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ラジエルの書第四十巻―糸を紡ぐ娘―

一人の少女が地上の暗い森の中で、人間の命の糸を紡いでいた。
 彼女の名はクロト。神々の王ゼウスの娘である運命の女神モイライたちの一人だった。
 天界にいる姉たちは滅多にクロトのもとを訪れることはないが、三人は仲の良い女神と有名であった。

 今日もクロトは糸を紡いでいた。毎日毎日繰り返される生と死を、彼女はこの運命の糸を通して見ていた。
 クロトは姉のアトロポスの持ち物である漆黒の鋏で、一本の糸を断ち切った。長姉ラケシスが定めたその人の死の日が今日だったからである。つまり、この鋏で糸を切られた人間は、死ぬのである。そうして、またそこには新しい糸が紡がれていくのだ。
 あとは魔法の糸車に任せておけば、糸が紡がれていくだろう。
 クロトは漆黒の鋏を糸車の傍に置いた。
 今までこの糸を切ることにも、新しい糸が紡がれていくことにも、何の感慨もわいたことがない。それが運命の女神であるクロトの仕事だったから。
 一通り仕事が済むと、クロトは木でできた籠を片手に外へ出た。
 クロトの住んでいる森は、太陽の光がとどかない暗い森。
色のない植物ばかりが生い茂るその森に、一ヶ所だけクロトのお気に入りの場所がある。それは、野苺畑。日の当たらないこの場所に、鮮やかな赤色の野苺があるのはとても不思議なことだった。
 クロトが夢中になって野苺を摘んでいると、背後で人の足音が聞こえた。
「誰かいるの?」
 振り返ると、そこには一人の男が立っていた。立っていた、と言うよりは木にもたれかかっていたと言ったほうが正しい。
 男は甲冑を身に纏っていて一目で戦士だということがわかったが、その腰に下がっている鞘は剣を失っていた。
 苦痛に歪んだ顔で何か言いたそうに口を開きかけたと思ったら、男はその場にどさりと倒れて動かなくなった。
 クロトはびっくり仰天し、手に持っていた籠を放り出して男のもとに駆け寄った。
「大丈夫ですか? しっかりしてください!」
 男を抱き起こそうとして体に触れた時、クロトははっとして自分の手についた真っ赤な液体を見た。
「血が……」
 少し触れただけで手のひらを真っ赤に染めてしまうほど酷い出血だった。
 早くしないと死んでしまう。
 クロトはありったけの力を振り絞り、男を自分の背に担いだ。それでも完全に背に担ぐことはできず、男の足は地面を引きずる格好になってしまった。
 クロトはなんとか歩き出し、放り出した籠のことも忘れて一心不乱に家を目指して進んで行く。傷が痛むのか、男は時々苦しそうにうめいた。

 男が再び目を覚ましたのはその日の夜中だった。クロトの懸命な看病のおかげで出血は止まったが、いまだに痛みは治まらないようで、その顔は苦痛に歪んだままだった。
「具合はどうですか?まだ痛みますか?」
 クロトの問いに、男は小さく頷いた。
「あ……りがとう。お嬢さん……」
 途切れ途切れにそう言い、男は少しだけ微笑んだ。
 クロトはベッドに横たわる男の手を優しく握った。
「私はクロトよ。あなたは?」
 男も弱々しくクロトの手を握り返した。
「……アドニス」
 今にも消えてしまいそうなほど小さな声で答えると、アドニスは再び目を閉じて動かなくなった。この手の温もりがなければ、死んでいるのと勘違いをしてしまうほどであった。
 「どうか彼の傷が治りますように……」

 しかし、次の日になってもアドニスは目を覚まさなかった。
 自分一人の力ではどうにもできないと思ったクロトは、天界から二人の姉たちを呼ぶことにした。
「クロト……残念だけど、この人はもう助からないわ」
 アドニスの様子を見た長姉ラケシスは、困ったように首を横に振った。
「この人……アドニスの命の糸は、今日切らなければいけません。わかるわね、クロト」
 クロトを諭すようにラケシスは言った。二番目の姉アトロポスも続けて言う。
「きっと、戦でこんな酷い傷を負ってしまったのね……。かわいそうだけど、苦しむのはここで終わりにしてあげましょう」
 俯くクロトに、アトロポスは漆黒の鋏を差し出した。
 何も言わずにそれを受け取ったクロトは、眠っているアドニスを見た。
 彼は生きている……。
「お姉様……。ア、アドニスの糸は私が……。だから、今日のところはお引き取りください。わざわざ来てくださってありがとうございました」
 姉たちは一度ずつクロトに抱擁し、天界へと帰って行った。
 残されたクロトは、アドニスの命の糸の前に立った。手には漆黒の鋏が握られている。
―苦しむのはここで終わりにしてあげましょう―
 アトロポスの言葉が脳裏をよぎる。
 彼女の言う通りかもしれない。これ以上この傷で苦しみ続けるより、いっそこの糸を切って楽になればいいのかもしれない。でも……本当にそうなのか? アドニスは死を望んでいるのだろうか?死なせてやるのが、彼にとって幸せなことなのだろうか?
 クロトにはそう思えなかった。アドニスが死ぬことを望んでいるなんて……。それよりも、クロト自身がアドニスに生きていて欲しかった。
 この抑えきれない感情をなんと呼んだらいいのだろう。
「ごめんなさいお姉様……。私、この人に生きていてほしい」
 クロトは糸を切らなかった。そして、魔法の糸車に任せることなく、自分の手で糸を紡いだ。
 この時初めて、人間の命の糸を紡ぐことの重さを知った。

「……ロト、クロト!」
 夢かと思った。
 クロトが重い目蓋を開くと、そこには元気になったアドニス。前の晩、看病に疲れ果てたクロトはアドニスのベッドのそばで眠ってしまっていたらしい。
「クロト、君のおかげで傷がすっかりよくなったよ。・・・ありがとう」
 アドニスの顔は笑顔に満ちていた。
(これでよかったんだ……)
 やっぱりアドニスは死ぬことなんて望んでいなかった。まだ少し顔色が優れないようだか、数日もすればすっかりよくなるだろう。
「あ!」
 ほっとしたのも束の間、クロトは急に森に放り出したままだった籠のことを思い出した。
「ど、どうしたんだい?」
「私、あなたを助けた時に森に忘れ物をして……取ってこなくちゃ!」
 大して大切なものでもないのに、なぜかクロトは焦っていた。
 慌てて外へ出ようとするクロト。すると、アドニスがゆったりとした口調でそれを引き止めた。
「待って。僕も行くよ」
「え、でも……」
「大丈夫。どこも痛くないし、気分もいいから」
 クロトが答える前に、アドニスはさっさと自分の荷物の中から着替えを取り出した。着ていた服は血まみれだったのだ。
「僕の荷物まで運んでくれたんだね。・・・重かっただろう?」
「そのくらい、なんでもありません。あなたが生きていて、よかったです……」
 最後のほうはアドニスには聞こえないくらい小さな声で呟いた。
 アドニスの支度が済むと、二人は暗い森の中を歩き出した。
生き物の気配がしない寂しい場所だったが、今の二人には気にならなかった。
 やがて二人は初めて出会った野苺畑までやってきた。
「あ、あったわ!」
 クロトはすぐに籠を見つけ走り出した。その後をアドニスがゆっくりと追って行く。
「探し物って、それ?」
「ええ。あの時、野苺を摘んでいたのよ」
「そうか……。ここで君に助けられたんだね」
「そう。急に倒れるからびっくりしたわ!」
 話しながら、二人はアドニスが倒れていた場所に立っている木のそばに座った。
 アドニスが空を見ようと顔を上げたが、青空は見えなかった。
 気づけばクロトは、アドニスの横顔ばかりをじっと見つめていた。出会ったときから思っていたが、アドニスはクロトが今まで出会った男性の中でもとりわけ美しかった。それは、美男揃いの神々にも引けをとらないほどであった。
 不意にアドニスがこちらを向いたので、恥ずかしくなったクロトは慌ててアドニスから顔をそらした。
「あ、あなたはどうしてここに来たの?どうしてあんな酷い怪我を?」
「僕は……」
 クロトの質問に少し戸惑いながらも、アドニスは答えた。
「僕は小さな国の戦士だった。でも、戦が嫌でね。逃げ出したんだ。死にたくなかったから……。そしたら、そこを敵に見つかって攻撃されてしまった。なんとかここまで逃げてきたけれど、君が助けてくれなかったら死んでいただろうね」
 アドニスは左手でクロトの右手を包んだ。
「感謝している……」
 クロトは、自分の右手がピリピリと痛むのを感じた。
「クロト……僕は、君のことが好きになってしまったみたいだ」
 照れ臭そうにそう言ったアドニスに、クロトは何も返事をすることができなかった。顔が異様にほてって熱かった。
 アドニスの言う「好き」が、姉たちがいつもクロトに言う「好き」とは違うことはわかっていた。しかし、それをなんと表現すればいいのかがわからない。愛しい人に言うべき言葉が言えなかった。

 クロトがアドニスの命の糸を切らなかったことが父ゼウスに知れたのは、それから数日後のことであった。
 ゼウスはすぐにクロトを天界に呼び、その怒りをあらわにした。
「お前は死ぬはずだった人間を生かしたな?それはこの世界の秩序を乱す重罪だ。わかっているだろう。なぜ糸を切らなかった?」
「わ、わかりません……」
 クロトは泣きたいのを我慢して答えた。
「アドニスが……その人間が生きたいと願っていると思ったんです」
「死の運命を突きつけられても、生きたいと願う人間はたくさんいる。その人間だけが特別ではない」
「彼は特別です!」
 さっきまで泣きそうだったクロトは拳を握り締めて叫んだ。
驚いたゼウスは、次の言葉が出てこなかった。
「アドニスは、私のことが好きだと言ってくれました。あ、愛してくれたんです」
 クロトはようやく探していた言葉を見つけ出した。そう、アドニスはクロトを愛している。そして、クロトはアドニスを愛している。これは十分に特別なことだった。
 しかし、ゼウスの表情は厳しいままだった。
「……お前の気持ちはわかる。だが、アドニスを生かしておけば次の命が生まれてくることができない。今日、私がアドニスの命の糸を断ち切ろう。お前には……」
 ゼウスはこれ以上見ているのは辛いというように、クロトから目をそらした。
「愛する者を失うという罰を与えよう」
「そ、そんな……酷いわ!酷いわ、お父様!」
「黙れ!アドニスを苦しめずに死なせてやるだけ、ありがたいと思え。お前にできることはもう……何もない」
 そう言うと、ゼウスは手に持っていた漆黒の鋏で簡単にアドニスの命の糸を断ち切ってしまった。
「アドニス……」
 クロトは全身から力が抜けていくのがわかった。頭が真っ白になり、父の顔を見ることもできなかった。
「……許せクロト」

 アドニスは野苺畑の真ん中に横たわっていた。
 クロトの代わりに集めていたのだろう。そばには、野苺がたくさん入った籠があった。
 さきほど急に体が重く感じられたアドニスは、座っていることもできなくて地面に仰向けに倒れたところであった。
 一瞬、暗い森の中に光が差したような気がした。
「……泣いているのかい?」
 アドニスは言った。
「大丈夫だよ。少し……眠いだけ。だから、泣かないで」
 返事はない。
 そのかわり、クロトの細い腕がアドニスを抱いた。
 アドニスはうっすらと目を細めるように開いて、クロトに言った。
「もう少ししたら起こしてね。一緒に帰ろう……」
「……うん」
「苺……たくさんとったから」
「……うん」
「一緒に食べようね」
「……うん」
 アドニスは少しだけ微笑んで、再び目を閉じた。
 後から後から、涙がクロトの頬を撫でていった。
 クロトは、アドニスの手に自分の手をそっと重ねた。あの日……アドニスを助けた記憶が鮮明に蘇る。アドニスを助けようと必死になっていた自分。でも今は、彼を死の淵から救い出す術はなかった。
「アドニス……あなたを愛してるわ」
 冷たくなったその唇に、クロトが口付けした時には涙はすっかり枯れ果てていた。
 そして、アドニスは二度と目を開くことはなかった。





 もしもあなたがその森を訪れたなら、美しい野苺畑の真ん中に、大きな一本の木を見つけることができるでしょう。
 生きることに疲れたら、その木のそばに座ってごらんなさい。そこは……。
 おわり
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