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ラジエルの書第三十巻―北の国の王―  8

 パンドル伯爵が帰国命令を出してから、屋敷の中は急に慌ただしくなった。様々な場所で働いていた者たちが帰国のために戻ってきて、屋敷はここへ来たばかりの頃のように賑やかになったのだ。
 その中には、来てすぐにヒューエルに歯を抜かれたあの団員がいた。彼は馬の調教師だったが、医療を学ぶ者たちに混じり、自分もちゃっかり医学を勉強していた。
「オレ、いつか王様の歯を抜いてやるんだ」
 それを聞いた友人が苦笑する。
「……無理だと思うよ」
 二人は顔を見合わせ、「だよね……」と、がっくり肩を落としたのだった。

 一方ヒューエルは、自分の荷支度もせずにルーシャたちの引越しの手伝いをしていた。とは言っても、この家族の荷物は多くない。家には大切な家財類など一切なく、服も多くは持っていなかった。だが、ジェフは「荷物が少なくていい」と、笑っていた。
「服も食べ物もろくになくて嫌になったこともあったけど、まあ……父さんの言う通り余計な荷物がなくていいのかも」
 ルーシャが苦笑すると、ヒューエルは優しくルーシャの肩を叩いて言った。
「必要な物は向こうで揃えればいいさ」
「それもそうだね。ここにあるボロを大事にしたって仕方がないし」
 兄弟たちは自分の荷物が入った布袋を投げ合ってわいわい遊んでいたが、そこにロベルトの姿はなかった。ヒューエルが外へ出てみると、案の定鶏小屋の前に一人で立っていた。
「お前はここが恋しいか? 遠くへ行くのは嫌だろうか」
 ヒューエルが声をかけると、ロベルトは振り返って首を横に振った。
「いいえ。みんなが一緒なので寂しくありませんよ。ただ、この小屋を残して行くのはとても悲しいです」
「小屋なんて、また建てればいいさ。そうだろ?」
「でも、これは僕たちの思い出の小屋です。ピーターさんとここで過ごした思い出です」
 小屋になぞなんの感情も抱いていなかったヒューエルだったが、言われてみるとなんだか寂しい気もした。
「思い出、ねえ……。確かにお前の言う通り、この小屋はピーターがお前たちと過ごした証だ。だけど、今度はピーターではなくヒューエルと思い出を作るんじゃないのか?」
 ロベルトはヒューエルの顔を見上げ、ぱっと笑顔になった。
「そうですね。すみません、僕……。離れ離れになるわけじゃないのになんだか悲しくて……」
「故郷を離れるのは辛いことだ。だけど、後悔はさせない」
 ロベルトは黙って頷いた。ずっと暮らしてきた土地を離れるのには少し抵抗があったが、大好きな家族と一緒にいられるだけで幸せだと、ロベルトは思っていた。何より、世話になったジェフとルーシャに恩返しをしようと心に決めていたので、一生二人について行くつもりだった。
 荷物をまとめ終わると、早速ヒューエルは家族を連れて屋敷に戻って来た。パンドル伯爵は帰国の準備に追われて忙しそうだったが、家族を快く部屋に迎え入れてくれた。
「ようこそみなさん。話は王から聞いています」
 伯爵はルーシャを見て、恭しく礼をした。
「あなたがルーシャ様ですね。私はパンドルと申します。王のお目付役です」
「あ、えっと……」
 生まれて初めてこのような歓迎を受けたルーシャは、どうしてよいか分からずに困った顔でヒューエルを見た。
 だが、気の利く伯爵はその様子を見て、
「これは失礼。どうぞ普段通りになさってください。かしこまる必要はありませんよ。さあ、お掛けになってください」
と、全員に椅子をすすめた。
 ルーシャがほっと胸を撫で下ろす。
 伯爵とは、ルーシャを紹介するだけではなく、今後の話もしなければいけなかったので、兄弟たちは部屋の外で待たされることになった。
「あんたたち、うるさくしちゃ駄目だからね」
 一応ルーシャは兄弟たちに注意をしたが、ジョゼとロベルトがついているのでさほど心配はしなかった。それはジェフとヒューエルも同じらしく、二人は何も言わなかった。
 しかし、兄弟たちが出て行く前に、ジェフが口を開く。
「オレも堅苦しいのは苦手でね。あいつらと一緒に外で待たせてもらおうか」
 兄弟たちとジェフが出て行くと、伯爵が柔らかい口調で話し始めた。
「ルーシャ様。私はまだあなたに会ったばかりだが、なるほど……。王があなたを選んだ理由が分かります」
 伯爵の言葉に、ルーシャはきょとんとしていた。
「あなたは私が知っている農民とはどこか違う。ジェフ殿、あなたもそうだ。私は自分の考えを改めなければいけないのかもしれません」
 伯爵が話すのを、ヒューエルは何も言わずに黙って聞いている。
「私は最初、あなたがたを北の国へ連れて行くことに反対しました。ましてや結婚話など言語道断。王がなんと言おうと許すつもりはありませんでした。しかし、今お二人を目の前にして、王の判断は間違っていないと思わされました」
 ルーシャには伯爵がどうしてそんなことを言うのか理解できなかった。ヒューエルは構わないと言っても、自分たちは農民。身分の高い人々に邪慳にされることは覚悟の上であった。
「ルーシャ様、ジェフ殿。改めて、私はあなたたち二人を歓迎いたします」
 またもや恭しく礼をされ、慣れていないルーシャは慌てて自分も頭を下げて「ありがとうございます」と、言った。
「お顔をお上げください、ルーシャ様。あなたが私に礼をする必要はないのですよ」
 ルーシャは頬を真赤にして顔を上げたが、伯爵の優しい笑顔に安心感を抱いた。農民だということでもっと罵倒されると思っていただけに、伯爵の心遣いに救われた。
 すると、今まで黙っていたヒューエルが口を開いた。
「伯爵がそう言ってくれるなら、私から改めて言うことは何もない。感謝する」
「いえ……。城に戻ってからが勝負です。城の者たち全員にルーシャ様を王の妻だと認めさせなくてはなりません」
 それまで和やかな雰囲気だった部屋の空気が張り詰める。ルーシャはひどく緊張していた。
「国へ帰る道中、私がルーシャ様に必要最低限の作法をお教えいたします。それでだいぶ印象は違うと思いますが……」
「うむ……。それでも問題はたくさん残るな。だが、ここで考えてばかりいても仕方ないだろう。なんとかなる。心配するな」
 ヒューエルは励ますようにルーシャと伯爵にそう言った。楽観的と言ってしまえばそれまでだったが、ルーシャはその言葉にひどく安堵した。
 しかし、心配事が一つ。
「あ、あの……」
 今まで黙りこくっていたルーシャが伯爵に声をかける。
「はい。なんでしょう、ルーシャ様」
「あの……礼儀作法の勉強はき、厳しいんですか?」
 唐突な質問に伯爵は内心驚いたが、少し考えてからこう言った。
「まあ……多少は」
「そ、そうですか……」
 ルーシャがしょんぼりしてしまったので、見かねたヒューエルが口を挟む。
「だ、大丈夫だぞルーシャ。なんとかなる、なんとかなるさ」
 さっきの「なんとかなる」には救われた思いだったが、今のはルーシャを不安にさせた。なんとかなると思える根拠を教えてほしいと思わずにはいられなかった。
 しかし、ヒューエルについて行くと決めた以上、このくらいは覚悟の上であった。どんなに辛いことが待ち受けていたとしても、逃げるつもりはない。
 ルーシャの決意は周りの者が考えているよりも強かった。
 不安な顔をしていても、伯爵にはルーシャの強い思いが伝わっていたのかもしれない。
「ルーシャ様のご兄弟にも教育係が必要ですが、それは帰国してからふさわしい者にお願いすることにしましょう。慌ただしい屋敷ですが、出発までどうぞおくつろぎください。ヒューエル様はご自分の荷物をまとめてくださいね。数日後にはここを発つのですから」
 伯爵に言われ、ヒューエルは自分の荷支度が全く進んでいないことを思いだす。まるで出発間際のあの夜のようだった。
 やはり一人では荷物をまとめることができず、その夜、ルーシャが手伝いに部屋まで来てくれた。
 脱ぎ散らかしてある服やウォッカの瓶を片付けながら、呆れた様子でルーシャが言う。
「もうちょっとしっかりした人かと思ってたのに……。これとこれもたたんで……。あ、この瓶は捨ててちょうだい」
 ルーシャは無意味に床に並べられたウォッカの瓶を指差した。ヒューエルが瓶を片付けている間に、ルーシャはだいたいの荷物をトランクに詰め込んだ。
「ほら、できたよ。もう、来る時は自分でやったんじゃないの?」
「く、来る時はレフォルトがやってくれたんだ……」
「呆れた! じゃあ自分じゃ全然手をつけてないってわけ? レフォルトって人に任せっきりなの? その人はヒューエルの家来?」
「えーと……」
 一度に複数の質問を投げかけられ、ヒューエルはどれから答えるべきか悩んだ。すぐに答えられないでいると、ルーシャがそのまま言葉を続けた。
「でも、ヒューエルは王様だもんね。あたしは自分のことは自分でやるのが当然だと思って生きてきたけど、王様なら誰かにやってもらうのが当たり前……なの?」
 質問が増えてしまった。
 とりあえず、ヒューエルは今の質問に答える。
「ルーシャが普段している掃除や食事の用意、そういうことは全て周りの者がやってくれる」
「そうなんだ。ふーん……」
「あと、レフォルトは北の国の宰相だ」
「さいしょう?」
「私の仕事を手伝ってくれる人だよ。政治や軍事のことを一緒に考えてくれるんだ」
 ルーシャは納得したように頷いた。
「なるほどね。それで、ヒューエルはどうしてその人に荷支度を手伝ってもらうの? 宰相は王様の身の回りの世話もするの?」
「いや、それは……。レフォルトは私の幼馴染で、仕事以外にもいろいろ世話をしてくれるというか……」
 ヒューエルが答えに窮するのを見て、ルーシャは思わず笑い出してしまった。
「あはは! ま、仲がいいってことでしょ?」
 ヒューエルは幼馴染で宰相のレフォルトに身の回りの世話までやらせている。ルーシャにそう思われたのだが、決して間違いではないのでヒューエルは反論できなかった。
 これから妻になる人に笑われて情けない。
「好き好んであんたの世話を焼くなんて、レフォルトさんはとても優しい人なんだね」
 ヒューエルは答えず、ただ苦笑するばかりだった。
 これから向かう新しい国での新しい生活に、不安はあれどルーシャは大きな希望を抱いていたのであった。

「ジョゼお兄さん、もうすぐ出発ですね。グロムナートともお別れなんですね……」
 ルーシャが希望を胸に抱いている頃、弟たちは与えられた部屋でおとなしく出発の時を待っていた。さっきまで騒がしく遊んでいた三人の兄弟たちは寝静まり、ジョゼとロベルトだけが起きていた。
「お姉さんはヒューエルさんと結婚して女王様になるんですよね? 僕たち、向こうで上手くやっていけるんでしょうか。身分の高い人たちは、僕たちのことどう思うんだろう……」
 ロベルトが感じている不安は、ジョゼの不安でもあった。ヒューエルを信じて移住を決意したが、北の国で関わる人はもちろんヒューエルだけではない。ルーシャがヒューエルの妻になるとしても、身分の低い自分たちへの偏見は強いだろうと、ジョゼは考えていた。
 それはロベルトも同じで、先ほどから不安ばかりを口にしていた。
 落ち着かないロベルトと無理矢理額を合わせる。
「あんまり考えたって仕方ないですって? そうですけど……。やっぱり不安です。僕たちはずっと北の国で暮らすことになるんですから」
 ジョゼはもう一度、ロベルトと額を合わせる。
「なんとかなる……? お兄さん……」
 不安がるロベルトを安心させようと、ジョゼはいつものようににっこり笑って見せた。
 北の国へ行き、自分たちがどういう待遇を受けるか分からない。王の妻になるであろうルーシャですら、受け入れられるかどうか不安ではあるし、血の繋がっていない自分たちはなおさらその立場は危うい。
 ジョゼも、もちろんロベルトもそのことは理解している。だが、行くと決めた以上もう後戻りはできない。ヒューエルを信じてついて行くしかなかった。
「なんとか……なりますよね」
 自分自身に言い聞かせるように、ロベルトは呟く。今はもう、何も考えずに眠ってしまいたかった。

 出発の日の朝、ルヴェル公爵がルーシャと弟たちのために馬車を二つ用意してくれた。小さな弟たちは馬に乗ることができないし、長旅になるのでルーシャの体調を案じての計らいであった。
「大きいー!」
 馬を見てはしゃぐイーヴ、アルド、ラッセを馬車に乗せ、三人の世話をロベルトに頼む。
「チビたちをお願いねロベルト。何かあったらすぐに御車に言うんだよ」
「はい、お姉さん。大丈夫ですから心配しないでくださいね」
 ルーシャはヒューエルと伯爵と共にもう一つの馬車に乗り込む。ジェフは造船所仲間と一緒に馬に乗っていた。
 三人を乗せた馬車が動き出す。ルーシャは窓掛の間から外の景色を眺めた。もう、一生帰ってくることはないだろう。分かってはいたが、不思議と悲しい気持ちにはならなかった。
「ルーシャ、もっと楽にしていいんだぞ。長い旅になるのだから……」
 伯爵と向かい合わせに座っているので緊張しているルーシャの肩を、ヒューエルはばしばし叩いた。だが、体が大きい分、ヒューエルのほうが窮屈そうに見えた。
「ヒューエル様、女性の体をむやみに叩くものではありませんよ」
 伯爵が注意するも、ヒューエルはそれを笑い飛ばした。
「お前が怖いから、ルーシャがこんなに固まってしまうのだ。その緊張をほぐして何が悪い」
 ヒューエルの言葉に、ルーシャはあたふたして伯爵に言った。
「そ、そ、そういうわけじゃ……」
 ルーシャは焦っていたが、伯爵は表情を変えずわざとらしく咳払いをした。
「ルーシャ様、気にせずともよいのですよ。王のいつもの悪ふざけです」
「悪ふざけとはなんだ。私はこの重苦しい雰囲気をだな……」
「はいはいはい。重苦しい雰囲気で悪かったですね」
 伯爵にしては珍しく、ヒューエルをしれっとあしらった。そのかわり、ルーシャの方に向き直り、柔らかい笑顔を見せた。
「ただ馬車に乗っているだけでは退屈でしょうから、私が北の国についていろいろお教えしましょう。礼儀作法もです」
 礼儀作法と聞いてルーシャの顔がさっと青ざめたが、伯爵は優しい口調で続けた。
「心配せずとも大丈夫ですよ。初めは立ち振る舞いと言葉遣いを少しずつ直していくだけですから。よろしいですね?」
「は、はい」
 ルーシャが頷くと、伯爵はまた笑顔になった。さっきまでの重苦しい雰囲気はどこかへいってしまったようだ。
 伯爵はルーシャに、北の国の歴史や文化などについて話して聞かせた。ルーシャはその話に興味津々だったが、ヒューエルにとっては非常に退屈だった。それでも耳を傾けていると、レフォルトと一緒に勉強をした日々を思い出す。
 元気にしているだろうか。
 そんなことを考えているうちにうとうとして、意欲的に学ぼうとするルーシャの隣で居眠りをしていた。そんな日が何週間も続いた。
 昼間は馬車の中で、夜は夜営で、ルーシャは伯爵に礼儀作法を教わった。いつかヒューエルがやらされたダンスの練習もしていて、夜な夜なヒューエルが練習に付き合っていた。
「え、ちょ、ちょっとなにこれ! あ、足を踏まないで」
「ルーシャのステップが遅いんだ。そのままだと足が絡まるぞ」
 ルーシャにとってダンスの練習は楽ではない。だが、ヒューエルは昔の自分を見ているようで、なんだか面白おかしかった。
 ヒューエルと二人きりになるとふと昔の口調に戻ることがあったが、伯爵の前ではかなりお上品な話し方もできるようになった。
「まだぎこちない部分はありますが、だいぶ王の妻らしくなってきました」
「そ、それはうれ……うれし……うれしゅうございます」
 ヒューエルがぷっと吹き出す。
「な、な、なんで笑うの?」
「だって、ルーシャおもしろ……」
「ヒューエルのばか!」
 ヒューエルが腹を抱えて笑い、ルーシャがその頬をつねる。呆れた様子でそれを見ていた伯爵だったが、あまり厳しくするより、この二人はこれでいいのかもしれないと思っていた。ただ、礼儀作法を教えるのは自分の役目だと自負していたので、これからも口うるさく言うつもりではあったが。
 国境を越え北の国へ入る頃、急激に寒さが厳しくなっていた。雪が積もり馬車での移動が困難になったので、ヒューエルたちは馬に乗り換え、寒さに耐えながら城を目指した。
 ヒューエルはジョゼを抱きかかえて馬に乗り、他の兄弟たちもそれぞれ団員の馬に便乗した。ルーシャはロベルトと一緒に馬に乗り、はぐれないようヒューエルの隣について移動していた。
「話には聞いていたけど、ここの冬は厳しいわね」
「ああ。だけどもうすぐ城だ。それまで頑張ってくれ」
 ヒューエルの腕の中で、ジョゼがぶるぶると震えていた。体全体をすっぽり覆うマントにくるまり、風から身を守っている。ロベルトも同じ状況らしく、さっきから一言も言葉を発しない。二人とも必死に寒さに耐えていた。
「ジョゼ……。もうすぐ温かいスープが飲めるからな」
 そう言ってヒューエルが頭を撫でると、こく、とジョゼは頷いた。
 そうして寒さに耐えること二週間、一行はようやく城に帰還することができた。
 グロムナートの城に比べれば、ここの城はとても小さく感じられたが、もともと城には縁のないルーシャ。中がどうなっているのが早く見てみたくて仕方なかった。
 ヒューエルと伯爵の後に続き、ルーシャと兄弟たちが城の中に入る。石畳の床が寒々しかったが、案内された広間には美しい絨毯が敷かれ、暖炉では焔が勢いよく燃え、さっきまでの寒さを忘れるほど暖かかった。
 部屋の中にはパンドル伯爵と同じくらいの年の男が一人いた。彼はルーシャたちを見て、礼をした。
「お帰りなさいませ。よくぞご無事で……」
「ダンゼン殿、出迎え感謝する」
 伯爵がダンゼンに歩み寄り、軽く抱擁した。
「留守の間、いろいろ面倒を任せて悪かったな。ありがとう」
 ヒューエルもダンゼンに礼をした。
「いえ、王が無事にお戻りになられたことが何よりです。そちらの方々は……?」
 ダンゼンがルーシャたちを見て首を傾げる。ルーシャはとっさにダンゼンの前へ出て、伯爵から習った通りに礼をした。
「ルーシャと申します。こちらは父と兄弟たちです」
「ルーシャとはグロムナートで出会った。結婚の約束をしている」
「結婚でございますか! それでは、ルーシャ様は王の妻になられるのですね」
 結婚の二文字に、当然ながらダンゼンは驚く。ついつい声も大きくなっていた。
 がしゃん、と広間の外で何かが壊れる音がした。
「何事だ」
 ヒューエルが扉を開けると、そこには茫然と立ち尽くすレフォルトの姿があった。ヒューエルの姿を見たレフォルトは慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません!」
 見ると、紅茶の入ったティーポットとティーカップが床で粉々に砕けていた。
 レフォルトはすぐさまそれを拾おうと、床に膝をついた。しかし、その腕をヒューエルが掴む。
「よせ、怪我をするぞ。誰かいないか? ここを片付けてくれ」
 ヒューエルが叫ぶとすぐに下僕がやってきて、床に散らばった破片を拾い集めていった。
「申し訳ございませんでした」
 謝り続けるレフォルト。ヒューエルは優しくレフォルトに言った。
「気にするな。それより……。久しぶりだな、レフォルト。元気だったか?」
「はい。ヒューエル様もお変わりなく……。お帰りなさいませ……。ずっとお待ち申し上げておりました」
 レフォルトが今にも泣きだしそうな顔をしているのは、久しぶりに会えた喜びからだと思っていた。ヒューエルは自分の大切な人を紹介しようと、レフォルトをルーシャと弟たちの目の前に連れて来た。
「この国の宰相、レフォルトだ。こっちはルーシャと弟たち。ルーシャとはグロムナートで出会ってな。結婚の約束をしているんだ」
 レフォルトはルーシャに礼をし、頭を下げたまま言った。
「王の妻となられる方の前で失礼を致しました。私は宰相ですが、王の身の周りの世話もしております。何か御用がある時は私に申し付けてくださいませ」
「レフォルト殿、お、お顔を上げてください」
 ルーシャのぎこちない敬語で、レフォルトが顔を上げる。容姿だけでなく、そのたたずまいまで全てが美しい宰相であった。
「積もる話もありますでしょう。私はお茶を淹れ直して参りますので、王とみなさまはここでお待ちください」
 レフォルトはもう一度ルーシャとヒューエルに礼をし、部屋を出て行った。
 その後ろ姿を見て、伯爵が言う。
「相変わらずよくできたご子息だ。私にもああいう息子がいれば幸せというものです」
「いえいえ。先ほどのご無礼といい、まだまだですよ」
 言いながら、ダンゼンは部屋にいる全員に椅子をすすめた。ヒューエルの隣にはルーシャ、そして弟たち。向かいには伯爵とダンゼンが座った。
 ヒューエルはダンゼンとグロムナートの土産話をしながら、レフォルトが紅茶を持って戻ってくるのを今か今かと待っていた。ルーシャにきちんとレフォルトを紹介したい。可愛い弟たちの名前も一人ずつ教えてあげたかった。
 レフォルトはきっと喜ぶはずだ。

 レフォルトは調理場に行き、新しいティーポットとティーカップを用意していた。さきほど割ってしまった物は、下僕に言って捨てずにそこ置いてある。
 美しい銀の盆の上で粉々になっていたのはレフォルトが一番気に入っていたティーセットだった。
「一年前、最後にヒューエル様と飲んだ紅茶……」
 思い出のティーセットが壊れてしまい、レフォルトの胸はちくちくと痛んだ。
 下僕には頼まず自分で湯を沸かし、待っている間に人数分のカップと茶葉を用意する。その手は少し震えていた。
 湯が沸くまでの間、ぼうっと火の傍に立っていた。思い出すのはあの頃の思い出。二人で暖炉の傍で本を読み、船を造った。
「変わらないでほしかった……何も……」
 レフォルトが呟く。
 沸いた湯を別のティーポットに入れ、銀の盆の上に置く。視界に映るのはこれから持って行く新しいティーセットではなく、壊れた方。
 レフォルトはそれを盆ごと床にぶちまけた。かろうじて原型をとどめていたティーカップが割れる。
「あ……」
 自分でしてしまったことを後悔し、破片を拾い集める。
 破片がレフォルトの指を傷つけ、血が流れる。その目からは涙が流れていた。
 このティーセットのように、積み重ねてきた時間と自分が粉々に砕けたような気がした。
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