は女だろ。女がそんなことを考える必要はない。男のために結婚をし、男のために子を産む。それが女の役割だろう」
 イシュルスも引き下がらない。自分の言っていることは正しいと思っていたので、自然と語気も強まる。
「いいから、黙って兄さんの言うことを聞け」
「嫌だ!」
「フレア……お前っ!」
 言うことを聞かないフレアに腹を立て、イシュルスは思わず拳を振り上げた。
 ぶたれる。
 フレアが身を強張らせたその時、イシュルスの動きがぴたりと止まった。なぜか拳は振り上げられたままだ。
「なっ……。どうして」
 その答えは、フレアだけが見えていた。
 ベリアルがイシュルスの手首を掴んでいたのだ。
「フレア、いい加減にしろ。一体これは何の魔法だ」
 人の動きを止める。そんな訳の分からない魔法をフレアは使えない。だがこの状況は好都合だ。
 一緒にいるベスナルは、困ったようにおろおろするだけで何の役にも立たない。
 フレアはイシュルスの問いには答えず、一目散に自室へ逃げ込んだ。急いで扉を閉め、鍵をかける。
 あの兄たちでも、部屋に乗り込んでくることはないだろう。
「あれで私を助けたつもり?」
 目の前に立っている悪魔に問う。
「私、助けてなんて言ってない」
 イシュルスが本当に自分をぶったら、その何百倍の魔法で仕返しをしてやろうと思っていた。正当防衛で兄に魔法をぶつける絶好の機会だったのに。
 しかし、悪魔はフレアの心を読んだかのようにこう言った。
「本当に……本当にそうなのか」
「な、なにが?」
「本当に、お前には助けがいらないのか」
 長い黒髪に隠れていたが、悪魔は悲しい目をしていた。
「私には、お前が助けを求めているように見える」
「はあ? ぜんっぜん求めてないけど。適当なこと言わないでよね」
 ベリアルは小さくため息をついた。フレアは予想以上に強情だ。
「素直じゃないな……」
「あ、悪魔に言われたくないし!」
 なんだか疲れてしまって、フレアは椅子に腰掛けた。
「あ、そうだ」
 傍にあった机の引き出しから、フレアは図書室にあった悪魔の絵本を取り出した。
 悪魔が子供を食おうとしているページを開き、ベリアルに突き付ける。
「悪魔って人間を食べるの?」
「食べるわけないだろう」
 突き付けられた本を手に取り、ベリアルは「なんだこれは」と、呆れた顔をした。
「悪魔を、子供を脅かす道具にするな」
「書いたの私じゃないし」
 そう言って、フレアはけらけら笑う。ベリアルはふんと鼻を鳴らし、絵本をフレアに突き返した。
「くだらん……」
「そりゃ本人が見たらそう思うよね」
 そう言うと、フレアは絵本を再び引き出しの中にしまった。
「ねえ、悪魔ってあんたの他にもいるの?」
「は?」
「普段はどこで生活しているの? 食べ物は食べる? あ、あと、姿を消す以外にも何か魔法が使える?」
 突然の質問攻めに、ベリアルはまたもやため息をついた。だが、口元は笑っている。
「なんだ。私に興味があるのか」
「当たり前でしょ。 悪魔なんてそう何度も見られるものじゃないし。それに、思ってたより全然怖くないから」
「お前に怖いものがあるのか」
「……あるよ」
 フレアが一瞬目を伏せた。
 国王にすら恐れずに食ってかかるフレアにも、怖いものはあるらしい。ベリアルはそれを聞いてみたくなった。
「ほう。それはなんだ」
「え? 教えないよ?」
「なぜだ」
「いやいや、悪魔に自分の弱みを握らせてどうすんの。それこそ怖いわ」
 そう言うと、フレアはぎゃははと笑った。上手いことを言ったつもりなのだろうか。
 ベリアルはむっとして、腕組みをした。
「こんな小娘に……」
 ぼそぼそと呟いたが、フレアには全く聞こえていない。何やら小さな箱をひっくり返している。
「あった!」
 フレアはベリアルの正面に立ち、ちょいちょいと手招きをした。
「なんだ」
「顔、もうちょっと近づけて!」
 言われた通りにすると、初めて会ったあの時のように、フレアはベリアルの前髪を掻き上げた。
 慣れた手つきで前髪を髪留めで留めた。
「これ、派手な髪留めじゃないからあんまり目立たなくていいよ。邪魔にもならないし。この前のは、星の形のだったから……恥ずかしかったかなって」
 髪留めのおかげで、フレアの顔がよく見えた。照れくさそうにえへへ、と、笑う。
「星は……嫌いじゃない」
「ほんと? よかった! 私も星を見るのが好きなの。あの髪留めは、人間の国へよく行く商人から買ったんだよ。どこの国の物かは分からないけど、とても綺麗だったから……」
 そう言って、フレアは嬉しそうに色々な髪留めや髪飾りをベリアルに見せた。
 数は多くないが、花や蝶、そして星をあしらった物がほとんどだった。
「お前はこういう物が好きなのか」
 右手で蝶の髪飾りを手に取り、ベリアルが呟く。なぜだかその時、遠い昔の記憶が頭をよぎった。
 ベリアルは、握った左手の拳をそっとフレアに差し出した。ゆっくり指を開くと、そこから青白い光を帯びた蝶が一羽現れ、ゆったり羽を羽ばたかせながらフレアの方へ飛んで行った。
驚いて、声が出ない。
 フレアは口を手で覆い目を見開いている。
 蝶はフレアの髪にとまり、きらきらした光の粒になって消えた。
 まるで幻を見ているようだった。
「すごい……」
 しばらく経って、ようやくフレアが口を開いた。
「魔法石がなくても、魔法が使えるの? その手のひら一つで?」
 ベリアルは頷いた。
「……もっといろいろできるゾ」
 そう言うと、ベリアルは天井に手を伸ばし軽く左右に振った。
 まるで星をばら撒いたかのように、きらきらした青い光の粒が部屋中に降った。
 今度は床に向かって手をかざす。フレアの髪飾りと同じ花が床一面に咲いた。
 そして、たくさんの蝶が花の周りを舞う。
「わあ……。きれい……」
 フレアは飛んでくる蝶に手を伸ばす。星も花も蝶も青い光だったが、それがとても幻想的だった。
 蝶たちと戯れている彼女の目から、いつの間にか涙が溢れだしていた。
 頬を濡らしながらも彼女は笑っていた。
 部屋中に溢れるベリアルの魔力には、以前感じた禍々しさは微塵もない。
 温かかった。
 こんなに温かい魔力を今まで感じたことはない。
 目の前にいるのが悪魔だなんて信じられなくなってきた。
「ベリアルって、本当に悪魔?」
 今までとは違う、真剣な眼差しを向ける。
「私は……」
 それに応えるように、彼も真っ直ぐフレアを見据えた。
「私は悪魔だ。だが、お前が望むのならばそれ以外のものになることもできる」
 そう言って、ベリアルはもう一度手のひらを差し出した。一羽の蝶が舞う。
「フレア……お前が、望むのなら……」
 こちらに飛んでくる蝶に向かって、フレアは両手を差し出した。
 今度は消えずに、蝶は手の中で温かな光を放ち続けた。


 妹の様子がおかしい。
 ベスナルは爪を噛みながら、部屋中を行ったり来たり歩き回っていた。
 最近、妹の近くに寄ると得体の知れない魔力を感じる。その魔力を初めて感じたのは、イシュルスが妹を殴ろうとしたあの夜だ。
「なんなんだ、この気味の悪さは……」
 これは絶対に妹の魔力ではない。
ベスナルは臆病で争いを好まない性格だったが、魔法の素質はあった。だから、父やイシュルスが気づかない妹の異変をいち早く察知することができた。
 ベスナルは考える。
「このことを父上と兄上に……。いや、しかし確信がない」
 そして、証拠もない。
 得体の知れないその何かがなんだと問われても、ベスナルには答えが分からない。
 妹とは別の魔力が存在しているということは、姿の見えない何かがいるのだろうか。
 疑問を感じたその時から、ベスナルは暇があれば妹をつけて歩いた。
 朝、部屋から出て来たところを見計らい、わざと廊下ですれ違う。妹はベスナルとは目を合わせることなく、さっさと行ってしまった。
 昼、街へ出掛けた妹を追いかける。特にいつもと変わった様子はない。
 夜、食事を済ませて部屋に戻る途中の妹に声を掛ける。妹はベスナルを睨みつけたが返事はしなかった。何の魔力も感じない。
 しかし、妹が部屋に入ってからしばらく扉の前で聞き耳を立てていると、何やら話し声が聞こえる。
「誰だ……。何を話しているんだ」
 いくら耳を澄ませても、妹の声しか聞こえない。その声も小さく、この分厚い扉を隔ててはよく聞き取れない。
 やはり何かいるのか。
 ベスナルが妹を尾行するようになってから、あの魔力を感じることは一度もなかった。まるでベスナルの存在に気づいているように思える。
 いつか絶対にぼろを出すはずだと考えたベスナルは、それでも妹の尾行をやめなかった。
 そして、ベスナルが妹の異変に気づいてから二ヶ月以上経ったある日。
 その日もわざと妹の傍を通る。すると、あの禍々しい魔力ではないが、ベスナルは別の異変に気づいた。
 妹はいつものように何も言わず去って行く。だが、ベスナルは思わず振り返り、妹の後ろ姿を見た。
 やはりそうだ。魔力が乱れている。
 鈍感な父と兄には分からないだろう。この微妙な魔力の流れは。
 同じような魔力の乱れを、ベスナルは知っている。
 ベスナルは体中から血の気が引いた。気づいてしまった以上、父と兄に言わないわけにはいかない。
 得体の知れない魔力の正体は分からない。しかし、今の妹の魔力の乱れには説明がつく。
 ベスナルは青い顔をしたまま、玉座の間へ向かう。
 このことを聞いたら、父と兄はどんな顔をするだろう。
「……はあ」
 思わずこぼれるため息。
 母と同じなのだ。妊娠していた頃の母と、妹の今の魔力の乱れ方は全く同じだった。
 玉座の間の重い扉を一人で開ける。中にはいつも通り、父と兄がいた。
「報告いたします」


 フレアはセデルナと森へ遊びに来ていた。今日は魔法の練習をせず、木陰で本を読んでいる。
「ごめんね、セデルナ。なんか最近調子悪くてさ」
「フレア様でも上手くいかないときがあるのですね」
 理由は分からないが、最近魔法の調子が悪い。以前のように思い通り魔力を操ることができなくなっていた。魔法は使えるのだが、狙った形にならなかったり、威力が弱まったりと上手くいかない。
 セデルナの練習相手をしたくても、今のフレアでは務まらなかった。
 本を読むのに飽きたフレアは、試しに魔法の杖を振ってみた。いつもなら木を折るほどの威力がある火の球は、ふわふわと空中を漂い、消えた。
「うそ……。こんなことってある?」
 まるで初めて魔法を使った頃に戻ってしまったようだ。
 いつも上手くいっていることが急にできなくなると、余計に苛立ちが増す。頭に血が上りそうなフレアだったが、セデルナの無邪気な声が彼女を正気に戻した。
「フレア様、見てください! 彼女、素敵な男性の方と結婚しました!」
 セデルナが夢中になって読んでいた物語の話だ。しかし、なぜかフレアの心臓がどきりと跳ね上がる。
「よかった! 自分が愛した人と結婚できるって、幸せですね」
 セデルナははしゃいでいた。
「わたしも、将来素敵な人と結婚をして、その人の子を産みたいです」
「誰か好きな人がいるの?」
 いたずらっぽくフレアが問うと、セデルナはちょっと顔を赤くして俯いた。
「あっ! いるんだ。ねえ、誰? 教えて」
「は、恥ずかしいです!」
 いつもは何でも話してくれるのに、セデルナは大きく首を振って両手で顔を隠してしまった。
 その様子を見たフレアが笑っていると、セデルナはぽつりとこう言った。
「もしその人と結婚できたら、わたし、男の子を産みます」
 何かを決意したような言い方だったので、フレアは驚いてセデルナの肩に手を置いた。
「お、女の子かもよ?」
「いいえ、絶対男の子を産みます!」
 セデルナは目を輝かせ、こう続けた。
「男の子を産んで、フレア様を守る戦士に育てます。フレア様はこの国を変えるのでしょう? だったら、フレア様の剣になる人も必要ではないですか?」
「セデルナ……」
 十歳の少女とは思えないほど、彼女はしっかりしていた。セデルナはフレアの一番の味方であったし、友人でもあった。
「名前ももう、決めてあるんです」
 セデルナは持っていた本をフレアに差し出す。
「男の子を産んだら、カルロスと名付けます」
 物語の主人公の女性に求婚した剣士の名前だった。
「フレア様?」
 開かれた本のページを見つめたまま、フレアは固まっていた。杖を握る手にも力が入る。
 そして、右手でそっと自分の腹に触れた。
 いや、まさか……。
「フレア様、どうされたのですか。具合が悪いのですか?」
「違う……。違う、んだけど……」
 ゆっくりと腹をさすりながら、フレアは自分が笑っていることに気づいた。
 自分の勘が正しければ、魔力を上手く操れなくなった理由も説明がつくかもしれない。
 今までの話の流れとフレアの行動で、セデルナも感づいた。驚きと喜び、そして期待。色々な感情がセデルナの中に湧き上がる。
「フレア様、そこに……お腹にいるのですか? フレア様の大切な……。お相手は……?」
 セデルナの問いに、フレアはくすっと笑って口元に人差し指を立てた。
「まだ、内緒」
 彼女にだったらベリアルを会わせてもいいと思ってはいたが、姿を見せる術が分からなかった。
 その後セデルナと別れたフレアは、急いで城に戻る。早く自室に戻ってこのことをベリアルに伝えたかったのだ。
 だが、城に入ったところを兄たちに見つかった。
「フレア」
 無視をしようと思ったが、イシュルスに呼び止められたので仕方なく足を止める。隣には、やけに青い顔をしたベスナルもいた。
「なに? 私、今急いでるんだけど」
「悪いな。兄さんたちも急いでいるんだ。父上がお前を探していたからな」
 イシュルスの言葉に、フレアはため息をつく。従わなければここを通してはもらえないだろう。
 仕方なく、イシュルスとベスナルと共に玉座の間へ向かう。いつものように中に入ると、珍しく母もそこにいた。母が玉座の間で父の隣に立つなど、滅多に見られない光景だ。
 嫌な予感しかしない。
 両隣に立つ兄たちが剣を抜いたのだ。
 フレアは深呼吸をし、握りしめていた魔法の杖に気を集中させた。
「フレア。私はお前を自由にさせすぎた」
 やはり最初に口を開いたのは父だった。母は顔を強張らせ、視線を泳がせている。
「自分でも、もう気づいているだろう。我々が勧めた縁談を蹴って、お前は一体どこの誰の子を身籠ったのだ」
 父に続き、イシュルスが言う。
「まさか隠し通せると思っていたわけではあるまい。ずっと前からベスナルが気づいていたぞ」
 フレアはきっと鋭い目でベスナルを睨む。ベスナルはフレアからすぐに視線を逸らす。父やイシュルスとは違い、明らかに狼狽えているのが分かる。
 迂闊だった。やはりベスナルの魔法の能力は侮れない。フレア自身しか分からないと思っていた魔力の不調は、ベスナルに感じ取られていた。
「さあ、言え。相手は誰だ」
 イシュルスが剣の先をフレアに向ける。
「……お父様が許さない、身分の低い人の子供を身籠ったから私を殺すの?」
「ち、違う!」
 フレアの言葉に答えたのはベスナルだった。
「身分じゃない! 問題は、そんなことじゃない」
 震える手でゆっくりとフレアの方を指差した。
「なんなんだ、お前にまとわりついた禍々しい魔力は……。この世のものとは思えない」
「はあ? その魔力と私の子供と何の関係があるっていうの?」
 フレアは力強く杖の石突を床に叩きつけた。床に現れたのは赤い光を放つ魔法陣。
「私に近寄らないで!」
 魔法陣から真っ赤な炎が吹き上がる。
 イシュルスとベスナルは、すんでのところで魔法陣の上から飛び退いた。
 不調だと思っていたが、いつも通り魔法が使える。むしろいつもより調子が良い。
 魔法なら誰にも負けない自信があったが、接近されればフレアに勝ち目はない。絶対に兄たちの接近をゆるしてはいけない状況だ。
「や、やめろフレア! 戦ってどうする。なんの意味もないだろう」
 怯えた声でベスナルが叫ぶ。
「先に剣を向けたのはそっちでしょ?」
「お、お前に向けたんじゃない! お前じゃ……」
 叫ぶベスナルに気を取られ、気づくのが遅れた。いつの間にか接近してきたイシュルスが、フレア目がけて剣を振り下ろした。
 杖で受け止めようと身構えたが、何かが先端の魔法石を掴んでいた。
 玉座の間の空気が凍り付く。
 魔法石を掴んだ何かは、反対の手でイシュルスの剣を受け止めていた。
 フレアにしか見えないはずのそれを、玉座の間にいる全員が見ていた。
「……こいつらに私の姿を見せるため、お前の魔力を少し借りるぞ」
 フレアに背を向けたまま、ベリアルは言った。
 イシュルスはベリアルを凝視したまま後ずさる。いつも冷静を装っている彼の表情は恐怖の色に染まっていた。
 母は腰を抜かしてその場にへたりこむ。
「あ、悪魔……。悪魔なのか」
 キルノスは玉座から立ち上がる。
 ベリアルはキルノスの方を見た。
「ベスナルが言っていた禍々しい魔力の正体はお前か」
 さすがのキルノスも、悪魔を前にして驚きと若干の恐怖を隠しきれない。
 先祖が昔戦った神々よりも、悪魔の方がもっと得体の知れない存在だった。第一、本当に悪魔が存在するなど考えてもいなかった。
「フレア……。まさか、お前は……」
 キルノスはフレアとベリアルを交互に見て、震える声で言った。
「お前の……その腹の中には何がいる……?」
 イシュルスもベスナルも、言葉が出てこなかった。
「お前は、何を産もうとしているのだ……」
 キルノスが剣を抜く。
「そこをどけ、悪魔よ。お前に娘はやらぬ」
 ベリアルが笑う。
「ほう。どうするつもりだ」
「娘が、得体の知れない悪魔の子を産むのを黙って見ているわけにはいかない」
 ベリアルの後ろにいるフレアに向けて、キルノスが剣を向ける。
 イシュルスとベスナルもそれに倣い、再び剣を構えた。
「悪魔の子を産ませるわけにはいかない。フレア……。今ここでお前を殺す。悪魔に弄ばれてしまった、憐れな娘よ」
「はあ?」
「おい」
 フレアとベリアルがほとんど同時に口を開いた。
「弄ばれてないし!」
「弄んだ覚えはなイ」
 一瞬、ベリアルがフレアを振り返る。見なくても分かってはいたが、怒っている。
「なに勝手なこと言ってんの? 私は憐れじゃない。決めつけないで」
 全く笑える状況ではないが、フレアは腹の底から笑って言った。
「全ては私が望んだこと。私、絶対にこの子を産む」
 笑っていたのはフレアだけではなかった。声こそ出さないものの、ベリアルも愉快そうに笑っていた。
「こんなところで殺されてたまるかー!」
 そう叫ぶと、フレアはそっとお腹の子に語り掛けた。
 ごめん、ちょっとだけ力を貸してね。
 全身の魔力を解き放ち、フレアはさっきよりも巨大な魔法陣を描き出した。
 あっという間に玉座の間が炎に包まれる。
 その場にいた全員、魔法壁で自分の身を守るので精一杯の状況だった。
 燃え盛る炎の中、フレアは父と兄を一瞥し、言った。
「いつか……いつか絶対、お前ら全員、この地位から引きずり降ろしてやる」
つづく
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