
ラジエルの書第四十九巻―神と天使と人形― 3
「じいさん早くしてよ! もうすぐ日が暮れちゃうじゃないか」
大きな紙袋を両手に持ってもたもたしているじいさんに、エリオットは笑いながら言った。
「おい! おい、ちょっと待てエリオット。人に荷物持たせといてそりゃないぜ」
シャセリオに頼まれたものを探している時、ちょうど街でウロウロしていたじいさんを発見したエリオットは、問答無用で荷物係に任命したのだ。
「持ってくれるって言ったのはじいさんじゃないか」
「全部持つとは言ってねえよ! ったくよお……仕事以外でお前に会うといつもこうだ」
「だってじいさんが暇そうにしてるから……」
「あーもういい。オレは暇だったよ。ああ、暇だったさ!」
エリオットはじいさんの言葉を聞き流した。こんなふうにじいさんが自虐的になった時には、黙って放っておくのがいいのだ。
お使いを手伝ってくれたお礼に何をあげようかと考えながら歩いていると、向こうから男が一人走ってきた。
「どけっ!」
男は二人の間に割って入り、エリオットを押し倒した。
「うわっ」
エリオットは勢いよく尻もちをついた。じいさんはかろうじて男を避けたが、紙袋に入っていたリンゴが一つ、石畳の上に落ちて転がった。
「大丈夫かエリオット!」
「う……うん。なんとか」
二人が振り返った時には、すでに男の姿はなくなっていた。
じいさんがチッと舌打ちをする。
「あの人、シャセリオさんの店の方から走って来たよね?」
「ああ。しかも様子がただ事じゃなかったぜ」
一拍おいて、エリオットとじいさんはほぼ同時に走り出した。悪い予感が的中しないことを願いながら、全速力で駆けた。
荷物を持っていないぶん身軽なエリオットはじいさんよりも早く店の中へ飛び込んだ。
店の中は静かだった。ここだけ時間が止まったかのように、動くものは一つもなかった。
「シャセリオさん!」
エリオットはすぐに、血まみれで床に倒れているシャセリオを見つけた。そして、力ずくで抱き起こす。
「シャセリオさん! シャセリオさん!」
どうしていいか分からず、何度も名前を呼んでは揺さぶった。
「エリオット! 動かしちゃなんねえ。医者を呼んで来るから、そのままで待ってろ!」
じいさんはすぐに踵を返し、医者を呼ぶために街の方へ走って行った。
再び店の中は静寂に包まれ、動くものはエリオットだけになった。シャセリオはエリオットの腕の中でかすかに息をしていたが、顔からは血の気が引き、体は氷のように冷たかった。
シャセリオの血にまみれた手に触れた時、エリオットは全身の震えが止まらなくなった。
「死……」
死ぬのだろうか。このまま、シャセリオは死んでしまうのか……。
自分の両親のように……。
エリオットは激しく頭を横に振った。長い間封印していた記憶が蘇りそうになる。
「医者を連れて来たぞ!」
じいさんの声に、エリオットははっと我に返った。
「医……者?」
「オレが部屋へ運ぶ! さあエリオット。そこをどいてくれ」
言われるままに、エリオットはシャセリオをじいさんに託した。頭の中が真っ白で、何も考えることができなかった。
「すぐに見てくれ。一刻を争う」
「分かりました」
じいさんがシャセリオを抱きかかえ、医者と一緒に二階の部屋へ向かう。
「僕も……」
「駄目だ」
一緒に行く、と言いかけてじいさんに止められた。
「落ち着けエリオット。こいつは大丈夫だ。お前はセラを呼んで来い」
「う、うん」
「急いで呼んで来るんだぞ。行け」
エリオットは弾かれたように走り出した。落ち着けと言われたものの、気は動転していた。頭の中が真っ白なまま、ただひたすら走った。走っている間は何も考えずに済むような気がした。
やがてセラの店が見えてくると、エリオットは走る速度を緩め、呼吸を整えた。
店はすでに閉まっていたが、エリオットは力一杯扉を叩いた。
「セラさん、セラさん!」
何度か叫ぶうちに、カチャリと扉の鍵を外す音が聞こえた。そして出て来たのは使用人ではなく、セラだった。
「どうかなさいましたの?」
「シャセリオさんが大変なんです! すぐに来てください」
エリオットがそう言った瞬間、セラの表情が強張った。ただ事ではないことが、エリオットの様子から分かったのだろう。セラは黙って頷いた。
全ての治療が終わって夜中になっても、シャセリオは目を覚まさなかった。医者はすでに帰り、じいさんも店を後にしていた。
部屋にはセラとエリオットだけが残っていた。
帰り際にじいさんが言った。
「やれることは全てやった。あとは……祈ることくらいしかできねえよ」
ずっと泣いているセラを見て、エリオットもじいさんと同じことを思った。そして、自分の無力さを思い知らされた。
「お兄様……どうして目を開けてくれないの?」
セラは動かないシャセリオの手をぎゅっと握った。
「私……お兄様のことは嫌いよ……。でも、死んで欲しくない」
セラの肩が小さく震えた。
「嘘……嘘よ。嫌いなんかじゃない。大好きなの、お兄様。だから死なないで!」
「セラさん……」
慰めの言葉なんて、出てこなかった。エリオットの思考回路は止まったままで、今自分が何をすべきなのか分からなくなっていた。
ここにいても無意味なのだろうか。
泣きじゃくるセラに背を向け、エリオットは静かに部屋を出た。足元に気をつけながら階段を下り、店を出る。
エリオットは真っ暗な夜道を一人、とぼとぼと歩き始めた。
どこへ行くかは分からない。行き先は自分の足任せであった。
街を出て、自分の家とは反対方向の小道を辿る。いつもは真っ暗なはずのその場所に、今日は光が灯っていた。祭壇のそばに置かれた松明の炎であった。
エリオットが無意識に足を運んだ場所。そこは、アポロンの神殿であった。
祭壇の前に跪き、エリオットは胸の前で手を合わせた。
「アポロン様……。僕の願いをどうか聞いてください」
昔から困ったことがあると、エリオットは必ずここへ来てこうして祈った。そして、一度も姿を見たことのない神を心の中で思い描いていた。
「シャセリオさんを助けてください。僕から……セラさんから……シャセリオさんを奪わないでください!」
固く目を閉じ、唇をきつく噛み締めた。
「シャセリオさんを、助けて……」
どのくらい時間が経っただろうか。エリオットはふと目を開け、同時に顔を上げた。
「あっ……」
「やっと気づいたね。このまま朝になったらどうしようかと思ったよ」
誰かが、祭壇の上に腰掛けていた。
「今日は君が来ると思って、明かりをつけておいたんだ」
美しい金髪が夜風に揺れる。人間とは思えない美しい相貌が、祭壇の上からエリオットを見下ろしていた。
「ああ、そんなに驚かないで。私が誰か分かるかい?」
エリオットは目を見開いたまま、こくりと頷いた。
「アポロン……様?」
「そう。会うのはこれが初めてだね。エリオット」
戸惑うエリオットを前に、アポロンはクスッと笑った。
生まれて初めて神を見たエリオットは、喜びよりも恐怖を感じていた。そんなエリオットの心を見透かしたようにアポロンが言う。
「怖がらなくてもいい。私は君を助けに来たのだから」
アポロンは祭壇から下り、優しくエリオットの両手を取った。その手はとても暖かく、夜風で冷えたエリオットの体全体を温めてくれるような気がした。
「こんなに冷たくなって……。辛かったろう?もう、我慢しなくていいよ。泣いてもいいんだよ」
堰を切ったように、エリオットの目から次々と大粒の涙がこぼれた。そんなエリオットに、アポロンは優しく言った。
「自分が泣くのを我慢して他人を気遣い、ずっと私に祈りを捧げていたんだね。君は強い子だ」
「僕は……」
エリオットは嗚咽を漏らしながら言う。
「僕は強くなんてありません。何もできなくて……。シャセリオさんを助けてあげられなくて、セラさんを励ますこともできなくて……!」
咽び泣くエリオットの頭を、アポロンは髪の毛がくしゃくしゃになるまで撫でた。
「武器を持って戦うことだけが強さの証ではない。君のように自分を犠牲にして、大切な人のために祈ることができる人もまた強いのだよ。誰にでもできることじゃない。私はそれをよく知っている」
「でも……」
エリオットが言いかけると、アポロンは自分の人差し指をそっとエリオットの唇に押し当てた。
「聞いて、エリオット。今までたくさんの人間がここへ来て、いろんな祈りを捧げていった。だけど私は、君ほど熱心に自分以外の誰かの幸せを祈っている人は見たことがない。自分の心が折れそうになっても必死に祈り続ける人を、私は君以外に知らない」
アポロンはすっと立ち上がって、街の方角を見た。
「君の願いは聞いた。助けてあげる……。君の大切な人を」
「どうして……。どうして僕を助けてくれるんですか」
「それはね……」
アポロンはエリオットの方に向き直る。真っ直ぐエリオットを見据えた瞳は、どこか人間の子供のような無邪気さがあった。
「君のお父さんとお母さんの願いだからだよ」
「え?」
これ以上は内緒だというように、アポロンは肩をすくめた。
「さて、私は行くよ。君の大切な人を起こしてあげなくちゃ。君も一緒に来るかい?」
「えっと……」
本当は一緒に行きたいと思ったが、エリオットはずっとシャセリオに付き添っていたセラのことを思い出した。
「僕は夜が明けてから行きます。シャセリオさんのことを心配してるのは僕だけじゃないから」
「わかった。では、また会おうエリオット」
そう言うとアポロンは、眩い光に包まれその姿を消した。エリオットはまるで夢でも見ていたかのように、呆然と立ち尽くしていた。松明の燃える音だけが、辺りに響いていた。
「おいおい……冗談じゃねえぞ」
エリオットが神殿へ向かったのとちょうど同じ頃、じいさんはグロムナート城の図書館にいた。夜中にこそこそ忍び込まなければいけなかったのは、ここが一般人立ち入り禁止の場所だったからだ。じいさんは右手に持っていた短刀と、本に描かれている似たような形の短刀を、何度も何度も見比べた。
「やっぱり間違いねえ。こいつはメディア王国の魔女達が作ったものだ。魔法で鍛えられてやがる」
メディア王国は、ここより遥か北の大地にある小さな国だ。そこを治めているのは、代々力のある魔女だと聞いている。
「この短刀は人を斬るもんじゃねえ。魔法を断ち切るものだ。どうりでシャセリオが無事だったわけだ」
じいさんは本を元の場所に戻し、誰にも見つからずに図書館を出た。長居をすれば、誰かに勘付かれる危険がある。
早足で城の敷地を出て街へ戻る。じいさんはずっと考えていた。
「シャセリオを襲ったのはメディア王国の連中か? それにしても、何のために……。シャセリオに特別な魔法の力があるとは思えねえしなあ……」
メディア王国は世界中でも一、二を争う魔法国家だ。それゆえに魔法の研究が盛んに行われているが、悪く言えば魔法以外のことには関心がない。そんな彼らが何の力も持たないシャセリオを殺そうとしたなんて、どう考えてもおかしい。
「なんだ……奴ら、何が目的だ?」
考えながら、じいさんはふと足を止めた。
「オレの正体を突き止めたか? いや……まさかな。今までにアレを見られた連中は全て殺してある。その可能性は、ない。とにかく、あの怪しい男をとっ捕まえて全部吐かせてやらあ……。なあ、お前も許せねえだろ? オレらのダチを傷つけた奴をよお」
じいさんは後ろを振り返ってそう言ったが、そこには誰の姿もない。あるとすれば、じいさんがいつも持ち歩いている背嚢。呪いの人形が入った、背嚢だけだった。
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