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ラジエルの書第三十巻―北の国の王―  最終話

「炎が見えた! レフォルトの作戦は成功だ。みんな、行くぞ!」
 城に火の手が上がったのを見たヒューエルは、全軍を率いて都へ突入した。少しの攻防ののち都は北の国の兵士によって制圧された。敵の兵士は投降し、武器を捨てている。
 イーヴ、ジョゼ、ロベルトを連れ城へ向かう途中、見知らぬ男が馴れ馴れしく声をかけてきた。
「おーい、おーい! あんた、もしかしてヒューエル様か?」
「止まれ! 何者だ」
 イーヴが男を警戒し、腰の剣に手をかける。
「ま、待ってくれよ。オレは怪しいもんじゃない。隣国の投降兵を率いてるパーヴェルっていうんだ。レフォルト殿の伝令から聞いてるだろ?」
 男の名を聞いて、ヒューエルたちは警戒心を解いた。
「ああ、お前がパーヴェルか。レフォルトから話は聞いているぞ」
「よかった! このままそっちの坊やにぶった切られるかと思ったぜ」
 パーヴェルはわざとらしく額を拭う真似をした。
 初対面の、しかも一国の王に向かってなんて無礼な態度を取るのだと周りは思ったが、そんなところがヒューエルに似ていて憎めない。
 ヒューエルはパーヴェルを連れ、都の奥へと入って行く。破壊活動はしていないため、建物や人々への損傷は最小限に抑えられていた。これなら都市としての機能が回復するのにそう時間はかからないだろう。
 作戦通りに事が運び、ヒューエルは大変満足していた。
 そして、当然のごとくレフォルトの姿を探した。
「レフォルトとアルドはどこだ。一緒じゃないのか」
 ヒューエルに問われ、パーヴェルが首を横に振る。
「レフォルト殿はアルド殿と一緒に倉庫に火を点けに行って、オレたちとは別行動だった。多分、城の方へ行けば会えると思うが……」
「それでは城に向かうか。どうした、ジョゼ」
 ジョゼが指差す方を見ると、アルドと思われる人物がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。
 すぐさまロベルトが馬を降り、アルドに駆け寄った。他の四人もそれに続く。
 先に行ったロベルトが蒼白な顔で振り返る。ヒューエルは嫌な予感がした。ジョゼも同じらしく、二人は一瞬顔を見合わせた。
「ヒュ、ヒューエル様……。レフォルト殿が……」
 震える声でロベルトが言う。
 ヒューエルはアルドに抱かれたレフォルトの姿を見た。血まみれの甲冑、動かない体。それが何を意味しているのか、理解できない。
 言葉を失うヒューエル。アルドが口を開いた。
「お……俺のせいだ。俺が……俺が火を点けるのに手間取って……」
 アルドはレフォルトの体を抱いたまま、地面に崩れ落ちた。放心状態のアルドはその体を離そうとしなかった。
 ジョゼはアルドに抱かれたレフォルトに歩み寄り、そっと目を閉じた。
 だから……だから言ったじゃないか。
 ジョゼの心の中で悲しみと怒りが交差する。
 どうして死を選ぶようなことを……。
 開いた瞳から涙が溢れ、零れていった。
誰もこんなことは望んでいなかった。だから、ジョゼは止めたのだ。
 だが、今さら後悔しても遅かった。レフォルトはもう帰って来ない。
 レフォルトの死は瞬く間に兵士たちに伝わった。敵軍師と相討ちしたと聞いて、立派な最期だと思う者もいれば、レフォルトの死にただ心を痛める者もいた。
 それでもみんながレフォルトの死を受け入れようとする中、ヒューエルはただ茫然と立ち尽くしていた。アルドとロベルトがレフォルトの遺体を運ぶのを黙って見送り、その背中を見て、どさっと地面に膝をついた。ジョゼがヒューエルの体を支えようとしたが、無理だった。
 ヒューエルはジョゼを見て、震える声で言った。
「な……ぜ……?」
 ジョゼは眉を曇らせ、首を横に振った。ジョゼの言わんとすることはヒューエルには伝わらなかっただろう。
 ヒューエルは全身の力が抜けたように、地面に座り込んだ。
 倉庫の炎が鎮火に向かっていた。

 帰国するとすぐに、レフォルトの葬儀が行われることになった。
 レフォルトが戦死したことを聞き、北の国の城の者たちも嘆き悲しんだ。葬儀は手厚く行われることとなり、多くの者たちはその準備に追われることとなった。
 ジョゼから報告を受けたダンゼンは一瞬言葉を失ったが、自分を落ち着かせるように大きく息を吐いてから、静かに頷いた。その場にはロベルト、アルド、イーヴもいた。
「レフォルトは言っていました。この戦、どうしてもヒューエル様を勝たせたいと。それが長年の夢だったからです。そして、その夢は叶いました。レフォルトの死と引き換えにして……。しかし、彼にとっては本望でしょう」
 アルドが悲痛な目でダンゼンを見た。
「あなたの責任ではありませんよ、アルド殿。戦に死はつきもの……。そう言っては、冷たいでしょうか。あなた方もご兄弟を亡くされました。さぞ、お心を痛めたことでしょう。私は誰も責めるつもりはありません。レフォルトは自分の役目を全うしただけのことです」
 間をおいて、ダンゼンが再び口を開く。
「ですが……」
 ダンゼンは俯いた。
「やはり、悲しいですね。あの子は私の大切な息子でした。誰よりも忠誠心厚くヒューエル様にお仕えするあの子は、私の誇りでした。この戦が終われば、またヒューエル様やあなた方と一緒の生活に戻るものと思っていました。また、元気な姿を見せてくれるものとばかり思っていました」
 ダンゼンは笑みを崩さぬよう努力していたが、その目からは後から後から涙がこぼれ、止まることはなかった。
「ジョゼ……。あなたがここへ来て、ようやく家族が揃ったというのに……。私たちの幸せは、まだこれからも続くはずだったのに……。あの子は、死んでしまいました。もう、戻っては来ないのですね。あの子の笑顔を見ることも、ないのですね」
 ひとしきり涙を流した後、ダンゼンは兄弟たちの肩を抱いた。彼らもみんな、涙を堪えることができずにいた。
「泣くことを我慢することはありません。でも、みなさん。どうかあの子を見送る時は笑顔でいてください。あの子もきっとそれを望みます」
 それは無理な話かもしれない。ジョゼはそう思った。
 後悔しているのだ。自分も、アルドも、イーヴも。
 あの作戦を止められなかったこと、レフォルトに対して素直になれなかったこと、守れなかったこと……。その他にも、後悔していることはあるかもしれない。そんな状態なのに、笑顔で見送ることなんてできない。

 夜も更けたというのに、パンドル伯爵は城のバルコニーにいた。今夜は星がよく見えた。
 ヒューエルに会おうと思ったのだが、とてもそんな状態ではないらしい。ルーシャも自分の弟の死を悲しんでいたが、ヒューエルの方が心配な状況だと言う。
「惜しい人を亡くしたな……」
 それ以上の言葉が出てこない。
 伯爵はバルコニーの手すりにもたれかかり、星空を見上げた。
「あなたもこんなふうに星を見るのがお好きだったようですね。ダンゼン殿からお聞きしました。私も星は好きです。もっと早く知っていれば、いろいろお話したかった。でも、今となっては……」
 レフォルトの死は非常に残念で悲しいことだ。だが、伯爵は涙を流したくなかった。自分はレフォルトほどの存在ではないが、ヒューエルの傍に仕える者。ヒューエルが苦しい時、一番に支えなくてはいけない自分まで、深い悲しみの海に沈んでいくわけにはいかなかった。
 伯爵はグロムナート王国から帰って来た頃のことを思い出していた。
 レフォルトがヒューエルに持たせた正装。グロムナートでは時代遅れのデザインであったことを教えると、顔を真赤にして謝っていた。もちろん、伯爵はレフォルトが悪いことをしたなどとは微塵も思っていない。
「律儀に何度も謝っていたな、レフォルト殿は。あの後、お詫びと言って新しいデザインの服をヒューエル様に贈ったようだが」
 そう言って、伯爵は一人微笑んだ。レフォルトのいた日々が昨日のことのように思い出される。探せばまだこの城のどこかにいるような、そんな気がした。
「今さら言っても仕方のないことだが……。レフォルト殿、あなたの作戦は少し軽率でした。私なら、止めます。ヒューエル様はあなたを信用しているので止めはしないと思いますが、ジョゼ殿はあなたに何かしら意見したのではありませんか。それを押し切っての作戦実行だったのですか。もしそうなら、少々不確実な方法ですが、あなたは自ら死を選んだのでしょうか」
 問いかけたところで、答える者は誰もいない。伯爵はもう一度星空を見上げて、言った。
「私には、あなたの気持ちは分かりません。……分からないほうがいいですか? あなたが本当に心を許していた人間は誰なのでしょうね。誰なら、あなたの本当の気持ちを知っているのでしょう」
 いなくなってしまったレフォルトに伯爵は言った。
「あなたは苦しんでいましたね」
 夜風が伯爵の頬を撫でる。
満天の星が輝った。明日はきっと、晴れるだろう。

 伯爵が予想した通り、その日は快晴だった。しかし、城の中はどんよりとした空気が漂っている。葬儀場では喪服に身を包んだ人々が、先の戦で死んでいった兵士、斥候隊長のラッセ、そして宰相のレフォルトに別れを告げた。
 彼らと親交の深かった者たちが、その棺に花を入れていく。
 ジョゼはラッセの棺に花を入れた後、メディアを連れてレフォルトの棺の前へ行った。
 生前、レフォルトが好んで部屋に飾っていた白い花を棺に入れる。ジョゼに続いて、メディアもそっと花を入れた。メディアは泣いていない。いつもと同じ無表情だった。
 ジョゼはメディアの手を引いて席に戻る。ダンゼンとアルドが棺に花を入れる姿を見ていると、ふと、メディアが口を開いた。
「ジョゼ……。死ぬって、なに?」
 唐突な問いに、ジョゼはすぐに答えることができなかった。答えようにも、ここには紙も羽ペンもなかった。
「レフォルト殿は死んだの? 死ぬって、どういうこと? もうレフォルト殿と話せないの? 死んだらもう、会えないの?」
 それでも問い続ける彼女に、ジョゼはただ頷くことしかできなかった。
「そう、なの? よく分からない。人はみんな、いつかは死ぬの?」
 ジョゼは頷いた。
「そう……」
 メディアは問いかけるのをやめ、俯いた。
ジョゼがそっと彼女の顔を覗き込むと、泣いていた。メディアが感情をあらわにしたのは、あの一件以来初めてのことであった。
メディアはジョゼの胸に顔をうずめ、泣きながら言った。
「レフォルト殿、わたしの大切なお友達……。なぜいなくなってしまうのですか。わたしとジョゼを置いて……。わたしもそちらへいきたいです」
 気づけば、泣かないと決めていたジョゼの目からも涙がこぼれていた。メディアの気持ちは痛いほど分かったが、自分たちまで死ぬわけにはいかないと、諭すように首を横に振る。それを見ても、メディアは泣き続けていた。
「わたしもいつかは死にますか。レフォルト殿のところへいけますか」
 ジョゼは頷く。しかし、すぐに首を横に振った。
 でもそれは、今じゃない。
 ジョゼの唇がそう言った。
 二人が再び棺に目を戻すと、そこにはヒューエルの姿があった。花を持ったヒューエルの姿はいつもよりずっと小さく見えた。
 何も言わず、ヒューエルはレフォルトの棺の前に跪いた。そして、手にした花を棺の中に入れる。ヒューエルの態度にはどこか毅然としたものを感じた。その時までは。
 花を入れたその手で、ヒューエルはレフォルトの遺体に触れた。もうこれが最後だと信じられなかった。
 レフォルトはもういない。最後に残ったこの体も、もはやなんの意味もないのだ。
 レフォルトが死んだと聞いて、遺体を見た。しかし、ヒューエルは信じられなかった。実感できなかった。全てが嘘のようだった。しかし、今レフォルトの遺体に触れて、ようやくこれが現実なのだと理解できた。
 レフォルトは、死んだのだ。
 体の底から何かがどっと溢れ、それが涙となってヒューエルの頬を濡らした。涙が言葉を遮り、ヒューエルは嗚咽を漏らした。
「レ……レフォルト……」
 葬儀場がしんと静まり返る。
「なあ……レフォルト。私たちは、ついに、ついに不凍港を手に入れたぞ。これで、どこへでも行ける。どこへ行きたい? 何が見たい? なあ、レフォルト……。もう戦は終わった。これからは世界を見に行くぞ。一緒に……一緒に……」
 ダンゼンは思わずヒューエルから目を逸らす。堪えていた涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「今度は戦艦じゃなく、旅行用の大きな船をつくるぞ。もちろん、お前の部屋もあるぞ。海を眺めるのに飽きたら、部屋で紅茶を飲もう。なあ、レフォルト……。なぁ……」
 ヒューエルの声が小さくなる。
「淹れてくれるよな……一緒に飲んでくれるだろう? お前が好きな茶器を買おう。お前の好きな菓子も一緒に……。ジョゼとロベルトとアルドとイーヴとラッセ、それにルーシャも呼んで……。みんなで……もう一度みんなで……」
 そこまで言うと、ヒューエルはがっくりうなだれた。
 認めたくない。こんなの、認めない。
「な……んで……なんで返事をしない。何が不満だ。私はどうしたらいい? 私に何ができる? お前のために、私は何をしたらいい……?」
 何もかも遅かった。
 でも、認めたくない。認められない。
「レフォルト! なぜ死んだ。なぜ死んだんだ。お前は……お前は私の友人だろう? それなのに、私を一人にするのか。嫌だ。いかないでくれ。お前がいなくなったら、私は……私はどうやって生きていけばよいのだ……」
 ヒューエルの悲痛な叫びが、葬儀場に響き渡る。
「お前がいたから、私は……」
 遺体の傍を離れないヒューエルを無理やり押さえ、遺体は丁重に埋葬された。
 空は相変わらず快晴だったが、人々の、ヒューエルの心は晴れなかった。
 そして、ヒューエルの心には悲しみだけが残った。




 レフォルトの死からどれほどの月日が経とうとも、ヒューエルの心は悲しみに沈んだままだった。
 喪が明け、ダンゼンやルーシャたち兄弟はなんとか家族の死から立ち直ろうとしていたが、ヒューエルにはそれができなかった。
 城の者たちが普段の生活に戻り、普段通りの服装をしていても、ヒューエルはどうしても喪服を脱ぐことができなかった。
 喪服が脱げない。
 そうぽつりと呟いたヒューエルを、誰も責めることはできなかった。
 何をしていてもレフォルトのことを思い出す。思い出しては涙ぐみ、とても公務をすることはできなかった。
 そんな状態で三年が経ち、今はほぼ全ての公務をルーシャとジョゼが取り仕切っている状態であった。
 レフォルトが使っていた部屋はジョゼに与えられ、新しい宰相としてジョゼは毎日ここで公務に追われていた。
 忙しい日々が続く中、ある日ふと本棚の整理をしようと思い立ち、そこにある本を一冊ずつ開いてみた。
 政治の本、歴史の本、地理の本。どれもレフォルトが愛読していた物だ。
その下の棚にはレフォルトが書いた日誌がずらりと並んでいる。几帳面なレフォルトは、毎日行った公務の内容を事細かに記していたのだ。
日誌の棚を眺めていると、一冊だけ色の違う物が混じっていた。整理整頓が命のレフォルトが種類の違う本をここに置くはずがない。自分が間違えて置いてしまった物か? なぜ今まで気づかなかったのだろう。
そう思い、ジョゼはその本を手に取って何気なくページをめくった。
ジョゼは自分の目を疑った。
ああ……。
そして思わず天を仰いだ。
 様々な記憶が頭の中を駆け巡り、消えていった。自分は見てはいけないものを見てしまったのだ。
 そう思うも、その本から目が離せなかった。何度も何度も読み返す。
 どうして気づいてあげられなかったんだろう。いや、気づいたところで、何ができたんだ。何も……僕には何も……。
 これは他の誰にも知られてはならない。
 ジョゼはその本をそっと自分の机の引き出しにしまうことに決めた。ここなら、誰かが勝手に開けたり持ち去ったりする可能性はないはずだ。
 この本はジョゼに全てを教えてくれた。だが、知るのは自分一人だけでいい。自分に知られることすら望んでいなかったのだから。
 引き出しに本を入れ、鍵をかける。
 ジョゼは今見たものを忘れることにした。
 



 ヒューエルが悲しみに暮れて過ごす中、今年も水神祭の日が近づいていた。
 ヒューエルは水神などという得体の知れないものは大嫌いだったので、あまりこの行事に気乗りしていなかった。しかし、伝統的な祭であったのでやめるわけにもいかず、毎年適当に誰かを主催者にして好き勝手にやらせていた。そのおかげで伝統などどこへやら、今はただ酒を飲む祭と化していた。
 大好きな酒が飲める祭だというのに、レフォルトが死んでからヒューエルは一度も参加していなかった。
 ヒューエルに元気を取り戻してほしいと考えたルーシャは、無理矢理ヒューエルをこの祭に参加させることにした。
「せっかくお祭に行くんだからその服は脱いで、こっちを着たら?」
 ルーシャが私服を差し出すも、ヒューエルは見向きもしなかった。
「いや、いいんだ、このままで……」
 ルーシャは内心ため息をついたが、どうにか祭に参加させることだけはできたので、よしとすることにした。去年までは祭の話すら聞いてくれなかったのだから、重い腰を上げてくれただけでも進歩はあった。
「今年はウォッカ飲み放題だって。あなたが来るって聞いて、職人が張り切ったみたいね! 伯爵とジョゼとロベルトも一緒に行ってくれるみたいだから、楽しんで来てね」
「ああ……」
 部屋を出る間際、ヒューエルは振り返ってルーシャに言った。
「行ってくる。……ルーシャ、ありがとう」
 少しだが、ヒューエルが笑った。
「みんなと楽しんで来てね!」
 ルーシャに見送られ、部屋を出る。途中で伯爵とジョゼ、ロベルトと合流し、祭の会場へ向かう。そこは船の上だ。
 ヒューエルたちが船へ乗り込む頃には、すでにたくさんの人々が酒を酌み交わし、どんちゃん騒ぎをしていた。
「おう、やっと来たな! ルーシャからいろいろ聞いて心配してたんだぞ。今日は好きなだけ飲んで行けよ」
 船長のジェフはヒューエルの姿を見つけて嬉しそうにそう言い、間もなく船は港を離れた。
 みんなが楽しそうに酒を飲む輪に交じれず、ヒューエルは静かな甲板で海を眺めていた。
「ヒューエル様、飲みますか? たくさん持って来ました!」
 振り返ると、ジョゼとロベルトがウォッカの瓶をたくさん抱えてこちらへやって来る。後ろにいる伯爵は料理が山盛りになった皿を持っている。三人とも、ヒューエルが静かな場所でも楽しめるようにと気を使ってくれていた。
 テーブルがないのでヒューエルたちは直接甲板に座り、ロベルトが全員にウォッカの瓶を渡した。
「久しぶりだな……。今日は少し飲むか」
 ヒューエルはそう言い、ためらいなくウォッカをぐいっと飲んだ。
「ヒューエル様とお酒を飲むのは久しぶりです」
 伯爵も嬉しそうにウォッカに口をつける。もちろんロベルトもそれに続いた。
 おいしそうにウォッカを飲む三人を、ジョゼは困った顔で見回した。そして、覚悟を決めて自分もウォッカを口に含んだその瞬間。
「ぶっ!」
 舌が焼けるような感覚に耐えられず、ジョゼはウォッカを吹き出した。
「うわっ! ジョ、ジョゼお兄さん、大丈夫ですか!」
「ジョゼ殿、大丈夫ですか」
 ロベルトと伯爵がジョゼの方を見ると、ジョゼは蒼白な顔でヒューエルの方を見ていた。
 ジョゼの真正面にいたのはヒューエルだった。
「ジョゼ……」
 ヒューエルの顔はジョゼが吹き出したウォッカまみれになっている。ジョゼはポケットからハンカチを出してヒューエルに駆け寄った。
「ジョゼ……お前……」
 ハンカチを差し出そうとしたジョゼの手がちょっとだけ震える。怖くてヒューエルの顔が見られない。
 次の瞬間、ジョゼの体が宙に浮いた。
「この、いたずら坊主め! お前、ウォッカ飲めないのか!」
 ヒューエルは笑いながらジョゼを肩車していた。ジョゼはそのまま海へ投げ捨てられるかと思い、冷や冷やしていたが、ロベルトと伯爵は笑っていた。
「私の宰相なら、ウォッカくらい顔色変えずに飲んでみろ。レフォルトだってたくさん飲んでたんだぞ」
 レフォルト、という言葉がヒューエルの口から出てくるとは衝撃だった。伯爵もロベルトも一瞬どきっとしたが、ヒューエルは笑顔のままだった。
 肩車から解放されたジョゼは、ロベルトの腕をぐいぐい引っ張った。
「ヒューエル様、ジョゼお兄さんが……」
「なんだ」
「レフォルト殿は進んで飲んでたんじゃなく、ヒューエル様に無理矢理飲まされてたんだろって言ってます」
「ん? どうだったかなー。レフォルトはウォッカ、大好きだったと思うけどなー」
 ヒューエルがとぼけるように言うので、ジョゼもロベルトも笑いを堪えることができなかった。いつもの元気なヒューエルが戻って来て、二人ともとても嬉しかった。
「それにしても、ジョゼ殿がウォッカ苦手だったとは。無理せず言ってくださればよかったのに」
 そう言って伯爵が笑う。ジョゼはまたロベルトの腕を引っ張った。
「ウォッカよりワインが好き、だそうです」
「ワインか……」
 それを聞いていたヒューエルが呟く。
「この国でも、ワインは作れるだろうか。確かにワインは美味だった」
 ヒューエルはグロムナートでルーシャとワイン造りをしたことを思い出す。もしこの国でもワインが造れるようになれば、新たな特産品として売り出すことができるし、何よりヒューエル自身が飲みたかった。
「ルーシャ様に相談してみてはいかがでしょう。この国でも葡萄の木が育つよう、よい知恵を出してくださるかもしれません」
 伯爵が言う。
「僕もそれがいいと思います。お姉さんならいろいろ知っているだろうし」
 ジョゼも頷いた。
「そうだなあ……。帰ったら、ルーシャに相談してみるか」
 ヒューエルは船縁にもたれかかり、また海を眺めた。
 戦も終わったことだし、今度は農業にでも力を入れてみるか。そうだ、まだ行ったことのない場所がたくさんある。見たこともないものがたくさんある。
「いつまでも、悲しんでいるわけにはいかないな……」
 何よりレフォルトがそれを望まないだろう。ヒューエルは前に進まなければいけないのだ。
「大変だー!」
 その時、誰かが叫ぶ声がした。
「船員が海へ落ちたぞ。早く、ロープを!」
 船縁にはたくさんの人が集まって来て、今までとは違った騒がしさだ。ヒューエルにも海に転落した船員が見えていた。
 慌てて男たちが海へロープを投げ入れるも、転落した船員はそれを掴むことができない。
 ヒューエルは痺れを切らし、男たちに言った。
「ええい、それでは駄目だ! 私が行く!」
「そ、そんな、ヒューエル様! 危険です。やめてください」
「うるさい! 早くしないとあいつは波にさらわれてしまうぞ」
 ヒューエルは喪服を脱ぎ捨て、制止する男たちを振り切り海へ飛び込んだ。
 十一月の海の水は言うまでもなく冷たい。だが、その冷たさも感じぬほど、ヒューエルは必死だった。
 溺れる寸前の船員の体を掴み、そのまま泳いでロープの元へ。ヒューエルがロープを掴んだのを確認すると、男たちは急いでそれを引き上げた。
「早く港へ! 医者を呼びなさい」
 伯爵が指示し、船は港へと戻る。
 さすがのヒューエルも体力の消耗が激しく、自力で歩くことができなかった。ロベルトと伯爵に支えられ城に戻ったヒューエルは、その後酷い風邪を引いてしまった。
 熱が上がり声も出ず、毎日をベッドの上で過ごすことになってしまっていた。
 喉が痛くて食事もままならず、症状は悪化していくばかりであった。
「ヒューエル。辛いと思うけど、少し何か食べてね。そんな顔しないで。しばらくすれば治るわ」
 ルーシャの言葉に、ヒューエルは静かに頷いた。
これからは気持ちを入れ替えて生きようとした矢先の出来事は、ヒューエルから生きる気力をも奪っていった。
 いつまで経っても風邪は良くならず、ついにはこじらせて肺炎になってしまった。
 ヒューエルを心配し、部屋にはルーシャだけでなく、ジョゼやロベルト、そしてメディアも頻繁に来るようになった。メディアはジョゼについて来るだけで、ヒューエルに言葉をかけることはない。
 それは今日も同じだった。部屋にはルーシャ、ジョゼ、メディア、そして伯爵とダンゼンがいた。
「ヒューエル様、早く良くなってまた一緒に酒でも飲みましょう」
 伯爵が笑顔でヒューエルに言う。ヒューエルは弱弱しく頷くも、相変わらず言葉を発することができない。
 ヒューエルが物を言うことができなくても、みんなはいつも傍にいてくれた。
 メディアは黙って椅子に座り、窓の外を眺めている。雪がしんしんと降り続いていた。
 朦朧とする意識の中、ヒューエルの頭の中では、様々な記憶が走馬灯のように駆け巡っていた。みんなが傍にいてくれるにも拘らず、思い出すのはレフォルトのことばかりだった。
 初めて出会った日。一緒に本を読んだこと。戦争ごっこ。今まで二人で歩いてきた道のりは、長いものであった。
 それも、今日で終わるんだ。
 ヒューエルは死を覚悟した。もう、自分には生きる気力がなかった。
 ルーシャを愛している。ジョゼやロベルト、アルドもイーヴも大好きだ。伯爵と酒を飲みたいと思うし、ダンゼンとレフォルトの思い出話もしたい。
 だけど、無理なのだ。レフォルトがいなければ、自分の人生に意味など見出せない。
 世界旅行に行きたい。ワインを造りたい。もっと大きな船もつくりたい。しかし、レフォルトがいなければ何も始まらない。
 レフォルトが傍にいてくれるのが、当たり前だと思っていた。これからもずっとそうなのだと思っていた。
 だけど、もう取り戻すことができないなら……。それならいっそ、終わりにしよう。
 ヒューエルはふと、窓辺に佇むメディアを見た。その時、不思議な感覚を覚える。今まで感じたことのない感情。
 彼女を愛おしいと思った。自分の娘なのだと実感した。
「…………」
 メディアがヒューエルを見た。
 紫色の瞳が揺れた。
「お父様……」
 小さな声だったが、ヒューエルには聞こえていた。メディアはヒューエルのことを父と呼んだ。恨まれても仕方のないことばかりをしてきた自分を父と呼んだ。
 メディアに父と呼ばれ、何か呪いが解けたような気がした。そして、これで本当に自分は死ぬのだと思った。
 そうだ、この愛おしい娘に何か遺そう。最期に何か……。
 ヒューエルは筆談用に置いてあった紙と羽ペンに手を伸ばす。何か話したいことがあるのだと思ったルーシャは、それらをヒューエルに渡した。
 何を遺そう。
 ヒューエルは考える。
 自分が持っているもの。財産、王位、名声……。そのどれも違うような気がした。メディアが欲しいものは、金や地位ではないと思った。
 今さら、気づいた。
 ヒューエルの手から羽ペンが滑り落ちた。ルーシャがそれを拾いもう一度ヒューエルに持たせようとするが、すでに遅かった。
 ヒューエルは紙に何も書き残せないまま、ベッドの上で息を引き取った。
 レフォルトの死から三年。ヒューエル三十四歳の冬のことであった。



 ヒューエルの葬儀の日、棺に入れる花と一緒に、ジョゼの手にはあの本があった。
 その本を花と一緒に棺に入れる。
 隣にいたルーシャが、「それはなに?」と、聞いたが、ジョゼは首を横に振って答えなかった。ルーシャはそれ以上何も言わなかった。麦わら帽子を棺に入れようとしたが、その手が止まった。
 あの時、ヒューエルのために作ってあげた麦わら帽子。この国に帰ってきてからは使う機会はなかったが、ヒューエルはずっと大切にしてくれた。月日が経って、麦わら帽子はボロボロになっていたが、思い出は決して色褪せることはない。
「ヒューエル……。私、幸せだったよ。ありがとう……ありがとう、ヒューエル」
 この麦わら帽子を見ると、あの時のことを鮮明に思い出すことができる。ヒューエルの形見として手元に残したい気持ちもあったが、ルーシャは決心して麦わら帽子を棺の中に入れた。
 自分と弟たちと過ごした日々を、ヒューエルが忘れないように。そう願いを込めた。
 棺の傍で泣くルーシャの隣で、ジョゼは思う。
 これで、ずっと一緒だね。
 ジョゼは棺の傍に跪く。
 さようなら、ピーター。さようなら、ヒューエル様。お兄さんをよろしくね。
 泣かぬよう必死に我慢をしていたが、喪失感は大きかった。これから先の不安は多くあるが、ジョゼは二人の分まで生きなければいけないと思う。それが、自分が二人にできる唯一の恩返しだった。
 ジョゼはいつまでも泣き続けるルーシャの傍を離れなかった。離れられなかった。



「お父様、レフォルト殿。どうしてわたしを置いていってしまったのですか。わたしもそちらへいきたいです」
 メディアの手には短剣が握られている。部屋には一人。誰も止める者はいない。
「わたしもいきます」
 メディアは自分の喉を搔き切った。
 メディアは床に倒れ、絨毯には血だまりができた。
 苦しかった。苦しくて苦しくて、これで死ねると思った。
 しかし、メディアは死ねなかった。偶然部屋にやって来たジョゼが医者を呼び、迅速に手当をしたのだ。
 その後もメディアは何度も自殺を図った。
 首を吊ってみたり、高い所から飛び降りてみたり、とにかく思いつくことは何でもした。
 しかし、彼女は死ななかった。飛び降りたはいいが、打ちどころが良く足の骨を折っただけであったし、首を吊った状態で半日いたにも拘らず、息を吹き返してしまった。
 何度やっても、結果は同じであった。
 ジョゼに心配をかけるし、死ねないことが分かったメディアはその後二度と自殺を図ることはなくなった。
 メディアは毎日、父とレフォルトの墓を訪れていた。時には一日中そこを離れない日もあるほどであった。
 ある日、メディアは二人の墓に花を供え終わると、語りかけるように言った。
「お父様、レフォルト殿。わたしはそちらへいけませんでした。何度やってもだめでした」
 メディアは続ける。
「わたしがそちらへいけないのなら、二人を、もう一度ここへ……」
 この時メディアは決意をした。
「必ず生き返らせてみせます」
おわり
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