Simple Site

ラジエルの書第三十巻―北の国の王―  2

 兵力は十分。食糧も武器もある。敵の軍勢は追い詰めた。あとは、持っている全ての力を使って敵を叩き潰すだけだ。
 ヒューエルが王になってから二年。今、北の国は領土拡大戦争の真っ最中であった。
「このままいけば勝ちは確定だな。これで不凍港は我が国のものだ」
 ヒューエルはすでに勝った気で、レフォルトにそう言った。
 北の国は寒さが厳しく、国にあるほとんどの港は凍りついていて使えない。だからヒューエルはどうしても不凍港が欲しく、近くの国に戦争を吹っかけていた。
 不凍港を手に入れたあかつきには、立派な軍艦と貿易船を造るのがヒューエルの夢だった。
 しかし、夜になって戦況が変わった。敵の援軍がヒューエルたちを挟み撃ちにするように進軍してくるというのだ。
「退却するなら今のうちです」
 レフォルトが言う。
「敵の援軍は数も多く、真っ向勝負で勝てるとは思えません」
「何を言うか」
 ヒューエルはどん、と卓を叩いた。
「ここまできて今さら退けるものか。第一、私はこういう場合を考えて、お前に敵の援軍が来ないよう足止めをしておけと命じたはずだぞ?」
「はい。私は命じられた通り、別働隊を使って敵の動きを封じていました。しかし、これには限界があるのです」
 ヒューエルが口を開きかけたが、レフォルトはそれを遮って言葉を続けた。
「このまま戦を続ければ、無駄に兵を失うことになります。それはあなたの望むところではないはずです。あと……私はこの戦で我が軍に絶対的に不足しているものを発見しました」
「……なんだ?」
「それは退却し、無事に城に戻ってから教えます」
「なっ……」
「当然です。こんな所で話しても、何の意味もありませんからね」
 ヒューエルは、目の前にあったお菓子を母親に取り上げられた気分になった。これがレフォルト以外の誰かだったら、容赦なく殴り飛ばしていたに違いない。気の短いヒューエルにこんなことをして許されるのは、レフォルトと母のナタリヤくらいだった。
 文句を言いたい気持ちを抑え、ヒューエルは言った。
「分かった。全軍に退却命令を出せ」
「はい、ヒューエル様」

 レフォルトの迅速な対応のおかげで、ヒューエルたちは被害を最小限に抑え、国へ帰還することができた。
 だが、不凍港は手に入れることはできなかった。ヒューエルの夢が叶うのはまた何年も先のことになってしまい、すっかり気落ちしてしまった。
「態勢を整え、もう一度攻めるか? いや、それとも……」
 ヒューエルは唸りながら部屋の中を行ったり来たりしていた。机には地図が広げられたままになっている。
 しばらくすると、レフォルトが部屋に入ってきた。両手には、銀でできた盆を持っている。
「失礼します。少し休憩しませんか?」
 盆に乗っていたのは、紅茶の入ったティーカップ。ヒューエルの大好物だ。
「紅茶か! 気が利くな」
 ヒューエルはとても喜び、ティーカップを手に取って側にある椅子に腰掛けた。
 にこにこしながら紅茶を飲むヒューエルを見て、レフォルトは笑いそうになった。ヒューエルは体が大きかったので、ティーカップが玩具のように小さく見えたのだ。
「ヒューエル様がお酒以外の飲み物を嬉しそうに飲むなんて珍しいですね」
「紅茶はいい香りがするからな。酒と同じくらい飲んでて楽しいぞ」
「それはよかった」
 ヒューエルは大の酒好きで、酔った勢いで『酔っ払い省』という訳の分からないものを作ったり、馬鹿騒ぎをしたりして、よくレフォルトを困らせることがあった。いつも今みたいにおとなしく紅茶を飲んでいればいいのに、と思うこともよくあった。
ちなみに、酔っ払い省には酔っ払い大臣や酔っ払い宰相などといろいろな地位があるが、ヒューエルはなぜか一番格下の酔っ払い神官に就任していた。恐らく、ヒューエル以上の酔っ払いがこの城の中にいたに違いない。
 レフォルトは盆を机に置こうとし、広げられた地図に気づいた。
「また戦をするつもりなのですか?」
「え? い、いや、そういうわけでは……。ただ、地理的にどこが一番攻めやすいか考えていただけで……」
 レフォルトは地図の横に盆を置き、自分はヒューエルと向かい合うように座った。
「この国には足りないものがある。私がそう言ったのを覚えていますね?」
「ああ。確か、城に帰ってきたら教えてくれる約束だったな」
「そうです。でも、もしかしたらご自分でお気づきになったのではないですか? 例えば、あれとか」
 そう言って、レフォルトは部屋の隅に置かれていた剣と鎧を指差した。
「製鉄技術……。確かにこの国の技術は褒められたものではないな」
「材料となる資源が豊富なのに、それに伴う技術がないのはもったいないことです。それと、もう一つは造船技術」
 レフォルトは地図の上に赤い石を置いた。そこは、この前の戦で手に入れようとした不凍港のある都市だった。地図上ではたいしたことのない距離に見える。だが、直線上にあるのは海だった。
「陸伝いでここへ行くには、かなり遠回りをしなくてはいけませんでした。そして、援軍に挟み撃ちにされるという危険もあります。短期間で戦が済めばよいのですが、なかなかそうもいきません。ですが、船なら……海路を使えばどうでしょうか。移動時間も大幅に短縮されますし、挟み撃ちの心配もありません」
「海……。船が要るぞ。それも軍艦だ。なるほどな……」
 ヒューエルはなんだかわくわくしてきた。レフォルトが言う不足しているものというのは、物質ではなく、技術のことだったのだ。
 造船技術と聞いて、ヒューエルは昔見たあの本のことを思い出した。確かそれに造り方も載っていたはずだ
「レフォルト、お前、まだあの本を持っているか?」
「ええ。でもあれは駄目です。今、外国ではもっと技術力の高い軍艦が使われています」
 つまり、あの本の船は時代遅れということだ。
「それなら……」
ヒューエルは緑色の石を地図の上に置いた。そして、好奇心に満ちた眼差しをレフォルトに向ける。
「見に行こう。そして、造り方を学べばいい!」
 ヒューエルが石を置いた場所。それは、今世界で一番文明の発展している国、グロムナート王国だった。レフォルトの故郷でもあるその国は、ヒューエルの憧れだったのだ。
「ヒューエル様が言うなら、私は反対しません。自国の発展を願うなら最善策でしょう。でも……」
「でも?」
「他の皆さんが賛成してくれるかどうかですね」
 ヒューエルが王になってからも、人々の外国に対する考え方はなかなか変わらなかった。さすがのヒューエルも、安易に外国人を居留地の外へ出すことはできなかった。
「なんとか説得してみるか。レフォルト、今夜皆を集めてくれ」
「分かりました」
 その晩、ヒューエルは晩餐会も兼ねて城にいる臣下と貴族たちを集めた。
 あらかじめレフォルトが、重大な報告があると言っていたにもかかわらず、彼らは目の前のご馳走を食べることに夢中だった。綺麗に盛り付けされた料理は見るも無惨に食い散らかされ、食事に使ったナイフで歯の掃除を始めた者が、一人ではなく何十人もいた。彼らは実に楽しそうである。
 いつものことなのだが、ヒューエルはそれを見て唖然とした。
自分ももともと行儀の良い方ではなかったが、王になってからは礼儀作法についてレフォルトに厳しく注意されてきた。今までろくに使うことのできなかったナイフとフォークの使い方を練習し、さらにこの国では踊る機会もないのに、ダンスまで練習させられた。
 王の自分が礼儀正しくすれば臣下たちもそれに習ってくれると思ったのは大きな間違いだったようだ。
 彼らがウォッカを飲んで馬鹿騒ぎを始めるのも時間の問題だ。ヒューエルはレフォルトに目配せをし、皆を黙らせるように指示した。
「皆さん静粛に!」
 レフォルトが立ち上がって手を叩くと、皆は食事を止めヒューエルに注目した。
「お前たち、もっと行儀良く食事ができないのか」
 相変わらずナイフとフォークを使うのが下手な自分が言うのもどうかと思ったが、ヒューエルは臣下たちに問いかけた。
 それに対し、臣下たちは皆きょとんとしていた。何を言われているのかわからない、といった様子である。
「俺たち行儀良くしてるよな?」
「してるしてる。王様! 俺たち行儀良くしてますよ」
 平然と抗議してきた彼らに、ヒューエルは呆れて物も言えなかった。どうやら彼らは行儀が良いという意味がよく分かってなかったようだ。
「お前たちのどこが、行儀が良いと言うんだ! だいたい、食事に使ったナイフで歯の掃除をする奴があるか! この飲んだくれのウォッカ野郎共め!」
 ヒューエルが怒って怒鳴ると、臣下たちはどっと笑い出した。
「そう言う王様だって、ウォッカ大好きじゃないか」
「俺らの王様は、酒飲ましたら世界一だぜ」
 全く説得力のないヒューエルの発言には、さすがのレフォルトも笑いを堪えきれなかった。
 そうして皆で肩を組んで「国王陛下万歳!」と歌いだしたので、ヒューエルはまたもや呆れてため息をついた。レフォルトは愉快そうにそれを見ていて、止めてくれる気配などなかった。
 ヒューエルは彼らを諌めようとしたが、まだ歌の途中だったので仕方なく終わるまで待っていた。
「国王陛下に乾杯!」
歌い終わると、彼らは手当たり次第にウォッカの瓶をあけていった。
「どさくさに紛れて勝手に乾杯をするんじゃない!」
「まあそう怒らずに、王様も一杯どうです?」
「え? じゃ、じゃあもらおうか」
 ヒューエルが臣下からウォッカの瓶を受け取った時、隣で見ていたレフォルトがもう一度手を叩いた。
「皆さん、そろそろよろしいですか? 今日は王から大事なお話があるんですよ。ヒューエル様、その瓶を開けたら許しませんよ」
 最後の方はヒューエルにだけ聞こえるような小さな声だった。ヒューエルは渋々瓶をテーブルの上に置いた。
「さ、ヒューエル様」
 レフォルトに促され、ヒューエルは立ち上がった。臣下たちは皆ウォッカを飲むのを止め、ヒューエルに注目している。行儀は悪いが、節度はあるらしかった。
 やっと本題に入れると安堵し、 ヒューエルはレフォルトにしたように、臣下たちにも好奇心に満ちた眼差しを向けた。
「我が国は長い間鎖国をし、そのせいで文明の発達が遅れてしまった。戦のやり方も、武器も、外国には通用しないのだ」
 さっきまで騒いでいたのが嘘のように、広間はしんと静まり返っていた。
「先の戦で負けたのもそれが原因。そこで、私はここに使節団を結成し、外国へ行こうと思う!」
 しかし、言い終わる頃には臣下たちの大半がヒューエルから視線をそらしていた。外国が大好きなヒューエルとは違い、彼らは外の世界に対してひどく閉鎖的だった。
 それでも、外国人であるレフォルトを宰相にすることを許してくれた彼らだったから、ヒューエルは必死に説得を試みた。
「外国には素晴らしい文化がたくさんある。それをお前たちにも知ってほしい。学んでほしいのだ。私は……私はこの国を豊かにしたい」
「ヒューエル様」
 ヒューエルの呼びかけに答えた者がいた。パンドル伯爵だ。伯爵はこの中で唯一礼儀を知っている人物だった。
「私はヒューエル様の意見を尊重します。この国は外国の文化を拒絶しすぎている。もっと寛容になるべきです。そうは思いませんか?」
 これに反論したのは、この城に先祖代々仕えてきたグレッツェオ男爵だ。
「よそ者が分かったような口をきくな。俺たちは俺たちの文化をずっと昔からここで築いてきた。無理に外国の文化を取り入れる必要はない」
 よそ者、という言葉に伯爵は眉をひそめた。男爵の言う通り、伯爵はもともとこの国の人間ではない。
 ヒューエルにいつも余計なことを教えるので、男爵は伯爵のことがあまり好きではなかった。
 伯爵はちら、と視線だけを男爵に向け、馬鹿にしたように言った。
「お言葉ですが、男爵。あなたこそ率先してこの計画に加わるべきです。あなたには貴族としての威厳、風格など何一つ備わっていないので、外国の社交界で勉強し直したらどうですか?」
「なんだと……」
 男爵は今にも拳を振り上げそうな剣幕で、伯爵を睨み付けた。
「ヒューエル様の前で見苦しい真似はよしなさい」
隣にいたレフォルトの父ダンゼンが男爵を叱咤した。
「あなたはこの国を滅ぼしたいのですか? そんなことはないはずです」
 ここぞとばかりに伯爵が言う。これだけ言われてしまえば、どうにも引き下がれなかった。
「くそったれ伯爵め! お前に言われなくても分かっている」
 男爵は右手の拳でテーブルを叩いた。
「決めたぞ。俺はヒューエル様と一緒に行く! もう昔に囚われるのはやめだ」
 男爵がそう宣言すると、他の貴族や臣下たちも次々に名乗りを上げた。伯爵の一言がよほど堪えたようだった。
「ところでヒューエル様。使節団はどこの国へ派遣するのですか?」
 一通り騒ぎが収まった後、伯爵が問うた。
「うむ。グロムナートがよいかと思っている。お前と……そしてここにいるレフォルトの故郷だ」
「グロムナートですか……分かりました。それで、まさかとは思いますがヒューエル様も行かれるのですか?」
「もちろんだ」
 ヒューエルの発言に、またもや臣下たちの間で騒ぎが起こった。
「王が国を留守にするなんて!」
「大丈夫なのか?」
「静かに!」
 レフォルトが声を張り上げた。
「ヒューエル様の留守は、この私がしっかりと守ります。しかし、このことはくれぐれも内密に。民に知れれば混乱が起きる可能性がありますから」
 他にも不満はあったかもしれないが、一応は納得してくれたようだった。ここまできて、ようやく具体的な計画を話すことができそうだった。
「皆が賛成してくれたこと、嬉しく思う。まずは率先して使節団に加えたいのは、職人たちだ。船を造る者からパンを作る者まで、国中から職人を集めるのだ。あとは医者だな。外国の進んだ医術を学べば、今まで治せなかった病も治せるかもしれん。あとは…」
 こうして出来た使節団は、国中から集めた職人、医者だけで百人を越した。他にも楽団員やら兵士を加えると、全部で三百人ほどになった。
 これだけの人数が寝泊りする場所があるかと議論になったが、パンドル伯爵の友人、ルヴェル公爵という貴族に頼めば何とかなるということだったので、計画は順調に進んでいった。
「それでは伯爵。そのルヴェル公爵に今すぐ使者を送ってくれ」
「かしこまりました」
 夜もふけた頃、ヒューエルとレフォルト、そして伯爵の三人は、部屋で最後の確認を終えた。ヒューエルは今すぐにでも出発したいと思っていた。
「レフォルト、留守番をさせることになってすまなかったな。本当は一緒に行きたかっただろう?」
「い、いえ……私は……」
 なぜか口ごもるレフォルト。すると伯爵が口を挟んできた。
「レフォルト殿は行けないのですよ。ではヒューエル様、私はこれにて失礼致します。出発の日にまたお会いしましょう」
「あ、ああ……」
 それだけ言って、伯爵は静かに部屋を出て行ってしまった。残されたレフォルトは、気まずそうに微笑んだ。
「どういうことだ、レフォルト。行けないなんて……」
「私が行けば、王のいなくなった国を支える者がいなくなります。そうなれば国中に大混乱が起きますし、今後の政にも響きます。だから行けないのですよ」
「そうじゃなくて……本当にそれだけなのか?」
「ええ、それだけです。では私もそろそろ失礼致します。おやすみなさい……」
 レフォルトは逃げるように部屋を出て行ってしまった。いや、あれは逃げたのだ。こういう時のレフォルトはとても頑固で、追いかけて捕まえても絶対に何も話してくれない。
 こうなれば奥の手だ。ヒューエルはレフォルトに見つからないようこっそりある所へ行った。
「ヒューエル様! どうしたんですか、こんな夜更けに」
「ちょっと聞きたいことがあって……。いいですか?」
 レフォルトの父ダンゼンは、驚きはしたが嫌な顔一つせず、ヒューエルを部屋に入れてくれた。レフォルトのことはダンゼンに聞くのが一番だ。
「ふうむ……。息子はグロムナートへ行くのを嫌がりましたか」
「自分が留守番をしないと駄目だと言って……。確かにそうですが、何か他にも理由がある気がして」
「そうですな……。きっと、あの時のことを忘れられないのかもしれません」
「あの時?」
「ええ。私たちがグロムナートを追われ、この国に逃げて来た時のことです」
 その話なら、ヒューエルはだいぶ昔にレフォルトから聞いたことがあった。
「確か、あなたが国王の怒りを買ってしまったと……」
「そうです。グロムナート王は戦が好きなお方でね。しょっちゅう隣国に手を出していました。そのやり方がまた残酷で……。とにかく殺戮を好む王は、味方だろうが敵だろうが殺せる者は皆殺します。それではあんまりだと思い、私は王に抗議しました。当然王は怒り、私たち一家は処刑されることになってしまったのです。ですが、黙って殺されるのは嫌でした。私は息子と妻を連れて国外へ逃亡することにしたのです。そして、この国でヒューエル様のお父上に助けられました。と、ここまでは聞いた話ですね?」
 ヒューエルは頷いた。
「問題は、この国に逃げて来るまでの間のことです。ヒューエル様には言うなと息子に言われていたのですが、もういいでしょう。お話します」
 ダンゼンはゆっくりと、言葉を選びながら話し始めた。
「私は、小さな馬車を使ってグロムナートから逃げ出すことにしました。大きなものではすぐに見つかってしまうと思ったからです。まず御者が乗り、妻、息子、そして私が乗りました。街を出たところまではよかったのですが、国境を越える前に王の追っ手に見つかってしまいました。御者は懸命に鞭を振るい、北へ北へと逃げました。しかし、なかなか追っ手を振り切ることができません。そのうちに、だんだん馬が疲れてきて馬車の速度が落ち始めました。少しでも負担を減らそうと、私は荷物を外に放り投げ、妻にもそうするよう言いました。すると妻は、私の腕から荷物を取り上げ、代わりにまだ三歳だった息子を抱かせました。何をするのだと聞く間もなく、妻は……馬車から飛び降りたのです」
 ダンゼンの目は、ヒューエルではなくどこか遠くを見ていた。きっと今でもその時のことを鮮明に思い出すことができるのであろう。
「妻のおかげで、私と息子は生きながらえた。けれども、彼女を亡くした悲しみは癒えることはありません。息子にはとても辛い思いをさせてしまった。母親が死ぬ瞬間など、見たくもなかっただろうに……」
「レフォルトはそんなこと一言も……」
「言わなかった? それは、あなたも同じ経験をしていたからでしょうね」
「同じ……」
 ヒューエルも幼い頃父を眼前で殺され、十年以上経った今でもその悪夢にうなされることがあった。言葉では到底表しきれないこの苦しみを、レフォルトも味わっていたのだ。
「辛いのは自分だけではない。息子はそのことをとてもよく分かっています。だから、ヒューエル様に余計な心配をかけさせまいとしたのではないでしょうか」
 そう言って苦笑したダンゼンの顔は、レフォルトが困った時に見せる顔によく似ていた。

 ダンゼンの部屋を後にしてから、ヒューエルはそのままレフォルトの部屋に向かった。ダンゼンの話を聞き、どうしても話がしたくなったのだ。
ノックをして部屋に入るとすぐ、ヒューエルはレフォルトに怒られた。
「ヒューエル様、上着はどこへ忘れてきたんです? そんな恰好で歩き回ったら風邪をひきまよ! この国に夏なんてないんですからねっ」
 ぶつぶつ言いながらレフォルトはチェストの中をあれこれ引っ掻き回したが、ヒューエルに貸せるほど大きい服などあるわけがない。なぜなら、レフォルトは普通の十八歳の男の子より小柄で、ヒューエルは普通の人間よりも大柄なのだから。
 仕方がないので、レフォルトはヒューエルのために紅茶を淹れてくれた。
「あ、ありがとう」
 ヒューエルが言うと、レフォルトはにっこり笑った。
「どういたしまして。さっき下僕にお湯を持ってきてもらった甲斐がありました」
 紅茶を一口飲み、ヒューエルは辺りを見渡した。
 レフォルトの部屋はいつ来ても綺麗だ。ヒューエルよりも部屋で仕事をすることが多いのに、物が散らかっているのは一度も見たことがない。少し前にヒューエルが作ってあげた本棚にはすでに、なんだかよくわからない書物がびっしり並べられている。レフォルトのことだから、ヒューエルには到底理解できそうにない難しい本を集めているのだろう。
 ヒューエルがそんなことを考えている間、レフォルトはずっと、落ち着かない様子でティーカップばかりいじっていた。
 時々ヒューエルの顔をちらりと見るが、すぐに視線をそらす。
 ヒューエルはしばらく気づかない振りをしていたのだが、我慢できなくなり、小さく笑いながら言った。
「お前、可愛いな」
 かたん、とレフォルトの手からティーカップが滑り落ちた。幸い、ティーカップにはもう一滴の紅茶も残ってはいなかった。
「な……な、な……」
 みるみるうちにレフォルトの顔が赤くなる。
「何を言ってるんですか! いくら私が小さいからってそんな……。お、お、怒りますよ!」
「もう怒ってるじゃないか」
 普段冷静なレフォルトがこんなに動揺する姿は滅多に見られない。面白がってヒューエルがさらにからかうと、レフォルトは本当に怒ってそっぽを向いてしまった。
「本当のことを言っただけなのに……。そう怒るなって。悪かったよ」
「まったく……。私をからかうためにわざわざ来たんですか?」
「うーん……まあ、そんなところだ」
「ヒューエル様……」
 レフォルトは呆れてため息をついた。
「あなたは本当に困った王様ですね」
 しかし、すぐにまたいつもの笑顔に戻る。
 そんなレフォルトを見ていたら、過去の話をする気にはなれなかった。
 変えられない過去を思い悩むより、大事なのは今この瞬間ではないのか。
 ヒューエルの脳裏にそんな考えが浮かんだ。
「そういえば、出発の準備はしなくていいのですか?」
「おお! 忘れるところだった」
 ヒューエルは慌てて立ち上がる。
「お前も手伝え、レフォルト。先に部屋で待ってるぞ」
「はい、ヒューエル様。すぐに行きます」
 レフォルトに手伝ってもらえば大丈夫。そんな安易な気持ちで言ったのだが、ヒューエルはまたもやレフォルトに怒られるはめになる。
 ヒューエルが荷物を入れようとしたトランクを見て、レフォルトが叫んだ。
「なんですかこのトランクは! こんなに仕切りばっかり作って……。ウォッカの瓶しか入らないじゃないですか!」
「こうすればたくさん入っていいかと思って……。うわっ!」
「ヒューエル様のばか!」
 レフォルトは手に持っていたヒューエルのシャツをくしゃくしゃに丸めて投げつけてきた。
「いっつもいっつもウォッカばっかり飲んで……。酔っ払いを介抱する人の身にもなってください。今度酔っ払ったら、縛り上げてネヴァ川に流しますからね!」
「そ、それだけは……」
 勘弁してくれ、と言っている間に、レフォルトはトランクの仕切りを全て撤去してしまった。
「あー……」
 ヒューエルが嘆いているのには一切構わず、ウォッカは一つ残らずトランクから出され、代わりにレフォルトが畳んだ綺麗な洋服が詰め込まれていった。
「はい、終わり!」
 レフォルトは半ば無理やりトランクの鍵をしめ、満足そうに微笑んだ。
「も、もう終わったのか?」
「ええ。どうせ他の荷物は下僕に持たせますから」
「そうか……。そのウォッ……」
 ヒューエルが瓶に伸ばしかけた手をぱし、とレフォルトが叩いた。
「これはパンドル伯爵に管理してもらいます。道中飲まれたらたまりませんからね」
 レフォルトは怒ってそう言ったのだが、ヒューエルはへへっと笑った。
「持って行ったら駄目だと言うと思った」
「私はそこまで酷いことはしません。ただ、あなたにきちんとしてもらいたいだけです。だいだいヒューエル様は……」
 またいつもの説教が始まった。レフォルトは、ヒューエルが聞いていようがいまいが、こうしてぶつぶつ小言を言うのが日課のようになってしまっていた。言うまでもなく、ヒューエルのせいだ。
 いつもなら適当に聞き流すのだが、今夜はちゃんと聞いてあげた。
「もう、ちゃんと聞いてるんですか?」
 このセリフもお決まりだ。
「ああ、聞いてるよ」
「本当に? ……まあ、いいですけど」
 言いながら、レフォルトはトランクに入りきらなかった洋服を片付け始めた。これも、一枚一枚丁寧に畳んでいく。
 物心ついた時から、何をするにもいつも二人でいた。離れるのはこれが初めて。
 そう思うと急に寂しくなった。
「なあ、レフォルト」
 ヒューエルが呼ぶと、レフォルトは顔を上げた。
「お前は……お前は私にとって、最高の友人だ」
「ヒューエル様……」
 レフォルトは驚いたようだったが、すぐにまた手を動かし始めた。
「何を言い出すかと思ったら……。さ、ヒューエル様も手伝ってください。早くしないと朝になりますよ」
 口ではそう言いながらも、レフォルトは少しだけ嬉しそうだった。
1←→3

TOP