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ラジエルの書第四十九巻―神と天使と人形―  最終話

 アポロンの弓矢は人形目がけて真っ直ぐに飛んだ。その時。
「やめろ!」
 じいさんが人形を抱いた男の体を突き飛ばした。
 男は人形を抱いたまま倒れ、矢はじいさんの肩に命中した。血が噴出すのにも構わず、じいさんは矢を引き抜いた。
「ばかやろう! 何しやがんだ。てめえはぶっ殺すかぶっ壊すか、それしかできねえのかよ!」
 怒鳴りながら、じいさんは矢をアポロンの足元に叩きつけた。アポロンも男も、ただ呆然とじいさんを見つめることしかできなかった。エリオットもそうだった。しかし、彼は魂が抜けたようにそこにいるだけだった。
「人形は壊れなかった。だけどな、エリオットがどんなに傷ついたか分かるか?アポロン……てめえも親父のゼウスと一緒だな。いつでも自分の……神の考えが正しいと思ってやがる」
「違う……私は違う! 父とは違うんだ……エリオット!」
 アポロンは真っ青になってじいさんの言葉を否定した。しかし、ぴくりとも動かないエリオットを見て自分が大きな過ちを犯してしまったことに気づいた。
「エリオット!」
 アポロンがいくら呼んでも、エリオットは答えなかった。
「私は……また間違えてしまった。同じ過ちを犯してしまった」
 エリオットを抱きしめて嘆くアポロンに、じいさんは言った。
「呆れたもんだ。これで二度目か。お前の昔の失敗になんて興味ねえけどよ……。エリオットを愛しているのなら、どうしてその言葉に耳を貸さなかった? それと、その人形。リーザとか言ったな。お前もちょっと酷いんじゃねえのか? いつまでそうして黙り込んでるつもりなんだ」
 倒れた男の傍に寄り、人形にそう言った。すると、どこからか少女の声が聞こえてきた。
「ごめんなさい」
 それは、確かに人形から発せられた声だった。
「ア……アリーシャ!お前……」
「お父さん、ごめんね」
 男は人形を抱きしめたまま、はらはらと涙を流した。じいさんは続けて人形に話かけた。
「リーザ、教えてくれ。お前の元の肉体はどこにある?」
 しかし、人形は答えなかった。
「その前に私の質問に答えてください。どうして私が話せることを知っているのですか。あなたは誰ですか」
 男とアポロンがほぼ同時にじいさんの顔を見た。
「その男は……」
「うるせえな。オレが誰だろうと、今は関係ねえだろ」
 じいさんはアポロンの言葉を遮った。
「オレはお前を元に戻せるかもしれないんだぜ? それだけ分かれば十分じゃねえか」
「アリーシャを元に戻す? そんなことは……。も、もしやお前はあの時……あの時研究を手伝ってくれた……?」
「今頃気づいたのか」
 ぶっきらぼうに言い捨てると、じいさんはチッと舌打ちをした。それ以上は男に構わず、再び人形に言った。
「お前に初めて会った時に気づかなかったのは迂闊だった」
「それは仕方ありません。私は持てる力全てを駆使し、普通の人形のように振舞いました。あなたが私の魔力を感知できなかったのはそのせいです」
「ほう……。それを聞くと、お前は相当な能力を持った魔法使いだな。メディア王国の女は強大な魔力を持つと言うのは本当だったようだ」
「もしそうだとしても、何も良いことなどありません。この力は、過去の呪われた遺物なのですから」
 人形は言葉に感情を込めず、ただ淡々と語った。メディア王国には、とにかく謎が多かった。
「あなたはどうしてこの恐ろしい研究の手助けをしたのですか」
「こりゃまいったな。それを聞かれると困るんだ。そろそろオレの質問にも答えてくれねえか」
 それと同じくらいじいさんにも謎は多い。だが、何を聞いても答えてくれそうにないので人形は諦めた。
「あなたに関してこれ以上の言及は無駄なようですね。分かりました、答えます。私の体はまだこの世にあります」
 意外な答えにいち早く反応したのはアポロンだった。
「そんな馬鹿な」
 言いながら、首を横に振る。
「私には見えなかった」
「女王様は神であるあなたの目をも誤魔化せるほど大きな力を持っています。これは脅威です」
「おいおい、今ここでそんなことを言ったってしょうがねえだろ」
 アポロンは眉を顰めたが、じいさんは構わず話続ける。
「体が残ってるってことは、リーザを元に戻せる。それでいいじゃねえか。なあ?」
 じいさんが言うと、男は期待に満ちた様子で頷いた。しかし、人形はその言葉に賛成しなかった。
「駄目よお父さん。私が健全だと分かれば、この実験は成功したことになってします。実験は進み、今度はもっとたくさんの人が犠牲になってしまうわ。それじゃあ意味がないの。私を殺して! 私一人を殺せば、全て済むのよ」
「リ……ザ」
 エリオットが動いた。アポロンの腕をすり抜け、這いつくばってリーザのもとへやって来た。
「ど……して。死……駄目だよ……」
 目に涙を溜め、エリオットは人形に手を伸ばす。さすがの男も、人形をエリオットに差し出さずにはいられなかった。
 エリオットは震える手で人形を受け取った。人形以外の物は何も見えていないようだった。
「生きて……リーザ」
 たった一言、そう言った。それでも、人形の心を変えるのには十分すぎた。
 今まで淡々と話していた人形の声に、初めて感情がこもった。
「なぜなの……。私はただの人形だった。あなたを喜ばせることなんて、一つもしてないのに」
 泣き出しそうな声でそう言った。
「僕は君といて……楽しかった。シャセリオさんもセラさんも、君のことが好きだった。君がいたから幸せだった」
「嘘よ嘘よ! 私はあなたを傷つけたわ。今だって……」
「それも、僕の幸せの一つ。今まで誰かを必死で守るなんてことなかった。こんな僕でも守れるものがあるんだって思えて、嬉しかった」
 人形は何も答えることができなかった。
「僕は魔法の事はよく分からない。でも、少しでも君が助かる可能性があるのならそれに賭けたいんだ」
「……あなたは変わってるわ」
 人形がぽつりと呟くように言った。
「大金を出してまで私を買って、ただの人形に毎日言葉をかけて……。でも、それが嬉しかった。あなただけが私を人間だと気づいてくれて、愛してくれた」
 エリオットは人形を抱きしめた。涙は流れたが、口元は少しだけ笑っていた。
「私を壊して、なんてお願いしてごめんね。あなたしか……あなたしかいなくて」
「もう、いいよ。君だって辛かっただろう? 泣かないで、リーザ」
 人形の目から小さな雫が零れ落ちた。じいさんが傍に来て、エリオットの肩に手を置いた。
「なあ、リーザをオレに預けてくれねえか」
「じいさんに?」
「おうよ。メディア王国の女王に、リーザの元の体を返してもらえるように頼んでやらあ」
「女王様は簡単には聞いてくれないわ、きっと」
 人形が言うと、じいさんはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「心配すんな。女王にはちょっとした貸しがあるからな。ここらで返してもらわねえと割に合わねえ」
「貸し……?」
 エリオットは首を傾げた。しかし、じいさんは詳しいことは何も話してくれなかった。
「おい親父!」
 大声で呼ばれ、男は恐る恐るじいさんを見た。
「いつまでびくびくしてんだバカ。今すぐメディア王国に行くぞ。とっとと立て」
 ふらふらと立ち上がった男に、エリオットは人形を手渡した。
「リーザをお願いします」
「坊や……」
「僕、待ってます。リーザだけでなく、あなたのことも」
「俺は……」
 男は苦笑した。
「俺はきっと戻って来ない。この事件の後始末をしないといけないのでね。でも、約束する。この子が元に戻ったら、すぐここへ戻って来られるようにするよ」
 戻って来ないというその意味が男の死を意味しているかのようで、エリオットは不安になった。女王の命令のもとで行われた実験を妨害し、国を逃亡した男は罪人として扱われているはずであったからだ。どんな処罰が待っているか、エリオットには想像もつかない。しかし、ただでは済まされないことは分かる。
 思案に駆られて難しい顔をしているエリオットに、男は言った。
「大丈夫。坊やは何も心配しなくていいんだよ。信じて待っていてくれれば、俺も……リーザもいつでもここへ帰って来られる」
「もちろん待っています。だから、絶対に来てくださいね」
 男は何も言わずに微笑んだ。約束はできない。そう言っているように思えた。
「エリオット……ありがとう。きっとまた会えるわ」
 別れが惜しくなると思ったのか、そう一言言っただけでリーザは何も言わなくなった。
 少しだけ寂しかった。
「お前たちの未来は闇に閉ざされていた。しかし、今は光が見える。不思議なものだ。これも、運命の女神たちの気まぐれだろうか」
 別れ際、アポロンが男に言った。
「その人形が言った女王のことがとても気にかかる。しかし、今はただお前たちの行く末を見守ることにしよう。ああ、これだから私は人間が好きだ。神が定めた運命をも、自らの手で切り開くその力が……」
 アポロンは男の手を取り、慈悲深い笑みを浮かべた。アポロンが触れた指先から伝わった熱が、男の体を温めた。
「我が女王にも、あなたのようにお優しい心があればどんなによかったか……」
「臆するな。お前はもうここへ来た時のように、一人ではないはずだぞ。それに、生きなければいけない理由もできたのではないか?」
「……やっぱりあなたは何でもお見通しなのですね」
 男は少し離れた所でじいさんと話しているエリオットを見た。さっきまでの出来事が嘘のように、エリオットは愛らしい笑みを浮かべていた。
「ああ、旅立つ前に私から一つ」
 アポロンはじいさんを指差した。
「あの男には気をつけることだ」
「それは……」
 男が尋ねると、アポロンはその耳元で何かを囁いた。
「ええっ!」
 男はびっくりして声を上げた。じいさんとエリオットが気づいてこちらを見たので、アポロンはしっ、と人差し指を立てた。
「本人に言ったら駄目だぞ。怒るかもしれないから。まあ、お前に害を与えることはないだろうから、安心しろ」
「は、はい……」
「おい、お前ら何やってんだよ」
 男はアポロンに頭を下げ、慌ててじいさんの方に走って行った。アポロンもすぐその後について行く。
「じゃ、しばらくお別れだ、エリオット。ちゃんといい子で待ってんだぞ」
「じいさんこそ、ちゃんと約束守ってね。……待ってるから」
 待つ、という行為がどれだけ大変かをじいさんはよく分かっていた。だからふざけず、真面目に頷いた。
「アポロン、オレのいない間こいつを頼むぜ」
「言われなくとも、分かっている」
「今度はきちっと守ってくれよ」
 アポロンの反応を待たずに、じいさんはひらりと手を振った。
「もたもたしてると別れづらくなるな。行くぞ」
 男は最後に深く例をして、さっさと歩き始めたじいさんの後を追いかけて行った。
 エリオットはじいさんと男の姿が見えなくなるまでずっと見つめていたが、二人が振り返ることはなかった。
 ふと、アポロンがエリオットの肩を叩いた。
「君にはまだ、会いに行かなければいけない人がいるね? 首を長くして待っているようだ」
「シャセリオさん……。と言うことは、アポロン様が治してくださったのですか?」
「どうだろう。自分の目で確かめてみては?」
 ふわりと浮かべたその笑みは、いつもの優しいアポロンだった。胸が高鳴る。
 アポロンに背を押され、エリオットは街までの道のりを走り出した。毎日見ている景色が全て新鮮なものに思えた。
 店の目の前まで来ると、エリオットは立ち止まった。正面から入ろうか、裏口から入ろうか迷ったからである。
 だが、悩んだのも一瞬。エリオットは正面の扉を開いた。
「やあ、エリオット。待っていたよ」
 いつもと変わらない笑顔で、シャセリオはそこにいた。
「シャセリオさん!」
 子供の頃からそうしていたように、エリオットは器用にカウンターを乗り越え、シャセリオに抱きついた。
「こらこら。カウンターを乗り越えたら駄目だといつも言っているじゃないか。全く……困った子だ」
 シャセリオは笑いながらそう言ったが、エリオットはわんわん泣いていた。
「よかった……よかった……」
 泣きながらずっとエリオットは言い続けた。
 あまりに大きな声で泣くので、二階にいたセラがびっくりして降りてきた。
「まあ! 誰かと思ったらエリオットさん……」
 エリオットは慌てて涙をぬぐったが、袖を一往復させただけで拭える量ではなかった。
「セ、セラさん……すみません」
 ぐずぐずと鼻をすすりながら、エリオットは笑った。その様子がさっきまでの自分を見ているようで、セラはなんだかおかしくなった。
「もう、エリオットさんたら。お兄様は元気なのよ? 泣いてないでもっと笑いなさいな」
「そうだよ。セラも君も同じことを言いながら泣くから、どうしていいかわからなくなってしまったよ」
「お、お兄様!」
 セラは顔を真赤にして声を張り上げた。
「もう、余計なことを言わないで!」
 そのまま逃げるようにして、セラは二階に戻ってしまった。シャセリオがやれやれとため息をつく。
「ああ見えて、君のことも心配していたんだよ」
 エリオットはあっ、と言った。
「そう言えば、何も言わないで出てきちゃった……」
「君が無事に戻って来て安心してるんだよ。もちろん、私もね。何も危ないことはなかったかい?」
 エリオットはシャセリオに、今日あった出来事を全て話した。シャセリオを襲ったのが人形の父親で、人形が実は元人間だったこと。そして、人形を元に戻すためにじいさんと一緒にメディア王国へ向かったことを話し終えると、シャセリオは少しの間目を伏せた。
 その間、エリオットはどの事実が一番シャセリオにとってショックな出来事かを考えていた。
 人形が人間だったこと? シャセリオを傷つけたのは、その父親だったこと? 実験のこと?
 しかし、そのどれにもシャセリオは触れなかった。
 もう一度エリオットを抱きしめて言った。
「みんな……辛かったね。君も、リーザも……そしてお父さんも。でも、みんな生きている。生きていれば、必ずもう一度会える。誰も死ななくてよかった……よかったんだよ」
 シャセリオさんも、死ななくてよかった。そう言いたかったのだが、再び溢れてきた涙を堪えるのに必死で言えなかった。
 じいさんとリーザがいなくなってしまった分の寂しさは、シャセリオとセラが埋めてくれる。だから、いつか彼らが戻って来るその日まで、寂しいと言わないで待ち続けられると思った。
 たった一つ。店に飾られたリーザの絵だけが、エリオットに残された彼女の面影だった。
 そして、エリオットは再び筆をとった。


 ある夏の昼下がり。エリオットは家の中で絵を描いていた。
 床には手紙が何通も散らかっている。散らかっているのは手紙だけではない。使い終わった絵の具、筆、靴下など、いろいろな物が床に放り投げられていた。もう何日も掃除をしていない様子である。
「エリオット。食べ物を持って来たよ。なんだか昨日より散らかっているね」
 床に散乱した物を踏まないように気をつけながら、シャセリオが部屋の中に入ってきた。手にはパンや果物が入った籠を持っている。
 シャセリオはそれをテーブルの上に置きたかったのだが、そこも散らかっていて無理だった。仕方なく画材道具を無理やりどかし、わずかな隙間に籠を置いた。
「すみません。ちょっとこれが終わるまで手が離せなくて」
 エリオットが描いていたのは、リーザの絵だった。湖畔にたたずむリーザの背には、草原のリーザと同じように白い翼があった。
 あれからもう、二年が経っていた。
「君は今までたくさんリーザの絵を描いたけど、どうしていつも天使の姿なんだい?」
 シャセリオが聞くと、エリオットはちょっと恥ずかしそうに答えた。
「リーザを見た時、あんまり美しいから……天使に見えたんです。僕は本物の天使を見たことはありません。でも、とても綺麗で純粋な生き物だってことは知っています」
「……きっと、君にはリーザの内面の美しさも見えていたんだね。……うん、いい絵だ」
 エリオットの絵を評価しているのはシャセリオだけではなかった。街中のお金持ちや貴族がエリオットの描く絵を欲しがった。
 特に、一番初めに描いた草原の天使と名づけられたリーザの絵は、目が飛び出すほどの値がつけられた。しかし、エリオットはその絵を誰にも売らず、セラに贈った。
 エリオットが有名になったのはセラのお陰でもあった。セラがエリオットの絵を店に飾るようになってから、だんだんとその名が知られるようになっていったのだ。
 シャセリオは床に落ちていた手紙を拾い。差出人の名を見た。
「王様も君を王室に招くのに一生懸命だね。そろそろいい返事をしてあげたらどうかな」
 エリオットが中身も見ずに散らかしていた手紙は、王室からのものだった。エリオットの絵をいたく気に入ったグロムナート王が、宮廷画家としてエリオットを城に招こうとしていたのだ。
「まだその時じゃないんです。今はまだ、駄目なんです」
 手紙の返事が来ないのでわざわざ尋ねてきた使者に、エリオットは言う。シャセリオに対しても同じだった。
 一つ違うのは、シャセリオはその理由を知っているということだった。
「気持ちはわかるよ。でも、もういい頃じゃないかな。君だっていつまでも一人じゃないんだよ。一緒に暮らすつもりなら、特にね」
「ま、まだそこまでは考えてません。リーザだって、僕みたいな貧乏人とは……」
 あたふたしたエリオットは筆を休め、床に散らばった手紙を拾い始めた。
「やれやれ。あれだけ好意を寄せていた女性なのに、そんなことを言っていいのかい? 本人が聞いたら悲しむと思うんだけどなあ」
「えっ! ち、違うんです。本当は一緒に暮らしたいけど、でも、リーザはどう思うか分からないし……。家はこんなに汚いしお金もないから余計に心配で……」
 シャセリオはくすっと笑った。
「こんなこと言ってるけど、どうしようか」
 それはエリオットに向けた言葉ではなかった。扉が開き、見覚えのある美しい少女が少し躊躇いがちに入って来た。
 せっかく拾い集めた手紙が、バラバラとエリオットの手の中から落ちていった。
「あなたさえいいって言ってくれたら、私はずっとここにいるのに」
「リーザ……」
 気づくとエリオットはその腕にリーザを抱いていた。人形ではない、リーザの体温を感じられるのが嬉しかった。
「よく戻って来たね……。待ってたよ」
「ずいぶんと長い間待たせてしまってごめんね。ただいま」
 エリオットとリーザは互いに顔を見合わせて笑った。
「でも、本当にいいのかい?」
「いいのよ。私がそう決めたの。それに、私はお金のことなんて気にしないわ。家だって、とっても素敵じゃない。部屋が汚いのなんて、私がいくらでもお掃除するわ」
 リーザの言葉に、傍で見ていたシャセリオが大笑いした。エリオットが恥ずかしくなったのは言うまでもない。
 するとリーザが、キャンバスに描かれた自分に気づいて言った。
「また私の絵を描いてくれたの? こんなに綺麗に……」
「君が帰ってくるまで描き続けようって思ったんだ。でも、これが最後の絵だね。絵の中の君より、本物の君の方がずっと美しいから」
「そんな……」
 リーザは謙遜してちょっと頬を赤らめた。
 そんな姿も可愛らしいなどと思っていると、エリオットはようやくあることに気づいた。
 リーザのドレスだった。
「全然違和感がなくて気づかなかったけど、そのドレスはセラさんが人形の為に作ったドレス……だよね?」
 フリルやレースが異常に多いピンクのドレスは、間違いなくセラが作ったものだった。
「リーザがいなくなってからずっと、セラが大きいサイズのドレスを作っていたんだ。いつかリーザが帰って来た時にあげるんだって言ってね」
 答えたのはシャセリオだった。
「君の家に来る前に、リーザはじいさんと一緒に私の店に来たんだよ。その時にセラがプレゼントしたんだ。なかなかよく似合うだろう? 街でも一際人目を引く傑作だ」
 シャセリオが言う通り多少目立つが、女の子なら誰でも一度は憧れるようなドレスだった。リーザの金髪にもよく似合う。
「よかったね、リーザ」
「うん。みんなエリオットのお陰なのよ。お父さんも……」
 リーザの言葉を遮って、誰かが家の扉をどんどん叩いた。
「おーい! いるんだろ? 開けろ」
 開けなくてもすぐに誰か予想がついた。エリオットが扉を開くと、やはりそこにはじいさんがいた。
「久しぶりだな。元気だったか?」
 この二年間で一番変わらなかったのはじいさんかもしれない、とエリオットは思った。もともと老け顔なせいか、老いた様子も全くなかった。
「おかえり、じいさん。僕は元気だけど、じいさんはもっと元気そうだね」
「馬鹿なこと言うな。メディアからどんだけ歩いたと思ってんだよ。こっちはくたくただぜ」
 ちっとも疲れた様子なんてないのに、じいさんはわざとらしく腰を叩いた。ものすごく似合わない姿であった。
「リーザのお父さんは? 一緒に来たんでしょ?」
「ああ、あいつは後から来るよ。まだやらなきゃいけないことがあるんだとさ。おっと、心配すんなって。嘘は言ってねえから」
 言葉には出さなかったが、エリオットはほっとしていた。もしかしたら来ないかもしれないとずっと思っていただけに、じいさんの報告は嬉しいものだった。
「お父さんね、エリオットにとても感謝していたわ。ありがとうって……」
「あいつ、あんなに怖がってた女王にも抗議してたんだぜ。おかげで女王も折れたよ。……お前があいつを変えたんだ」
「そう、なのかな」
 戦う力がなくて、本当に自分がリーザを守ることができたかどうかずっと疑問だった。でもじいさんにそう言われ、気持ちが楽になったような気がした。
「さあ、今夜はセラも呼んでパーティーにしないかい?」
 シャセリオが言うと、じいさんが指を鳴らした。
「おっ、いいねえ。酒も肉も用意しねえとな。よし、オレが街まで行って買ってくらあ。ついでに姉ちゃんも呼んでくるぜ」
「私もじいさんと一緒に行くよ。任せたら何を買ってこられるか心配だからね」
「お前、そんな細っこい腕で荷物なんて持てんのかよ」
 シャセリオに舌打ちするも、じいさんは何だか楽しそうだった。そう言えばじいさんは大騒ぎするのが好きだったな、なんて考えているうちに二人はエリオットとリーザに軽く手を振って出かけて行ってしまった。
「よし!」
 二人が出て行ってすぐ、リーザは部屋の隅に置いてあった箒を手にとった。
「さあエリオット。みんなが来る前にここを綺麗にしましょ」
 まるで自分の家のように勝手が分かるリーザは、実に手際よく散らかった物を片付け始めた。
「リーザ……君、すごいね」
「あら、全然すごくないわよ。人形だった時にあなたのことをずっと見てたから知ってるだけ」
「あ……」
 エリオットが固まっている間に、リーザは画材道具を整理し、行方不明だった片方の靴下を発見した。
「これからはずっと……ずっと一緒にいられるんだね」
 リーザは掃除をする手を止めた。
「もちろんよ。アリーシャじゃなく、リーザとして私はあなたと生きていくわ。あなたがくれた命……あなたがくれた名前……」
「今度は、幸せをあげる」
 綺麗になった家の窓辺には、あの人形の姿があった。もはやただの人形でしかなかったが、それはどんなに長い歳月がながれても、決して朽ち果てることはなかった。
 まるで、二人の愛のように。


 アポロンは気づいていた。運命が、誰にも予期せぬ方向へと動き始めたことを。
 アポロンは知っていた。いつかこうなってしまうことを。人間は、神が思っているよりもずっと賢く、残酷だった。
 竪琴を弾く手を休め、空を見上げる。
「エリオット、リーザ……。君たちのお父さんの努力を無駄にしたくない。だけど、一度は中断された魔法石の研究は、前よりも高度な技術で復活してしまった」
 アポロンは竪琴の代わりに、弓を手に取った。
「約束したね。君たちを守ると……。もう君たちはいないけど、その子共を守る義務だってあると思う」
 甲冑が月夜に輝き、アポロンの姿は見えなくなった。
おわり
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