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ラジエルの書第四十九巻―神と天使と人形―  2

「さあ、遠慮しないで食べなさい」
「い、いただきます!」
 テーブルにはシャセリオが拵えてくれたパンとスープ、そして少しの果物が並んでいた。
 シャセリオはエリオットより売れている画家だったが、決して裕福ではなかった。それなのに彼はいつもこうしてエリオットの世話を焼いてくれていた。
「まったく……。お腹が空いたらここへ来て、いくらでも食べていいといつも言っているのに」
 自分もパンをかじりながら、シャセリオが言う。
「でも……」
 エリオットは果物を取ろうとして伸ばした腕をさっと引っ込めた。
「なんだか申し訳ないんです……。昔からこうしてお世話になっているのに、何のお礼もできなくて。絵も全然売れないし、僕は……」
 俯くエリオットに、シャセリオは黙ってテーブルの上にあったリンゴを差し出した。
「食べなさい、エリオット」
 言われるがままにリンゴを受け取り、一口かじる。それを見たシャセリオは、満足そうに微笑んだ。
「今までさんざん私の世話になっておいて、今さらそれはないんじゃないかいエリオット。君はもう我が子同然なんだ。困った時は頼って欲しいな。十二年も一緒に生きてきたんだからさ」
「十二年……もう、そんなに経ちますか」
 職人通りに店を構える他の職人たちの間では有名な話だが、シャセリオは十二年前、身寄りのない小さな子供を拾ってきた。当時はシャセリオ自身、その日のパンを買うのもやっとな生活をしていた。それなのに、身寄りのない子供まで拾ってくるなんてあいつは馬鹿だと周りは嘲笑したが、シャセリオはその子供を立派に育て上げた。それが、エリオットだった。
「二年前、君が二十歳になってあの湖畔の家へ戻ると言った時、こうなることは予想できなくもなかったけどね。エリオット……私に恩返しをしようなんて、考えなくてもいいんだよ。遠慮だってしなくていい。ここは君の家。私は君の家族なんだから」
 エリオットは食べかけのリンゴを握り締め、何も言えずに黙って頷いた。迷惑をかけまいと思っていたが、その想いとは裏腹に、恩人であり親代わりでもあるシャセリオを困らせていたことに気づいたのだった。
「セラももう少し君のように素直だったらよかったんだけどね」
 シャセリオは頬杖をつき、苦笑交じりに言った。
「そういえば、セラさんに嫌われてるって……」
「そう。嫌われる心当たりがありすぎて困ってしまうよ」
 肩をすくめて自嘲的に笑ったシャセリオだったが、その瞳は悲しみの色で満ちていた。
 長い黒髪を掻き揚げ、まるで懺悔でもするかのようにシャセリオは話し始めた。
「私とセラが生まれた家は、とても貧乏だった。父も母も一生懸命に働いていたけど、生活はちっとも楽にならなかった。食べるものは少なく、着るものも十分ではなかったから、冬は寒さに凍えることもあった」
 十二年という長い付き合いの中で、シャセリオが自分の生い立ちを話してくれたのは初めてだった。
「でも、私はそれが不幸だとは思わなかった。貧しくても、父がいて母がいて妹がいた。家族がいるだけで幸せだと思っていた。だけどセラは違った。彼女はこの貧しい暮らしが大嫌いだった。お金持ちになりたい、とそれがセラの口癖だったね」
「セラさんは今、お金持ちです。夢を……叶えたんじゃないですか?」
「そうだよ。セラは十五の時にその腕一つを頼りに、国で一番有名な衣装室に働きに出た。そして努力して、今の店を手に入れたんだ。そんな彼女にとったら、特に努力もしないで貧乏暮らしを続けている兄が恥だと思われても仕方がない。だからセラは私を避けている。実はここ数年、ほとんどお互いを訪ねて行ったことがなかったんだ」
 シャセリオはどこか遠くを見ながらそう言った。言葉にはしなかったが、セラをあんなふうにしてしまったのは自分のせいだと言っているようにも聞こえた。
「セラさんは本当にシャセリオさんのことが嫌いなのかな」
「嫌いじゃない方がおかしいさ」
 この話が終わるまで、シャセリオは終始笑顔だったが、それは、エリオットが一番嫌いなシャセリオの笑顔であった。

 セラに人形を預けてから一週間ほどが経った。その間エリオットは街へも行かず、家にこもって絵を描いていた。どうしても描きたいものがあったのだ。しかし、被写体を実際に見たことがないエリオットは、なかなか思い通りの絵が描けなく落胆していた。
「あー、もう駄目だ」
 仕舞には筆を置き、ベッドに身を投げ出してしまった。だがエリオットはすぐに身を起こし、ぼんやりする頭で考えた。
「僕がセラさんに人形預けたの、いつだっけ……」
 指折り数えてようやく気づいた。今日で七日目だ。
 エリオットは慌しく外出の用意をし、コートを羽織って家を飛び出した。
 走りに走って職人通りまでさしかかった時、向こうからじいさんがやって来るのが見えた。
「じいさん!」
「おー、エリオットじゃねえか。久しぶりだな」
 じいさんはいつものように人形を売っていたらしく、背嚢から気味悪い人形がはみ出して見えていた。
「お前がくれた金でよう、肉、食ったんだ。ありがとな。肉は食っちまったけど酒はあるんだ。今度一杯やろうぜ」
 エリオットが急ぐ様子を見せるが、じいさんはお構いなく話を続ける。
「そういやお前、人形はどうしたんだよ」
「新しいドレスを作ってもらうために、シャセリオさんの妹のセラさんに預けたよ」
 エリオットは待ってましたとばかりに口を開いた。
「シャセリオ? ああ、あの優男か。あいつ、妹がいたのか?」
「うん。この前僕の絵を買ってくれた女の人だよ」
「あの姉ちゃんが? ふうん……」
「そろそろドレスができる頃かと思ってさ!じいさんも一緒に店に行くかい?」
「別に用事もねえしなあ。行くか」
 暇を持て余していたじいさんを連れ、エリオットはシャセリオの店へ行った。
 中に入ると、カウンターの奥でシャセリオが珍しく絵を描いていた。二人に気づいたシャセリオはすぐに手を止め、作業用のエプロンを外してこちらにやって来た。
「やあ、エリオット。今日はおじいさんも一緒かい」
 笑顔で言ったシャセリオに、じいさんは喧嘩口調で答えた。
「シャセリオてめえ……オレといくつも違わねえくせに、人のことをじじい呼ばわりするのはやめろ」
「ああ、悪い。つい癖で」
 謝りながらもシャセリオは笑っていた。二人のこの会話はいつものことなので、エリオットもさして気にしなかった。それよりも人形のことが気になって仕方がない。
 だが、シャセリオはちょっと困った顔をして首を横に振った。
「それが、まだ来ていないんだ。私もずっと待っているんだけどね」
「セラさん、忙しいんでしょうか……」
 エリオットがぽつりと呟いたその時、店の扉が勢いよく開いた。
「あら。皆さんお揃いなの?」
 入って来たのは、派手な帽子を被り、日傘を手に持ったセラだった。日に当たるのがよっぽど嫌なのか、今日は袖の長いドレスを着ている。
「ちょうどよかったわ。はい、これ」
 セラはエリオットとじいさんには目もくれず、片腕に抱いた人形をシャセリオに差し出した。
 新しいドレスのせいだろうか。人形は以前よりずっと美しく見えた。
「わあ……とっても綺麗!」
 エリオットが褒めると、セラはぴしゃりと言い放った。
「当たり前ですわ。どれだけ時間がかかったと思って?」
 長い時間をかけて丁寧に作られたドレスはピンクを基調としており、やはりこれはセラの趣味なのか、かなり派手だった。いたるところにフリルがついており、小さいが宝石も一つ一つ几帳面に縫い付けていた。
「どこかのお姫様みたいだね」
 シャセリオは人差し指で人形の小さな頬に触れた。
 ずっと人形を見ていたエリオットは、その時人形が少し困ったように微笑んだ気がしたが、目の錯覚だろうとすぐに忘れた。
「ちょっと見せてみな」
 セラとエリオットの間を割って、じいさんが人形を手に取った。
「ったく、おめえら三人してこんな気味悪い人形をちやほやと……」
「あら、あなたにはこの人形……というかドレスの素晴らしさが分からなくって?」
 セラは偉そうに腕組みをしながら言った。
「ドレスが悪いとは言ってねえよ」
「私にはそう聞こえましたわ」
 子供のように怒るセラを見て、シャセリオはちょっと肩をすくめて苦笑した。
「もう、じいさん!」
 エリオットはじいさんの手から人形を取り上げた。
「せっかくセラさんが綺麗なドレスを作ってくれたんだから、気持ち悪いとか言わないでよ」
「わーかった。分かったよ。悪かった」
 じいさんが謝ると、セラはふん、と鼻を鳴らし、三人に背を向けた。そして扉の所まで来て振り返り、
「エリオットさん。報酬のこと、お忘れにならないでね」
 と早口で言い、さっさと店を出て行ってしまった。
「シャセリオ……お前の妹とは思えないぜ」
 シャセリオは返す言葉がなく、ただ苦笑するだけだった。

「リーザ」
 エリオットは人形のことをそう呼んだ。そして、ことあるごとにしきりに話しかけた。頭がおかしくなった訳ではなく、エリオットなりの愛情表現だったのだ。
「今から君の絵を描くよ」
 リーザを窓際に座らせると、無表情だった口元が少し綻んだ。
 それに気づいたエリオットは、すぐにリーザの顔を覗き込み、尋ねた。
「君は春の野原が好きかい?」
 リーザは笑った。
「本を読むのは好き?」
 また、リーザは笑った。
「そのドレスは?」
 今度はすこし間をおいてから、笑った。
 それを確認すると、すぐにエリオットはキャンバスと向かい合った。
 今なら描ける気がしたのだ。長い間胸の奥で眠っていたあの美しい生き物……。
 天使は目の前にいた。

 シャセリオは小さな美術品店を経営していたが、毎日忙しい訳ではなかった。最近は暇を利用して店の奥で絵を描いていた。
 この日、一週間描き続けてきた絵がようやく完成した。シャセリオは完成した絵に大きな布を被せた。
 ちょうどその時、誰かが店に入って来た。いつもと違ってその人は落ち着いていた。
「私が来たら迷惑って顔してますわね」
「そんなことない」
「……嘘つき」
 セラがいつものように悪態をついても、シャセリオは笑ったり、からかったりしなかった。
 しばらく沈黙が続いたが、セラが思い切ったように言った。
「ねぇ、今晩は空いてますの?」
「もちろん」
 セラが言いたいことを悟ったシャセリオは思わず笑みがこぼれた。
「ここでいいかい?」
「狭いけど、いいですわ」
「ご馳走も用意できないけど……」
「気にしませんわ! じゃあ、また今夜来ます」
 セラは逃げるように後ろ手で扉を開けたが、この前のように背を向けることはなかった。
「セラ」
 呼び止めると、なぜか恥ずかしそうに顔を上げた。
「な、な、なんですの?」
「待ってる……」
「え?」
「待ってるから、ずっと」
 セラは顔を真っ赤にしてぴしゃりと扉を閉めた。
 再び静かになった店の中で、シャセリオは嬉しそうに呟いた。
「珍しいな。あの子が夕食に誘ってくれるなんて」
 その時に自分の本当の気持ちを話そうと、一人心に決めていた。

「出来た! 完成だよリーザ!」
 気がつくと太陽が西に傾きはじめる時刻。エリオットは昨日の夕方からずっと、寝食も忘れてこの人形の絵を描いていたので丸一日が過ぎていた。
「ほら、これが君だよ。綺麗だろ?」
 リーザは特に表情を変えることはなかった。しかし、今のエリオットには気にならなかった。
「ちょっと出かけてくるから、そこで待っててね!」
 人形だから動けるはずもないのだが、そう言ってから、エリオットはキャンバスを抱えてシャセリオの店へ走った。一晩寝ていないとは思えないほど元気であった。
 途中、セラとすれ違ったのだが、興奮状態のエリオットは全くそれに気がつかなかった。
「シャセリオさん、これ見てください!」
 店に入るなりエリオットは、息を切らせながらキャンバスをカウンターの上に置いた。
 シャセリオは驚いたが、とりあえず何も言わずにその絵を見た。
 そして、思わずシャセリオは息を呑んだ。
 そこには、春の野の陽だまりの中に座り、本を読む少女がいた。周りは美しい花畑。そして、一際シャセリオの目を引いたのは、少女の背に生えた白い翼だった。
「美しい……私は今までこんな美しい絵を見たことがない」
 シャセリオは弟子と絵を交互に見ながら言った。
「君はよほどあの人形が気に入ったみたいだね」
「あの人形がもし本当の人間だったら、こんなふうに本を読んだりするのかなって思ったんです」
 エリオットは満面の笑みを浮かべた。
 幸せそうなエリオットを見て、シャセリオはクスッと笑った。
「恋したんだね」
「こ、恋?」
 エリオットは大きく首を横に振った。
「そんなんじゃありません! 僕はただ、リーザ……じゃなくて、人形が綺麗だから……」
「リーザと言うんだ。いい名だね」
「シャセリオさんっ!」
 恥ずかしがるエリオットをからかうのはシャセリオの楽しみの一つだった。すぐ感情が顔に出る様子は、セラと似ているところがあって面白かったのだ。
「この絵はセラにあげるのかい?」
「もちろんです。約束ですから」
「そうか……」
 するとシャセリオは店の奥へ行って、何枚かの銀貨を持ってきて言った。
「今夜セラがここへ来るんだ。絵はその時に渡すといい。その間、おつかいを頼まれてくれないかな?」
「いいですよ! 何を買ってくればいいんですか?」
「……ミートパイ。お金が余ったら、適当な果物も頼むよ」
「了解しました!」
 シャセリオからお金を受け取ると、すぐにエリオットは街へ駆け出して行った。
 昔はよくこうしておつかいを頼んだことを思い出し、懐かしく思った。
「それにしてもいい絵だ」
 シャセリオはもう一度その絵をじっくり見た。今までのエリオットの絵にはなかった、人を惹きつける魅力がそこにはあった。
 セラがここへ来た時真っ先に目に入るよう、シャセリオは店の一番目立つ場所に絵を飾った。
 そして店の中を少し整理しようと思い、カウンターの外へ出た。
 無造作に散らかったキャンバスを拾い集め、一ヶ所に整頓していく。その中にはエリオットが描いた絵もいくつかあった。
「やれやれ……。やっぱり掃除は定期的にやらなきゃ駄目だね」
 ふっと一息ついた時、また誰かが店に入ってきた。エリオットが帰って来たのかと思ったが、それにしては早すぎた。
 振り返って見てみると見知らぬ男が一人、そこに立っていた。
「すみませんねお客さん。今、ちょっと散らかってるんです。すぐに片づけますから」
 男はシャセリオの方を見向きもせずに、ただある一点をじっと見つめていた。
 エリオットが描いた、リーザの絵だった。
「その絵、気に入りましたか? 弟子が描いたんですけど、これには驚きましたよ」
 シャセリオが話しかけても、男は全く返事をしなかった。風変わりな客もいるものだと思い、シャセリオはそのまま掃除を続けようとした。
「どこで……この少女……」
 男が呟く。
「娘を……」
 男は憎悪に満ちた瞳でシャセリオを見た。
「この絵がどうかしましたか?」
 シャセリオはなるべく笑顔を保とうと努力していたが、嫌な汗が首筋を伝うのを感じた。
「この絵を描いたのはどこのどいつだ!」
 叫びながら、男は数歩シャセリオに近づいた。
「……弟子ですよ」
「そいつは誰だ!」
「それは……」
 シャセリオが答えに窮すると、頭に血が上った男は懐から短刀を取り出した。
「言え……」
 男は短刀をシャセリオに突きつけ、低い声で言った。しかし、シャセリオは恐怖を押し殺し、凛とした口調で答えた。
「お前に教えることなど何もない。ここから出て行ってくれ!」
 その瞬間、目の前から男の姿が消えた。
「……っ!」
 下腹部に強烈な痛みを感じ手をやると、硬い短刀の柄がそこにあった。
 一瞬死を悟ったが、自分の命などどうでもよい。ただ、今エリオットがここに帰って来ないことを必死に願った。
「お前のせいで……お前のせいで……」
 男は後ずさりながら、震える声で言った。
「お前が悪いんだ……。お前さえ、お前さえいなければ、娘は……」
 シャセリオには男の言葉の意味が分からなかった。心当たりはない。あるはずがない。シャセリオとこの男は、初対面であるはずだった。
「な……ぜ」
 擦れる声でシャセリオが尋ねると、男は憤慨した。
「とぼけるな! 全部分かってるんだ……お前のせいだってことをな!」
 今にも意識を失いそうなシャセリオは、これ以上反論する力がなかった。呼吸をするのも辛く、最後の力で弱々しく首を横に振った。違う、と。
 だが男に伝わる訳がない。
「死ね」
 薄れていく意識の中、男が去って行くのをどうすることもできずにただ見ていた。何が起こったのか、状況を理解できなかった。
「セ……ラ」
 ただ、一つだけ分かった。
 どうやら約束は守ってあげられないみたいだ、と。
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