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ラジエルの書第三十巻―北の国の王―  7

 石を運ぶ人がいた。
 鶏小屋の屋根を作っていたピーターがその人に声をかけた。
「そんな大きな石、運んで行って何に使うんだ?」
 その人は答えた。
「神殿を建てるのさ」
「神殿? 何のために?」
「我らが崇める神ゼウス様に新しい子が産まれてな。その子のために神殿を造れと、神託が下ったのさ」
 その人が笑顔で答えるのに反し、ピーターの表情は険しくなった。
「神殿が完成したら、あんたも参拝しに来なよ」
 その人はそう言って去って行く。
 ピーターは何も答えなかった。

 冬の訪れを告げるように、毎日冷たい風が吹いていた。
 太陽が気まぐれに顔を出した日も寒さは和らぐことはなくなっていた。
 外では動物の姿を見かけることも少なくなり、人間たちも家の中からあまり出てこなくなった。
 ただ一人、季節外れの麦わら帽子を被ったピーターだけは、毎日毎日鶏小屋を造っていた。
 冬になって間もなく、ピーターは鶏小屋を完成させた。
 誰よりも鶏小屋の完成を心待ちにしていたロベルトは、家族の中で一番喜んでいた。
「できたんですね! ピーターさんすごいです! ありがとうございます! ジョゼお兄さん、小屋が完成しましたよ!」
 他の弟たちの相手をしていたジョゼの腕を引っ張り、二人は新しい小屋を見に行った。
 ピーターはルーシャにも完成の報告をし、ジョゼとロベルトの後を追った。
 小屋の中に入るなり、ルーシャが歓声を上げる。
「ひろーい! ピーター、あんたいい仕事するじゃない」
「本当にすごいですよね。こんな立派な小屋を造ってもらえるとは思いませんでした」
 ロベルトがあまりにも褒めるので、ピーターは照れくさくなって頭を掻いた。
「お姉さん、早速鶏をこっちに移していいですか?」
「いいよ。あたしも手伝おうか?」
「僕とジョゼお兄さんでやるから大丈夫ですよ。さっさとやっちゃいますね」
 ロベルトとジョゼの邪魔にならないよう、ピーターとルーシャは鶏小屋から出た。
 二人は家へ戻らず、麦畑があった場所まで歩いた。どちらかがそうしようと言ったわけではないが、自然と足が麦畑へ向かったのだ。
 歩いている間二人は無言だったが、苦痛ではない。
 収穫の済んだ畑は何もなく、大地だけが広がっていた。
 服が汚れるのも気にせず、ルーシャが地面に腰を下ろす。
「ロベルトったらあんなに喜んで……。小屋が完成するの、一番楽しみにしてたもんね」
 ひとりごとのようにルーシャがぽつりと呟く。ピーターは何も答えない代わりに、ルーシャの隣に座った。
 しばらく沈黙の時間が流れ、今度はピーターが口を開いた。
「そろそろ造船所に戻ろうと思うんだ」
「えっ」
 ルーシャはピーターの顔を見たまま、言葉を発せなくなった。
「もう冬だし、私がここで手伝えることはあまりないだろう。だから、造船所に戻ってまた仕事をしようと思うんだ」
 何か返事をしなければと焦り、ルーシャは無理に笑顔を作って言った。
「そうだね。今度は造船所で頑張らないとね。今までこっちを手伝ってもらえてとても助かったよ」
行かないで。ずっとここにいてほしい。
 そんなこと言えるはずもなかった。ルーシャは笑顔を保つことができず、ピーターから目を逸らしじっと遠くを見つめた。
「時々、またここへ来てもいいか?」
「もちろん。チビたちも喜ぶよ……」
 また来ると、ピーターはそう言っているのに、ルーシャは素直に喜ぶことができなかった。
 ぱっと立ち上がり、ピーターに言う。
「さ、帰ろう」
 ルーシャは歩き出す。自分がどんな顔をしているのか分からない。ピーターの顔を見るのも怖かった。
 来た時と同じように、二人は無言で家までの道のりを歩いた。
本当は話したいことがたくさんあった。弟たちを連れて造船所の遊びに行くと言いたかった。しかし、ルーシャは自分の気持ちを悟られるのが怖かった。そして何より、拒絶されることを恐れた。
 ピーターは弟たちに簡単な挨拶をして街へ帰って行った。
 家の中はまた、ルーシャと弟たちだけになった。

 次の日からピーターは再び造船所で働き始めた。
 しかし、ようやく農民から離れたとパンドル伯爵が喜んだのは気に入らなかった。
 冬になっても造船所の仕事は減ることなく、毎日ピーターは汗まみれになって働いた。
 思ったよりも仕事が忙しく、ルーシャのもとへ行ける日はなかった。ジェフも相変わらず家に戻ることはなく、造船所にこもり続けていた。
 ピーターは船の設計図を手に入れたり、北の国へ連れて帰れそうな技術者を探したりと、他にもやらなければいけないことはたくさんあった。
 ジェフも国へ連れて帰りたい一人だったが、ルーシャたちのことを考えると簡単には言い出せなかった。だからといって伯爵に相談するわけにもいかず、ピーターは完全に行き詰っていたのだった。
 何も前進しないまま、それでもピーターは仕事だけは休まなかった。
 ある日の夜、ピーターが一人造船所に残っていると、ジェフが声をかけてきた。
「熱心なのはいいが、少し休まないとぶっ倒れるぞ」
 本を読んでいたピーターは顔を上げ苦笑した。
「覚えなければいけないことがたくさんあるし、試してみたこともあるんです」
「うちの連中はみんな働き者だが、お前には敵わないな」
 ジェフは笑いながらそう言って、ピーターが読んでいる本を覗き込んだ。
「こんな難しいもんを読むなんて、お前は物好きだな」
「昔は嫌いでした。でも、読んでみると本当にいろいろなことがよく分かるんです」
「そうかい。俺は字があんまり読めないから、難しいもんはごめんだね」
「あんまり……? じゃあ、少しは読めるんですか?」
 ピーターが意外なところに興味を示したので、ジェフは不思議そうな顔をした。
「まあ、他の農民よりは読めるが……」
「誰かに文字を教えてもらったんですか?」
 ピーターの質問攻めに、ジェフは肩をすくめた。
「そんなこと聞いてきたの、お前が初めてだぞ。ちょっと待て」
 ジェフは適当な椅子を持ってきて、ピーターの隣に座った。どうやら長い話が始まるようだ。
「お前はルーシャたちに良くしてくれたし、ここでも真面目に働いてくれている。だからまあ……お前には話してもいいだろう。俺が孤児を連れて来て育てているのは知っての通りだと思うが、そのきっかけになった話だ」
 ジェフはゆっくり、そして彼にしては珍しく言葉を選びながら話し始めた。
「あれは……そうだな、十五年前。ルーシャがまだ七歳の頃だ。一年前に女房が死んで、俺もルーシャも悲しみから抜け出せずにいたんだ。二人で毎日、葬式みたいな顔してたっけな。でも、働かなきゃ食っていけねえ。俺はその日の食いもんを手に入れるために、国境近くの森へ出かけた。あそこにはいい獲物がいてな。うまい肉でも食えば少しは元気がでるかもしれないなんて思っていた。だが、俺が見つけたのは食いもんになる動物じゃなく、人間の女だった。死んでるのかと思って声をかけたら生きていたんで、そのままうちへ連れて帰った。綺麗なドレスを着ていたから、どっかの貴族なんだろうけど、その女は俺ともルーシャとも口をきこうとしなかった。何があったのかは知らねえが、俺たちみたいな汚い農民とは口をききたくないのかと思って、始めはいい気分じゃなかったな。だけど、ルーシャのやつがいろいろ世話を焼いているうちに打ち解けたんだろう。ルーシャと楽しそうに喋るようになった。相変わらずなぜあの森に倒れていたのかだけは話そうとしなかったが、女……ルイーゼは俺とルーシャにいろいろなことを教えてくれた。文字もその一つなんだ。俺が今こうしてここで働いているのもルイーゼのおかげだ。ルイーゼが船について書いてあるその本を見せてくれなかったら俺は造船技術に興味を持つことはなかっただろうな」
 そう言ってジェフは、ピーターが山積みにしていた本の中から一冊の薄い本を取り出した。それは、ピーターがここへ来て一番初めに読んだ船についての本だった。
「うちに来てから数ヶ月経った頃、ルイーゼはよく体調を崩すようになった。一日中寝込むことも何度かあってな。その度にルーシャがつきっきりで看病してた。悪い病気じゃないかと思って医者を呼ぼうと思ったんだが金がなくて……。だけど、泣きじゃくるルーシャにルイーゼは言った。これは病気じゃないから心配しないで、と。そして俺にも言った。これからあなたに迷惑をかけてしまうけど許して欲しい、と。そう言って間もなく、ルイーゼは赤ん坊を産み落として死んだ。ルイーゼがふくよかな体型だったせいか、妊娠していたなんて、俺もルーシャも全く気が付かなかった。よく考えりゃ、森に倒れていた時……あの時もう、ルイーゼの腹ん中には赤ん坊がいたんだ。そんな体で無理しやがって……」
 ジェフは気づいてやれなかったことを後悔しているらしく、大きくため息をついた。
 しかし、またすぐに話の続きを始める。
「死ぬ間際にルイーゼが言ったんだ。子供はみんな幸せにならなきゃいけない。望まれ、祝福されて生まれてこなければならない。だけど世の中には幸せな子供ばかりではない。だから、子供たちが幸せになれるようにあなたが手助けしてあげて欲しいってな。ルイーゼはたくさんの子供に囲まれて暮らすのが夢だった。だけど、それももう今となっては叶わない。自分が産んだ赤ん坊も抱けずに死んだんだ。かわいそうじゃないか……。だから俺はルイーゼとの約束を守るため、彼女の夢を叶えるために街で孤児を見つけては引き取っていたんだ。ちなみに、ルイーゼが産んだのがジョゼだ。知っての通り、ジョゼは生まれた時から口がきけない。何が原因かは分からないんだ。そういえば、最近またルイーゼに似てきたな……。アルドとイーヴはよく似てるが、あいつらは双子じゃないぞ。連れて来たのも違う日だったからな。だけど背格好がよく似てて、ルーシャが面白がって同じ服なんか着せるからあんなことになったんだ。ラッセは街で捨てられていたのをルーシャが拾ってきたんだ。だけど、一番酷かったのはロベルトだな……」
「ロベルトも捨てられていたところを?」
「いや、ロベルトは奴隷商人に連れて行かれそうなところを造船所の仲間と力を合わせて助けたんだ」
「奴隷……。もしや、ベルトキアの奴隷商人?」
「おお、そうだ、よく知ってるじゃないか」
 いつかレフォルトが教えてくれたのだ。海を渡って東の大陸に行くとベルトキアという国がある。その国では奴隷の売買が盛んで、女や子供も奴隷として売られていると聞いた。
 ピーターは人間を物のように扱う奴隷制度は悪だと思っていた。
「よっぽど酷い仕打ちをされたんだろうな。始めは喋ることもできなくて、ルーシャが優しく話しかけても怯えるばかりだった。恐怖で飯も食えず、餓死するんじゃないかと心配だった。体に触れられるのを極端に嫌がった。特に頭を撫でようとすると泣いて嫌がるんだ。あの様子からすると、いつも頭をぶたれていたに違いない。どうしようもないのかと途方に暮れていたのだが、ある日、ジョゼがロベルトと自分の額をくっつけて両手を握りしめていたのを見たんだ。その時のロベルトは、怯えても嫌がってもいなかった。ただ黙ってジョゼと額を合わせていたんだ。それからだな。ロベルトが言葉を取り戻して、よく笑うようになったのは……。全く、不思議なこともあるもんだ」
 ジェフは最後に一言こう言った。
「今の話、ルーシャたちにはしないでくれよ。思い出させるのはあまりよくないからな」
「もちろんです。私なんかにお話ししてくださってありがとうございます」
 ピーターが礼を言って軽く頭を下げると、ジェフはものすごく嫌そうな顔をした。
「よせよ。礼を言われる話じゃねえし、それに……ピーター、お前は人に頭を下げる立場の人間じゃないだろう?」
 ジェフの言葉に、ピーターはひどく驚き目を見開いた。そうだとも違うとも答えられない。答えれないピーターは、ジェフの言葉を肯定したようなものだった。
 しかし、ジェフはそれ以上何も追求しようとはしなかった。
 椅子から立ち上がり、本を片付け始める。
「ピーター、今日はもう遅いから帰って休みな。明日も仕事は山ほどあるぞ」
「あ……はい」
 ピーターは上着を腕に引っかけ、逃げるように造船所を出たのだった。

 帰り道、ピーターは一人の老人とすれ違った。辺りはもう暗く、互いの顔は見えなかった。
 老人はすれ違いざま、ピーターを呼び止めた。
「お若いの、どこへ行きなさる?」
 ピーターは振り返って答えた。
「家に帰るのだ」
 老人が言う。
「帰る前に、神殿でも見に行ったらどうだ? 完成するまでにはまだかかるだろうが」
 ピーターが答える。
「いや、遠慮しておく。私は神を信じていないのでね」
 老人が一歩、ピーターに近づいた。
「神を信じないなどと……。そんなことを言うものではないよ。すぐにゼウス様に謝りなさい。そうすれば赦してもらえる」
 老人の言葉をピーターは鼻で笑った。
「だから、私は神を信じていないのだ。母は信仰深い人だったが、神はその母の祈りを聞いてはくれなかったじゃないか。神など、どこにいるというのだ」
 暗くて表情が見えないにも関わらず、ピーターは老人が心底がっかりした様子なのが分かった。
 老人は言った。
「傲慢な小さき王よ。将来産まれてくるあなたの子は、愛すれど誰からも愛されず、その命の灯が消えることも許されないだろう」
 老人はそう言い残し、夜の闇へと消えていった。

 屋敷に戻ったピーターは自分の部屋へ戻らず、そのまま伯爵の部屋へ向かった。
 ジェフからあの話を聞いた時、ピーターは必ずルーシャと弟たちを国へ連れて帰ると決心した。そのために伯爵を説得しようというのだ。
「ピーター様、こんな時間までお疲れ様です」
 伯爵が笑顔で言う。いつもならすぐ椅子に腰かけるピーターだが、今は立ったまま微動だにしない。伯爵はすぐに何か大切な話があるのだと気づいた。
「何かお話があるのなら座ってください。その方が落ち着いて話ができます」
 伯爵に言われるまま、ピーターは椅子に座る。いつかのように向かいには伯爵が座った。
 テーブルには紅茶もウォッカもなかった。
「単刀直入に言う。ルーシャとその家族を国へ連れて帰りたい」
 伯爵は目を閉じ、しばらく何も言わなかった。ピーターの願いが言う通り単刀直入すぎて戸惑っているのかもしれなかった。
 そしてこれまたはっきりと返事をした。
「だめです」
「なぜだ!」
 ピーターがすかさず食って掛かると、伯爵は落ち着いた口調で言った。
「前にも言ったでしょう。農民と王が親しくするなど、本当ならあってはならないことなのです。あなたはいいと思っているかもしれません。しかし、それを見た周りの人間はどう思います? あなたのお気に入りのその農民だって、北の国で肩身の狭い思いをするに決まっています」
「私が守る。ルーシャとその家族は、私が責任を持って守る。肩身の狭い思いなどさせない」
「王のあなたが四六時中彼らの面倒を見るわけにはいきません。ましてや、国に連れて帰ったとしても城に住まわせることはできないのですよ。彼らは北の国でまた同じ農民生活をしなければいけないのです。それなら、ここにいるほうがまだましです。寒さに凍えることもありませんからね」
「いいや、ルーシャたちは私と一緒に城に住む。なぜなら……」
 ピーターは真っ直ぐ伯爵の目を見据えた。
「私はルーシャと結婚する」
「いい加減にしなさい!」
 だん、と伯爵が机を叩く。いつもは怒っても冷静な伯爵だが、この時ばかりは声を荒げ、怒りをあらわにした。
「王と農民が婚姻を結ぶなどあってはならないことだ。あなたにはもっとふさわしい身分の娘がいくらでもいるのですよ? 何を血迷って……の、農民の娘などと……」
 伯爵が怒るのは当然で、ピーターもそれは分かっていた。そして、伯爵がどんなに自分と、そして北の国の将来を考えてくれているかも。
 それでも、この件だけは譲れない。絶対にルーシャたちを連れて帰りたい。
「ピーター様……。そこまでして彼らを国へ連れて帰りたい理由はなんです? あなたは本当にその農民の娘を愛しているのですか?」
 ピーターは迷うことなく答えた。
「私はルーシャを愛している。その弟たちも同じように愛している」
 ジョゼとロベルトが聞いたらびっくり仰天しそうなほど、ピーターははっきりそう言った。
「私はルーシャを妻として迎えたいのだ。そして、理由はもう一つある」
 ピーターからもう一つの理由を聞いた伯爵は顔色を変えた。驚き、言葉が出ない様子だ。
「それは……。それが本当なら、連れて帰らないわけには……。しかし、あの人に伝えて良いものか……」
「あえて言う必要はないだろう。伯爵、このことは誰にも他言するな」
「……分かりました」
 伯爵は居住まいを正し、再び落ち着いた口調でピーターに言った。
「ピーター様、あなたは彼らに真実を伝えなければいけない時がきました。自分が王だと打ち明け、そして彼らに王としての自分も受け入れてもらわなければいけません。あなたが連れて行きたいと願っても、彼らが納得しなければ叶わないこと。全てを話す決心はしているのですね?」
 ピーターは黙って頷いた。
「彼らを国へ連れて帰り、そしてあなたが農民の娘と婚姻を結んだ時……その時どうなるか、私にも予想がつきません。一つ言えるのは、必ずあなたの行動に反発する者がいるということです。それでも、あなたは彼らを愛し、守り続けられますか?」
 もう一度、ピーターが頷く。
「分かりました。私はあなたの判断を信じます。ただし……」
 伯爵が言葉を続ける。
「国へ帰る前に、私もぜひ彼らに会ってみたいです。あなたが彼らに全てを話したその後で、この屋敷に連れて来てくれますね?」
「それはもちろんそのつもりだ。ルーシャたちが北の国に来ることによって救われる者もいる。私はきっと、みんなを連れて帰る。伯爵……感謝するぞ」
 伯爵は微笑し、そして首を横に振った。
「最終的に決めるのはいつもあなたです。私の役目はあなたに助言をすること。今までも、そしてこれからも変わりません。私はあなたのためだけにここにいます。近い先、あなたが家族を持たれたら、私はあなたと家族を守ります。あなたの愛する者を守ります」
 ピーターが農民を連れて帰ると言い出した時、伯爵はピーターが好奇心だけでそうしようとしているのだと考えた。身分のこともあるが、反対した大きな理由は、ピーターの好奇心の犠牲を増やしたくなかったからだ。
 だが、ピーターが本当に彼らのことを愛しているのなら、それを守るのが自分の役目だと伯爵は思ったのだ。
「さあ、もう遅いですし部屋に戻ってお休みください。私は明日以降から帰国の手配を始めます。実は、これを先に話しておきたかったのですが、レフォルト殿から手紙が届きました。内容は、隣国の動きが怪しいので、なるべく早く帰国して欲しいとのことです。攻めてくるのは時間の問題かもしれません。一週間後にはここを発てるよう、団員たちに指示を出します」
「それまでにルーシャたちを?」
「はい。なるべく早くお願いしますね」

 もうあまり時間がないとは思っていたが、まさかこんなに早く帰国することになるとは予想外だった。
 ピーターはまず造船所に行き、ジェフと話をすることにした。
 だが、ピーターに呼び出されたジェフはもっと予想外なことを口にした。
「なんだ? 国へ帰るのか?」
「そうだけど……って、なんでそれを……」
 ピーターが驚いていると、ジェフはにやにやしながら言った。
「お前と一緒にここで働いてた連中、しょっちゅうお前のことを王様だのなんだの言ってたからな。聞こえてないと思ってたみたいだったが、俺は地獄耳なんでね。全部聞こえてたってわけさ」
「ちなみにいつから知って……」
「あ? そうだなぁ。一ヶ月前くらい前かな」
 ピーターが王と知ってなお態度を変えないジェフは大物だ。
しかしピーターはそういう人は嫌いではなかった。
「なんだ。俺も敬語で話したほうがいいのか?」
「いや、そのままでいい。私も普段通り話すがいいか?」
「ああ、そりゃ構わないぜ」
 ピーターはジェフに、自分と一緒に北の国へ来てほしいこと、ルーシャと弟たちも一緒に連れて行くこと、ルーシャとの結婚を考えていることを全てジェフに話した。
 ジェフは考える間もなく、「いいぜ」と言った。
「ここに来た時からお前のことは気に入ってたし、ルーシャも喜ぶだろう。だけど、俺の意見だけじゃなく、あいつらの話も聞いてやってくれよ。あと……」
 ジェフは真剣な眼差しをピーターに向ける。
「ルーシャたちに言うなら、早い方がいい。できれば今すぐに行ってほしい。嫌な予感がする」
 その時、造船所が騒がしくなった。誰かが叫ぶ。
「おい、こら! 勝手に入ったら……」
 騒ぎのする方を見れば、小さな子供がこちらに走って来るではないか。
「ロベルト!」
 ピーターが駆け寄ると、ロベルトは息を切らせながら言った。
「ピーターさん! お、お父さん……。すぐに来てください。お姉さんが……!」
「ルーシャ……!」
 何が起こっているのかも聞かず、ピーターはロベルトをジェフに預け造船所を飛び出した。

 ルーシャの家の傍まで来ると、イーヴ、アルド、ラッセがピーターの姿を見つけて駆けて来た。
「ピーター! お姉ちゃんが」
「村の男が来て、お姉ちゃんに乱暴して……」
 ラッセは泣きじゃくり、ピーターの足にしがみついた。
「お前たちはここにいろ」
 三人を外に残し、ピーターは躊躇いもなく家の中に入った。
 見知らぬ男。必死に抵抗するルーシャ。倒れたまま動かないジョゼ。
 何が起こったのか説明されるまでもなく分かる。
「ピーター!」
 ルーシャが叫ぶ。
 ピーターは無理矢理男をルーシャから引き離し、その胸ぐらを掴んだ。
「私の大切なルーシャに……ジョゼに……。貴様なんということをしてくれた」
 自分よりも体の大きなピーターの出現に、男は大いに驚いた。しかし、男も必死に抵抗する。
「お、お前こそなんだ。急に現れたくせに、お前はルーシャのなんだって言うんだ。こっちは結婚だってする約束なんだぞ」
 ピーターがルーシャを見ると、ルーシャは激しくそれを否定した。
「嘘だ! あたしはそんな男と結婚なんてしたくない。ピーター……」
 いつも強気なルーシャの目に、うっすらと涙が光る。ピーターはこの男を思い切り殴り飛ばしたかった。しかし今の怒りをぶつければ、自分の腕力でこの男は死ぬだろう。それは避けなければいけない。ピーターの理性が右手の握り拳をかろうじて抑えていた。
 殴りたいのを必死に我慢し、ピーターは男を睨みつけた。
「私の名はヒューエル・ロマノフ。ここより遥か北にある国の王だ。ルーシャは貴様には渡さん。彼女は……いずれ北の国の女王となるべき人間だ」
「き、北の国……? 王……?」
 男は身動きできないまま目だけをきょろきょろと動かしていた。
 困惑しているのは男だけではない。ルーシャも言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
 ヒューエルは乱暴に男から手を離した。
「私が貴様を殴り殺す前にここから出て行け」
 男がもたもたしていると、我慢できなくなったピーターは男を家から放り出した。
「二度と来るな」
 ヒューエルが言い放つと、男はよろよろと去って行った。反論する気力は全くなかった。
 それを見た三人の弟たちは喜びながらヒューエルのもとへやってきた。
「ピーターすごい!」
「あいつ、もう来ない?」
「こ、怖かったよー」
 家の中ではジョゼが意識を取り戻していた。ルーシャがベッドまで運んだが、大事には至らなかった。
「あいつに殴られたのか?」
 ジョゼは頷いたが、すぐに笑顔になった。
「痛くなかったか? もう大丈夫だぞ」
 ヒューエルが頭を撫でると、ジョゼがぎゅっと抱き着いてきた。
 ルーシャを守ろうと一生懸命に戦ったのだろう。ヒューエルの胸で、ジョゼは少しだけ泣いていた。
「ルーシャ」
 ルーシャは複雑な表情をしていた。ヒューエルと視線を合わせるも、言葉が出てこなかった。
「ルーシャ聞いてくれ……」
「あ、あのねあたし……」
 二人が同時に話を切り出したので、思わずヒューエルは笑ってしまった。
「ルーシャからどうぞ」
「あ……えっと……」
 ルーシャは俯いた。
「あたしね、ピーターが最初ここへ来た時、仕事を手伝ってくれる便利な人が見つかってよかったって、それしか考えてなかった。でも、一緒に仕事したり、弟たちと遊んでいる姿を見ているうちに、ずっとここにいてくれたらいいなって思うようになったの。でも、ピーターは造船所に戻らなきゃいけないし、よその国から来たのは知ってたからいつかそこに帰るんだろうとも思った。でも……」
 ルーシャは両手で顔を覆いすすり泣いた。
「王様って……本当なの? ピーターは偉い人なの? あたしなんかじゃ手の届かない人なの? こんなに……こんなに好きになってしまったのに……!」
「ルーシャ……。ルーシャ、顔を上げて」
 ヒューエルはルーシャの手を取り、優しく微笑みかけた。
「私の本当の名前はヒューエル。北の国の王だ。この国へは、進んだ文化を学ぶために来た。今まで隠していてすまない」
 隣の部屋から兄弟たちもやって来て、ヒューエルの話を聞いていた。
「私はもうすぐ自分の国へ帰らなければいけない。だけど、私はこの国で大切なものを見つけた。ルーシャと、そして弟たち。お前たち家族だ。私はお前たちをここへ置いては行けない」
 ヒューエルはルーシャの頬を優しく撫で、その唇にキスをした。
「私と一緒に行こう、ルーシャ。私がお前たちを幸せにする」
「本当に……」
 ルーシャの声が震える。
「本当にいいの?」
 弟たちも真剣に二人を見守る中、ヒューエルは力強く頷いた。
「私の妻にふさわしいのはルーシャ。お前だけだ」
 戸惑うルーシャ。するとジョゼがルーシャの傍にやって来て、ピーターと同じように頷いて見せた。
「ジョゼ……」
 ルーシャは少し考えて、ヒューエルの手をもう一度握った。
「あたし……ヒューエルを信じる。あんたと一緒にいたいって思ってた。夢にまで見たの」
「ルーシャ……」
「連れてって。あたしと……そしてあたしの家族に新しい世界を見せて」
 兄弟たちが歓声を上げる中、ヒューエルとルーシャはきつく抱き合った。
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