Simple Site

ラジエルの書第三十巻―北の国の王―  10

 ジョゼが持っているはずの証拠。ヒューエルはそれを入手すべく、兄弟たちのいる部屋へ急ぐ。城の廊下は静まり返っており、誰ともすれ違うことはなかった。
 急いでいたのでノックをするのも忘れ、ヒューエルはまるで乱入するように兄弟たちの部屋の扉を乱暴に開いた。
「ジョゼはいるか!」
 先ほどレフォルトに叱られた兄弟たちは意気消沈していたが、ヒューエルの姿を見ると、みんな嬉しそうに駆け寄って来た。
 しかし、遊んでいる場合ではなかったので、ヒューエルは他の兄弟たちを適当にあしらった。そして、ベッドの端に座っていたジョゼに小さな木箱を見せる。
「この中身を持っているな? どうしても今すぐ必要なんだ。少しの間、私に貸してはくれないか」
 木箱を見せられたジョゼは驚いて、心臓が止まる思いをした。その中身はつい先ほどレフォルトに渡してしまい、手元にはない。衝動的にしてしまったことだが、今さらそれを後悔した。まさかヒューエルが欲しがるとは思っていなかったのだ。
 持っていないものは仕方がないので、ジョゼは申し訳なさそうに首を横に振った。
「な、なんだと。ないのか! 失くしたのか! どこで失くしたんだ!」
 言いながら、ヒューエルはジョゼの肩を掴み前後に揺さぶった。怒っている、と言うよりは、慌てていると言った方が正しい。ヒューエルが手加減しないので、ジョゼはその衝撃に目を回しそうになった。
 一部始終を見ていたロベルトが二人の間に割って入り、ジョゼから事情を聞く。
 指輪はレフォルトに渡してしまった。
ロベルトからそう聞いたヒューエルの顔が青ざめるのを、二人は見逃さなかった。
 ジョゼは、何かとんでもないことをしてしまったようだ。
 今度こそ本当にヒューエルは怒り出すかもしれない。
 二人はそう感じたが、怒るどころかヒューエルは一人、慌てふためいた様子で何も言わずに再び部屋を飛び出して行ってしまった。
 自分はよほど悪いことをしてしまったのだと感じたジョゼは、ベッドの上にぱたりとうつ伏せに倒れた。
「ジョゼお兄さん……」
 ロベルトが心配してジョゼの肩に手を置いたが、それに反応する気力もなかった。
 何も考えずにあの指輪をレフォルトに渡してしまったことは後悔している。しかし、ジョゼは自分が間違ったことをしたとは思えなかった。

 ヒューエルはレフォルトの部屋へ行ってみたが、そこにレフォルトの姿はなかった。きっとダンゼンのもとへ向かったに違いない。
 真っ青になって廊下を駆けていると、偶然にもパンドル伯爵に出くわした。伯爵は急ぐヒューエルを呼び止める。
「そんなに慌てて、いかがなさいましたか」
「伯爵!」
 ヒューエルは伯爵の腕をがっちりと掴み、小さな声で耳打ちをした。
「ルイーゼの形見が見つかった」
「本当ですか!」
 周囲に人がいないのを確認し、伯爵も小声で返事をする。
「それさえあれば、円満な結婚式が……。それで、今持っているのですか?」
「いや……」
 ヒューエルが決まりの悪そうな顔をしたので、
「まさか失くし……!」
 と、ついつい声を荒げる。ヒューエルは慌てて伯爵の口をふさいだ。
「違う! 指輪はある。レフォルトが持っているんだ」
「レフォルト殿が? なぜ?」
「ジョゼが渡したらしい。今からダンゼン殿の所に行くから、一緒に来てくれ」
 半ばヒューエルに引きずられながら、伯爵もダンゼンのもとへ同行する。普通に歩きたかったが、ヒューエルがものすごい力で腕を掴むので、体勢を立て直すことができなかった。
 部屋の前まで来てようやく解放された伯爵が身なりを整えているうちに、ヒューエルはさっさと扉を開けて中に入って行ってしまった。
 予想した通り、そこには指輪を持ったレフォルトがいた。
「ヒューエル様……」
 レフォルトが指輪をヒューエルに向かって突き出した。
「母の……死んだ母の指輪です。なぜジョゼが持っているのですか。これは一体どういうことですか」
 ヒューエルを問い詰めるように迫るレフォルトを、背後にいたダンゼンがなだめる。
「よしなさい、レフォルト。全ては私からお前に話した。ヒューエル様を問い詰めてはいけない」
 しかし、レフォルトはヒューエルから視線を逸らさなかった。指輪を突き出したまま、ヒューエルの言葉を待っている。
 ヒューエルはジェフから聞いた話を、レフォルトにして聞かせた。ジェフがルイーゼを助けたこと、その後ジョゼを産んで死んだこと。指輪が見つかったことで、そのルイーゼは正真正銘レフォルトの母であることが判明したこと。
 全てをヒューエルの言葉で聞き、レフォルトは指輪を握りしめ力なく笑った。
「ジョゼが私の弟……? 赤の他人だと思っていた人たちが、私の家族……?」
 ヒューエルも伯爵も、レフォルトになんと声をかけてよいものか分からなかった。ジョゼが宰相の弟と分かれば、ルーシャの結婚が有利になることはレフォルトも当然気づいているだろう。しかし、それよりも自分に弟がいたという事実を受け入れるのが困難であるように思えた。
 しばらくの沈黙ののち、レフォルトはヒューエルに指輪を返して、礼をした。
「失礼をお許しください。ヒューエル様や父が仰る通り、これは母の物です。私は母がこの指輪をとても大切にしていたのを覚えています」
「隠すつもりはなかったのだが、こんな形でお前に真実を伝えることになってしまってすまない……」
「私は大丈夫です」
 ヒューエルの言葉を遮るように、レフォルトが言う。
「ヒューエル様はルーシャ様と何の問題もなく結婚できます。私には父以外の家族が見つかりました。こんなに喜ばしいことはありません」
 言いながら、レフォルトが笑顔を見せる。
「ヒューエル様、心から祝福いたします」
 その様子を見て、ようやく伯爵が口を開く。
「これでヒューエル様とルーシャ様のご結婚を正式に発表できます。さあ、これから準備で忙しくなりますよ」
 伯爵がそう言ってくれたおかげでさっきまでの重苦しい雰囲気は消え、話はヒューエルの結婚の話題で持ちきりになった。準備しなければならない物や式に招待する貴族の名前。やらなければいけないことはたくさんあった。
 だが、この部屋にいる人間で、レフォルトの複雑な心境を理解してくれる者はいなかった。突然現れた兄弟をすぐに受け入れることなど無理な話だった。
 だがレフォルトは一国の宰相であり、小さな子供ではない。この言葉では表しきれない感情を、誰かにぶつけることは許されない。
 自分の感情を押し殺しながら、レフォルトはこの話し合いに参加しなければいけなかった。
「招待状はどのくらい必要だ?」
 伯爵の言葉に、ダンゼンが答える。
「まだ何とも言えないが、確実に五百以上は必要だろう」
「そうか。では料理などは……」
 二人の会話を傍らで聞いていたヒューエルは料理にも招待客にも興味がなく、酒が飲めれば楽しいだろうなどと考えていた。そして、思い出したようにレフォルトに尋ねる。
「そう言えば、隣国の侵略はどうなった」
「最悪の場合全面戦争になるかと思いましたが、ヒューエル様が帰還したと知って尻尾を巻いて逃げて行きました。しばらく大きな動きはなさそうです」
 それを聞いたヒューエルはにやりと笑う。
「私の留守中に無断で踏み込んで来るとは、命知らずめ。レフォルト、攻めるぞ。準備をしておけ」
「しかしヒューエル様。今は結婚式の準備でみんな忙しくなりますが……」
「結婚式の準備に忙しいのは無駄に着飾る貴族だけだ。招待されぬ庶民には関係ない。武器を作らせ、戦の準備をさせろ」
「本当によろしいのですか? 招待されぬとはいえ、民にも祝福の宴を……」
 レフォルトが困ったようにそう言うと、ヒューエルはまたしても笑う。悪戯を思いついた子供のようだ。
「もちろん、ただ働きさせる気はない。精力的に働いた者にはありったけのウォッカと金をくれてやれ。つまらん式に招待するより、民にはそれが一番だ」
「承知しました。私にお任せを」
 二人の会話を聞いていた伯爵が、呆れたような口調で口を挟んできた。
「大切な結婚式の話をしているのに、戦ですか! ヒューエル様……。ルーシャ様のお気持ちも考えてください。自分との結婚よりも戦を重視するなど……」
「結婚式をしないで戦をするわけではない。それに、いつまた隣国が侵入して来るか分からないのだぞ。今から戦う準備をしておかなければ」
 ヒューエルは真剣だった。戦に勝つためにグロムナートまで行って様々な技術を学んだのだから、早急にその成果を上げるべきだと考えていたのだ。
「分かりました。私もレフォルト殿のお手伝いをしましょう。……結婚式のことも忘れないでくださいね」
「分かっている。今一番大切なのは結婚式だ。準備は任せたからな」
 伯爵とダンゼンが礼をする。
 ヒューエルに戦の準備を任されたレフォルトは、久々にヒューエルのために仕事ができると内心喜んでいた。
 ヒューエルのためだと考えれば、戦の準備も結婚式の準備も、どんなに忙しくても苦にはならないはずであった。

 ヒューエルとルーシャの結婚が正式に発表されると、すぐに国中が祝福の雰囲気に包まれた。結婚式当日まで民はルーシャの姿を見ることはできないが、人々はあの王の妻になる人はどんな人か、思い思いに想像を巡らせていた。
 その後すぐに戦の準備をするための労働力も集めたが、ありったけの酒と金がもらえるとあり、思ったよりもたくさんの労働者を得ることができた。反発も少なく、全てが順調であった。
 そんな中、レフォルトは兄弟たちを呼び出し、一人一人に教育係をつけて勉強をさせることにした。教養がなければ、この城で生きていくことはできない。
 アルド、イーヴ、ラッセには剣の師をつけた。ジョゼとロベルトにはレフォルト自ら文字や兵法を教えることにした。
 ジョゼと真正面から向き合うことにより、自分の何かが変わるかもしれない。レフォルトはそんな淡い期待を胸に抱いていたのだ。
 レフォルトがジョゼに言う。
「あの時なぜあなたが私に母の指輪を手渡したのか、それは分かりません。しかし、あなたのおかげで私は真実を知ることができました。まだあなたが私の弟だという実感はありません。しかし、私は私の持てる知識の全てをあなたに授けようと思います。それが兄である私の役目です。必死に学びなさい。必ずあなたの役に立つでしょう」
 兄弟という実感がないのは、ジョゼも同じだった。しかし、ジョゼもレフォルトと同じように、互いに心の距離を縮めようと思っていることは確かだった。そうでなければ、レフォルトはジョゼを遠ざけるはずだ。
 レフォルトのもとで学ぼう。
 ジョゼはそう心に決め、頷いて見せた。それを見たレフォルトが微笑む。初めて見た兄の笑顔だった。
「期待しています」
 そう言ってレフォルトがジョゼの肩を叩く。もちろん、隣にいるロベルトにもそうした。
「あなたたちはこの国の未来なのですよ。さあ、始めましょう。教えることは山ほどあります」
 ずっと畑仕事をしていたジョゼとロベルトにとって、自分で羽ペンを持ち、文字を書くことは初めての体験だった。
ロベルトが震える手で持つ羽ペンからインクがぽたりと落ちる。
「あっ」
 それを見たレフォルトが笑った。
「なにを慌てているのですか? ゆっくりでいいのですよ」
「は、はい……」
 ぎこちない笑みをレフォルトに返したロベルトは困惑していた。今のレフォルトの印象が、怒られた時とは全く違う。別人だ。あの時は怒っていたから仕方なかったのかと思うも、その変貌ぶりに驚きを隠せない。
 しかし、ジョゼの方はそんなことを気にする様子もなく黙々と手を動かしていた。自分もきちんと文字を覚えなければと、ロベルトも再び冷静になって机に向かう。
 きちんと勉強する姿勢を見せる二人に、レフォルトはさらに期待の言葉をかける。
「文字を覚えたら、次は本を読まなければいけませんね。歴史、政治、兵法……。他にもたくさんありますが、あなたたちなら大丈夫です。昔、ヒューエル様もこうして勉強をしたのですよ」
 レフォルトの言葉に重圧を感じながらも、二人はできるだけ早く文字を覚えようと努力していた。
 ジョゼの書く文字はだんだんと美しくなっていったが、ロベルトはなかなか上手く書くことができない。焦れば焦るほど、二人の差はひらいていった。
 そんなロベルトにレフォルトが言う。
「上達する早さには個人差がありますが、初めから上手くできる人なんていません。他人を見て焦るより、自分自身としっかり向き合って学びなさい。そうすれば自ずと上達します。他人と競うのはその後です」
 ロベルトはその言葉の意味をしっかり受け止め、泣きそうになりながらも文字の勉強を続けた。今は書くことが下手でも、続けていればきっと上手くなるはずだと信じた。
 城中が結婚式の準備で慌ただしくなったが、二人はずっと勉強を続けた。レフォルトが公務で忙しい昼間は、自分で文字を練習したり本を読んだりして過ごした。しかし、まだ完全に文字を覚えたわけではないので、歴史書のような難しい本は読めなかった。
 夜になると、公務を終えたレフォルトが、北の国の風習や歴史について話してくれる。
 ヒューエルが顔を見せた日もあったが、勉強とは関係のない話ばかりするのでレフォルトが怒ってしまい、勉強中は出入り禁止にされてしまった。
 他の兄弟たちは剣を学んでいたが、毎日厳しい訓練が続くので、夜はへとへとになってすぐに眠ってしまっていた。
 文字を覚えたジョゼは筆談ができるようになっていた。そのため、いつも紙と羽ペンを肌身離さず持っている。
 それらも持って真っ先にジョゼが向かったのは、ルーシャのいる部屋だった。ルーシャもジョゼやロベルトと同じように勉強していた。ルーシャの勉強は、立派な王妃になるための教養を身に着けるものだった。その中にはもちろん、文字を読み書きすることも含まれている。
 ジョゼは覚えたての文字を使い、紙に一言こう書いた。
結婚おめでとう。ルーシャお姉さん、大好きだよ
 ルーシャが一文字一文字声に出して読むと、ジョゼは恥ずかしそうに頬を真赤に染めた。
「ありがとうジョゼ。私もジョゼのこと大好きだよ。ありがとう……!」
 ルーシャは目にいっぱい涙をためて、ジョゼをぎゅーっと抱きしめた。言葉を使ってルーシャと意思疎通を図ったのは初めてのことであった。
 ルーシャに礼儀作法を教えるために部屋に来ていた伯爵が、ジョゼの書いた文字を見て感心した。
「文字の勉強を始めてからまだ日が浅いはずですが……。もうここまでできるようになりましたか。優秀ですね」
 伯爵に褒められ、ジョゼは照れ笑いをする。畑仕事と子守以外で褒められるのも悪くなかった。
 これからは自分の気持ちを文字にして伝えることができると思うと楽しかったし、何より教えてくれたレフォルトに感謝していた。
文字って便利ですね。教えてくれてありがとう
 ジョゼの書いた文を見てレフォルトが微笑む。
「これから、もっといろんなことを教えますよ」
 気づけば、二人は顔を見合わせて笑っていた。作り物の笑顔ではなく、本物だ。
 初めて会った時はあれだけ拒絶していたのに、弟だと分かった瞬間すぐに仲良くなれるものだろうか。
 レフォルトは考える。
 お互いがお互いに、何か通じるものがあったのかもしれない。それは、一目会っただけでは分からない。接してみて初めて分かる。それは、亡き母との絆のようなものでもあるのかもしれなかった。そうでなければ、ジョゼは指輪をレフォルトにあげることはしなかっただろう。
「しっかり勉強してくださいね。とても期待しているんですから」
 ジョゼが力強く頷く。その姿が、必死にダンゼンに教えを乞うていた頃の自分とぴたりと重なった。

「ルーシャ様、このドレスもよく似合っていますよ!」
「そ、そう? でも、こんなにたくさん作ってもらって……。いいのかしら」
「大切な結婚式ですから、ドレスも一番いい物を選びませんと! 遠慮なんてしなくていいんですよ」
 おしゃべりな侍女が鏡の前にいるルーシャのドレスを整えながら、嬉しそうにそう言った。今日はこれで五着目だ。
 結婚式で着るらしいドレスには細々とした装飾がされていたが、色はどれも茶や深緑などの地味な物ばかりだった。
 どのドレスも豪華で綺麗だったし、どれを着てもヒューエルは似合うと言ってくれた。だからルーシャはどのドレスで式に出てもいいと思っていた。
 今まで適当な布で作った服しか着たことがなかったので、ドレスは自分が着るにはもったいない物のように感じてさえいた。
「もうすぐ結婚式かー」
 鏡の中の自分に向かってルーシャは小さくつぶやいた。いまいち実感がわかない。この国に来てからは外に出ることもなく、ヒューエルや伯爵など、知った顔としか接していないせいもあった。
 自分の姿を見た北の国の民はどう感じるだろうか。
 それを思うと少し怖くなった。彼らは自分を受け入れてくれるだろうか。
 その不安を、礼儀作法を教えに来た伯爵に漏らす。伯爵は真剣にルーシャの話を聞いてくれた。
「私は貴族じゃない。もとは農民だから……。王妃にふさわしい教養も威厳もありません」
 ルーシャのこの言葉に、伯爵は静かに首を振った。
「今、この時は確かにそうかもしれません。ですが、あなたはそれを克服するためにこうして私と勉強をしているのではありませんか? ヒューエル様も、初めから王にふさわしいものを兼ね揃えていたわけではありません。たくさんの勉強と経験をしてきたのです。……まあ、無茶をすることもありますがね」
 最後の方に伯爵がぼそっとそう言ったので、思わずルーシャは笑みを浮かべる。
「その無茶のおかげで、私たち出会えました。ヒューエルはこれからもきっと無茶をすると思うけど、私が傍で支えてあげようって……そう思うんです」
 恥ずかしそうに言ったルーシャは頬を真赤にし、伯爵の反応を見ずに読みかけの本を手に取った。
 ぱらぱらとページをめくるルーシャに、伯爵は笑顔で頷いた。
 ああ、やはりこの人で間違いないと、伯爵は感じていた。
 伯爵自身、やはり王妃にふさわしいのはそれなりの身分を持った貴族の娘だと考えていた。それは北の国の貴族でも、グロムナートの貴族でも構わなかった。
 しかし、グロムナートで招待された舞踏会での様子を見て、ヒューエルにはおしとやかな貴族の娘は合わないのではないかと思ったのも事実であった。もっと活発で色々な物事に興味関心を示すような女性こそ、きっとヒューエルの探し求めている相手であろうと。
 そうしてヒューエルが連れて来たのがルーシャであるわけだが、農民の娘だと知っていい気分ではなかった。
 しかし、今では逆にそれで良かったと思えるようになっていた。ルーシャはヒューエルの身分や財産を目当てにして結婚するのではないし、何よりその人柄を大変気に入っていた。
 きっと、良き王妃になってくれるだろうと期待もしていた。
「ルーシャ様、勉強の続きを始めましょう」
「あ、はい!」
 お世辞にもまだまだおしとやかだとは言い難いが、ヒューエルもずいぶん大ざっぱな面があるので、これはこれで良いのかもしれない。庶民にはきっと親しまれるに違いない。
 勉強が終わり夜になると、ルーシャは一人部屋を出た。ヒューエルはまだ公務があるらしく、部屋には戻らない。こそこそする必要はないのだが、なんとなくルーシャは人気の少ない場所を通って城の中庭へ出た。かなり冷えるが、目的の場所まではそう遠くはない。中庭の向こうがそれだった。底の高い靴は履いていないので、雪道で滑る心配もない。
 ルーシャは早足で中庭を横切り、目的の場所である製鉄所の扉の前までやって来た。もう日が暮れたというのに、中からは鉄を打つ音が聞こえている。
 勇気を出して扉を開くと、むっとした熱気が辺りに立ち込めた。中では何人かの男たちが働いている。ルーシャはその中にジェフの姿を見つけた。
「父さん!」
 ルーシャは大きな声で父を呼んだが、鉄を打つ音にかき消され、ジェフは気づかない。仕方がないので、ドレスのまま製鉄所の奥へ足を踏み入れた。
 男たちがルーシャに気づき、驚いて頭を垂れる。
「父さん!」
 もう一度呼んで、ようやくジェフはルーシャに気がついた。
「なんだ、こんな所に来て……。もう夜だぞ」
「夜だから来たの! ねえ、外で話でもしない?」
「今手が離せないんだが……。まあ、いいか」
 ジェフは他の男たちに仕事を任せ、自分はルーシャと共に製鉄所の外へ出た。外はとても寒く立ち話ができる状態ではないので、ジェフは製鉄所で働く者たちが休憩に使っている部屋へルーシャを案内した。
 そこは汚い椅子とテーブルがあるだけの部屋だったが、ルーシャは嫌がる素振りも全く見せず、ジェフと同じように椅子に腰かけた。
「ヒューエルが戦の準備をしているのは知ってたけど、父さんまで製鉄所で働いていたのね!」
「ああ。まだ本格的に船を造る準備は整っていないって言うんで、まあ、製鉄所ででも働いて暇を潰そうと思ってな」
 城の中にはジェフのための豪華な部屋も用意されていたが、なぜかジェフはそこには帰らず、毎日労働者たちと寝食を共にしていた。ジェフらしいと言ってしまえばそれまでだったが、ルーシャは心配していた。
「製鉄所の仕事は大変なんでしょ? 父さん……。ねえ、無理に仕事をしなくったっていいのよ。船を造る準備ができるまで城でゆっくりしていても……」
「城でゆっくり本でも読めってか?」
 ジェフはルーシャが驚くほど豪快に笑って見せた。
「そんなの、俺には似合わねえ。俺は汗だくになって働いている方が好きだ。それに、ヒューエルの役にも立てるしな」
 ルーシャが黙っていると、ジェフは身を乗り出してルーシャの肩を優しく叩いた。
「別にこき使われてるわけじゃねえ。お前だってそんくらい分かってるだろ?」
「それは……分かっているけど……」
「だろ? それに、この仕事が済めば金と酒が手に入るんだぜ。ヒューエルが約束した。金が入ったらお前やチビたちに何かうまいもんでも……」
 そこまで言って、ジェフは口をつぐんだ。ルーシャの肩から手を離し、決まりが悪そうに椅子に座り直す。
「悪い……。お前は王妃だもんな。俺なんかの施しを受けなくても、十分……だよな」
 ジェフは気まずそうにルーシャから視線をそらしながら頭を掻いた。
「父さん……いつもそうだよね。調子いい時だけ、私たちにうまいもん食わせるとか言ってさ……。お金なくなったらまただんまりで。造船所にこもって出て来なかった。理解……できなかったよ、父さんのこと。でもね、父さんがそうやって一生懸命働いていたから、私たち飢え死にせずに生きてこられたんだよね。今なら少し分かるの。あの頃は自分のことで精一杯だったけど、今なら、分かるの……。父さん、ありがとう。私たちのために一生懸命働いてくれてありがとう。だから、少し休んだっていいんだよ」
 気づけば、ジェフはルーシャはきつく抱きしめていた。
「俺が良い父親じゃなかったから、お前にはたくさん苦労をかけたな。礼を言うのは俺の方だ。ルーシャ……ありがとな。これからはヒューエルと二人、幸せになるんだぞ。俺のことは心配するな。お前たちの力になれるよう、働くために来たんだからな」
 本当にジェフらしい。ルーシャはそう思わずにはいられなかった。それと同時に、結婚したら父が遠い存在になってしまうのではないかと感じていた。
「私、結婚したら父さんと会えなくなるのかな……?」
 ルーシャの問いに、ジェフは笑って答える。
「んなわけあるか。ヒューエルが俺に会いに行ったらだめとか、そんなことを言うと思っているのか? あの頭の固そうな伯爵も、そんなことは言わないだろ。それに、お前はあのヒューエルの嫁だぞ。少しくらい無茶しても、誰も不思議に思わねえ。堂々と抜け出して来い。俺はいつでも大歓迎だ。なんなら船を造るのを手伝ってくれたっていいんだぜ?」
 ジェフがあまりにも豪快な物言いをするので、ルーシャも笑わずにはいられなかった。
「そうだね。みんな一緒にいるもんね。父さんも、ジョゼもロベルトもアルドもイーヴもラッセも、みんな一緒! 私たち、家族だもん……」
 ルーシャは、自分の中にあった結婚への不安が消えたような気がした。
 結婚しても、父や兄弟たちは変わらず自分の家族なんだ。素直にそう思えたのだ。
「結婚式、もちろん見に来るでしょ?」
「そりゃお前、大事な一人娘を嫁にやるんだから見に行かないわけないだろ。でも、王様の結婚式だろ? 儀式とかめんどくさそうだなあ……」
「ちょっと、ヒューエルみたいなこと言わないでよ! とっても大事な式だから厳かにやるって伯爵も言ってたわよ」
 真面目にそう言うルーシャに、ジェフは悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「どうかな。相手はあのヒューエルだぞ。あいつが長々とした儀式に耐えられるとは思わねえけどな。この際、俺ら農民みたいに飲んだり食ったりの結婚式にすればいいんじゃねえか。その方があいつのためにもいいだろう」
 一人大笑いしながらそう言うジェフだったが、あながちそれは冗談ではなかった。
「うう……。確かにヒューエル、長い式典なんて嫌いだとか言ってたしなあ……。どうなっちゃうんだろ、私の結婚式。で、でも、さすがにそれはふざけ過ぎだよ父さん!」
 仮にも一国の王の結婚式だ。招待客もたくさん来る中で、さすがのヒューエルもおかしな真似はしないだろう。
 ……そう信じていた。

 ヒューエルやレフォルトが公務に追われている間に、結婚式当日はやってきた。戦の準備の方も忙しかったので、ヒューエルはルーシャと過ごす時間が少なかった。
 今さらそれを後悔しているのか、ヒューエルの衣装を持って部屋にやって来たレフォルトに言う。
「ルーシャ……結婚やめるって言ったらどうしよう」
 レフォルトはヒューエルの問いに笑って答える。
「ルーシャ様はそんなことで結婚を取りやめることはしませんよ。あなたがどういう立場の人間か、よく理解していらっしゃるはずです。そして、あなたが変わらずルーシャ様のことを愛していることも知っています。だからそんなことを心配する必要はありませんよ」
 レフォルトの優しい言葉に励まされ、ヒューエルは鏡の前で正装に着替える。今日のために特別に作られたものだった。
 ルーシャはどのドレスを選んだだろうか。ヒューエルはふと気になった。初めはヒューエルもドレス選びに参加していたが、途中で忙しくなり侍女たちに任せきりにしていたのだ。
「いいじゃないですか。ルーシャ様がどんなドレスを着てくるのか楽しみにとっておくのも。きっとどのドレスでもお綺麗でしょうね」
「そうだな。ルーシャなら、何を着ても似合うな」
 今日のヒューエルはやけに心配事が多いと、レフォルトは感じていた。
 それは無理のないことかもしれない。結婚という大きな節目を迎えるのだから、さすがのヒューエルも緊張しているに違いなかった。
 着替えを終えたヒューエルがレフォルトに言う。
「お前も一緒に来るんだよな?」
「はい。私は最初から最後まで、ヒューエル様のお傍にいますよ。何を心配しているのですか」
 レフォルトに笑われ、ヒューエルはちょっとむっとした。まるで子供扱いされているようだったのだ。しかし、それも間違いではない。レフォルトのほうがヒューエルよりずっと大人びていたのだから。
「なあ、レフォルト」
「なんですか?」
「私が結婚したら、次はお前の番だな。良い貴族の娘を紹介するぞ。ああ、なんなら伯爵にも頼んで……」
「ヒューエル様!」
 レフォルトがヒューエルの言葉を遮る。
「わ、私は……私はいいのです。結婚などできる身ではありません」
「何を言ってるんだ。お前こそ、良い娘を嫁にもらうべきだ。お前にはその資格が十分あるぞ。私の自慢の宰相だからな!」
 ヒューエルは得意げにそう言ったが、レフォルトは困ったような笑みを浮かべるだけだった。

 ヒューエルよりも一足先に、ルーシャは結婚式の行われる広間へ入って行った。広間はすでにたくさんの招待客でいっぱいだ。その中に、どう見ても場違いな父の姿を発見した。結婚式のための正装をしているが、なんだか似合っていない。その姿に、ルーシャは思わず笑ってしまいそうになったがなんとか堪え、真っ直ぐ前を見つめて歩き続ける。みっともない王妃だと思われたくなかった。
 広間は豪華に飾り立てられていた。中央には祭壇らしき物があるが、そこにいるのは神官ではなく、パンドル伯爵だった。ヒューエルが宗教嫌いなため、宗教的儀式は行われないようだった。
 ルーシャが伯爵の目の前までやって来ると、伯爵はにこやかに笑った。
「少しお待ちください。もうじきヒューエル様がいらっしゃいます」
「はい」
 初めてルーシャの姿を見た貴族たちは小さな声で話し始めた。
「あれがヒューエル様の……」
「話に聞いていたよりはお美しいお方ですね」
「宰相殿の弟の姉上だとか……」
 広間にそんな話声が響く。
 ルーシャは不安でいっぱいだったが、伯爵が励ますようにルーシャを見て頷いてくれた。
 しばらくすると、その話声がぴたりと止まった。背後で誰かがこちらに歩いて来る気配を感じる。
「ヒューエル様がいらっしゃいました」
 伯爵が小声でルーシャに伝える。
 貴族たちはみんな、ヒューエルに向かって頭を垂れた。ヒューエルの後ろには、付き添いのレフォルトがいた。
 ヒューエルはルーシャの隣に立つと、ルーシャの顔を見て微笑んだ。
「すまない、遅くなった」
 ヒューエルの顔を見てほっとしたルーシャは、何も答えず笑みだけを返した。
 深緑のドレスに身を包んだルーシャは、レフォルトの言う通り美しかった。
 二人が揃ったところを見計らい、伯爵はルーシャの方を向いて言った。
「それでは、誓いの儀式を始めます。ルーシャ様、あなたはヒューエル様を王として、夫として、一生愛することを誓いますか?」
「はい、誓います」
 ルーシャは迷いなく伯爵の問いに答え、誓いを立てた。
 そして伯爵はヒューエルに向き直り、言った。
「ヒューエル様、あなたはルーシャ様を王妃として、妻として、一生愛することを誓いますか?」
 ヒューエルはすぐには答えなかった。伯爵の目を見たまま微動だにしない。
ルーシャは不安になって、ヒューエルの顔を覗き込んだ。
 笑っている!
「この期に及んでそんなことを聞くのか。誓う決心がなければ結婚などしない!」
 広間がざわつき始める。
 伯爵は呆れた表情をしていたが、レフォルトと、そして遠くで見ていたジェフは笑った。
「今日からルーシャは私の妻だ。一生愛するとも。ここに誓いを立てよう!」
 言いながら、ヒューエルはルーシャを抱き上げ、祭壇を離れ貴族たちの前に立った。
「よく見ておけよ。これが私の美しい大切な妻だ」
 貴族たちはヒューエルの豪快な行動に驚きながらも祝福の拍手をくれた。しかし、ルーシャは恥ずかしくて顔を真赤にしたまま目をぱちくりしていた。
「さあお前たち、退屈な式は終わりだ。思う存分飲んで暴れるがいい! レフォルト!」
「はい、ヒューエル様」
「後を頼む」
「承知しました」
 レフォルトにそう言い残し、ヒューエルはルーシャを抱きかかえたまま広間を出て行く。
 無茶苦茶な行動を取るヒューエルだったが、貴族たちはそれを祝福と多少の笑いで見送ってくれた。
「ヒューエル様、ご結婚おめでとうございます!」
「後でウォッカ飲みましょうね」
「ルーシャ様、お幸せに」
 ルーシャは恥ずかしがりながらも、みんなの顔を見て手を振った。
 初めは怖いと思っていたが、こうして見ると、気の良いいい人たちだと思った。
 出て行く二人の背中を見て、伯爵がため息をつく。
「まさかとは思いましたが、本当にやってくれましたね。せっかく準備をしたというのに、数分経たないうちに終わってしまうとは」
「誓いの儀式の後にある、婚姻の儀式や祝福の儀式がよほど面倒だったのですね。確かに、長いだけで何の意味もありません」
 レフォルトは珍しく伯爵の前でくすくす笑った。レフォルトも面倒だと思っていた一人だった。
「あ、儀式はきちんと行うべきだと考えていますよ。でも、あの方がヒューエル様らしくていいと思いませんか?」
「まったく……。レフォルト殿はやはりいつでもヒューエル様の味方なのですね。いいでしょう。宴を始めましょう」
 宴の準備を手伝いながら、レフォルトは思う。
 ヒューエルが幸せになってくれれば、自分はそれで満足なのだと。

 結婚式を行っていた広間を出て城に戻ると、そこでは弟たちが待っていた。ヒューエルがルーシャを抱き下ろすと、ジョゼが真っ先にルーシャに抱きついた。
「おめでとうって言おうと思って、ぼくたちここで待ってたんです」
 ロベルトが一本の花をルーシャに差し出す。
「結婚おめでとうございます」
「ありがとう……ありがとうみんな」
 ロベルトがくれたのは造花だったが、ルーシャはそれでも十分すぎるほど嬉しかった。
「子供は式に出られないから、みんなここで待っていたんだ。せっかく弟たちが待っているのに、長い式になんて付き合ってられないだろ?」
 自分が面倒に思って式を抜け出したくせに、ヒューエルはそれを弟たちのためだと正当化した。
 いつもなら文句を言うところだが、今はそれよりも祝福されて嬉しい気持ちでいっぱいだった。
「もう、ヒューエルったらいつも都合いいことばっかりなんだから。でも、いいわ。今日は本当に良い日ね」
 こんなにたくさんの人に祝福してもらえる結婚ができるなんて、思ってもいなかった。
「ルーシャ、これから二人で良い国を作ろう。ずっと、ずっと一緒だよ」
 ヒューエルはルーシャの左手を取り、その薬指に指輪をはめた。
 ルーシャが嬉しくて泣き出すと、ヒューエルはそっと額と唇にキスをした。
「泣くなよルーシャ。私はお前を幸せにすると誓う。証人は、ここにいる弟たちだからな」
 ルーシャは一人一人の顔を見て、ありがとうと言った。
 これから巻き起こる波乱のことなど知らず、彼らは一時の幸福に浸るのだった。
9←→11

TOP