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聖獣の翼  1

 人間という生き物は、何か自分の力だけでは解決し難い問題に直面した時、神という存在に頼りたがる。
 今、アポロンの神殿までの道のりを一人歩く画家のシャセリオも例外ではなかった。シャセリオは自分の人生に落胆していた。
 誰にも話したことはなかったが、シャセリオには宮廷画家になるという夢があった。
 若い頃に良い師を見つけ、その人のもとで働きながら絵を描く日々を送っていた。シャセリオの絵は日に日にその知名度を上げ、仕事の依頼も増えていった。展覧会や品評会などにも数多くの作品を出展し、成功への第一歩だと思っていた。
 しかし、何年経っても宮廷画家の候補としてシャセリオの名が挙げられることはなかった。そしてシャセリオが二十六歳の時、最愛の師がこの世を去った。
 悲しみに暮れるも、師が残してくれた店と少しのお金のお陰で、シャセリオはなんとか生きていくことができていた。
 だが、シャセリオは自分が生きる意味を見失ってしまっていた。
神なら、自分の生きる道を示してくれるかもしれない。
そう願って家を出てきたのだが、もう、何もかもがどうでもよく思えてきた。この一月の寒空の下、凍え死んでもいいとさえ考えていた。
 それでも、神に自分の想いを訴えかけたいという気持ちだけが、シャセリオの足を動かしていた。
 祭壇の傍まで来ると、小さな男の子が地面に座り込んでしくしく泣いているのが見えた。
 思わぬ先客に驚き、シャセリオはすぐに声をかけることができなかった。その場に立ちつくし、茫然とその男の子を見つめる。
「お父さん、お母さん……。どこに行ったの……? アポロン様、お父さんとお母さんを返してください」
 泣きながら、男の子は何度も何度もそう言った。孤児だろうか。こんなに冷える夜なのに薄着だった。
 見て見ぬふりもできなくて、シャセリオは思い切って男の子に声をかけた。
「……寒くないかい?」
 ぴく、と小さな肩を震わせ男の子は振り返った。暗くてよく顔が見えない。シャセリオは男の子の首に、自分のマフラーを巻いてあげた。
「君は一人なの? お父さんとお母さんは?」
 男の子は目をこすりながら首を横に振った。
「えっと……。じゃあ、名前は? 君の名前」
「エ……エリオット」
「エリオット、だね。私はシャセリオ。行く所がなくて困っているのならうちへおいで。ね?」
 シャセリオは自分がここへ来た目的も忘れ、エリオットの小さな手を握りしめた。どのくらいここで泣いていたのだろうか。エリオットの手は氷のように冷たい。きっと足も、歩けないくらい冷たくなっているに違いなかった。
「ほら、私がおぶってあげるよ」
 シャセリオはエリオットを背負い、暗い夜道を街へ向かって歩き始めた。
「もうすぐ温かい所に行けるからね」
 家に着くまでの間、エリオットはシャセリオの背中で小さく震えていた。時々ぐずっと鼻をすすっていたが、泣いているわけではないようであった。
 家に着いて体が温まっても、エリオットは自分から喋ろうとしなかった。シャセリオが与えたパンを、目にいっぱい涙をためて食べただけだった。
 それでも温かい場所に来られて安心したのだろう。食べ終わるとすぐにエリオットは眠ってしまった。
 世の中には、こんなに可愛らしい子供でも平気で捨てていく親がいるのか。
 エリオットに毛布をかけてやりながら、シャセリオは思った。同時に、エリオットを助けてくれなかったアポロンへの怒りもこみ上げてきた。こんな小さな子供が懸命に祈っていたのだ。姿を見せてくれてもよいではないか。
 シャセリオはもう一度コートを羽織り、神殿へ向かった。アポロンに一言文句を言ってやるつもりだった。
 さっきよりも早足で祭壇の前まで行き、見えない神に向かって話し出す。
「私はずっと、あなたは慈悲深い神だと信じていました。でも、それは間違いだったようです。あんな小さな子供が必死に祈っていたのに、ほんの少しも憐れんでくださらなかったのですか?」
 アポロンが自分の前に姿を現すとは思っていないし、もしかしたら後から罰が与えられるかもしれない。それでもシャセリオは言葉を続けた。
「あなたはあの子を見殺しにしようとしたのですよ!」
「まあ、まあ、そんなに怒らないで。少し話をしないかい?」
 柔らかい声と共に、眩い光が辺りを包む。心臓が止まるかと思った。
「こんばんは、シャセリオ」
 声の主はまるで歌でも歌うように優雅にシャセリオに挨拶をした。
 太陽神アポロン。
 彼は噂通りの美男子だった。柔らかそうな金髪が風に揺れる。
 シャセリオは恐怖と感動が入り混じった感情を抑えるので精一杯だったが、なるべく毅然とした態度を装った。
「私に姿を見せてくださったのに、なぜあの子にはそうしてくださらなかったのですか。……あなたはただ、無礼な口をきいた私を罰しに来ただけなのですか?」
 アポロンは祭壇に腰かけ、持っていた竪琴を鳴らした。シャセリオの興奮を鎮めようとするかのようであった。
 しばらくすると、アポロンは竪琴を弾く手を止めた。
「落ち着け、シャセリオ。私はお前を罰したりなどしない。それと、あの子のことは助けてあげるつもりだった」
「それなら……」
「でも、君が来るのが見えたからやめたんだ」
「私が……?」
「そう。君がここへ来るのは、必然的なことだった」
 にっこり微笑んだアポロンとは反対に、シャセリオの表情は険しくなっていった。何か、自分の手には負えないことが起こり始めている。
「あなたが私を導いたのですか」
「それは違う。あいにく、私は人間の運命をどうこうする力は持っていないのでね。ただ、私には見えるのだよ……」
 そう言って目を閉じると、アポロンは再び竪琴を鳴らし始めた。この美しい旋律は、人間が同じように奏でられるものではなかった。
「一体あなたには何が見えると言うのですか」
 シャセリオは旋律を遮り、言った。だがアポロンは怒らなかった。
「見えるものは、たくさんある。例えば、君の生きてきた時間の流れや、これから行く先の未来、とかね」
「過去や未来を見ることが?」
「はっきりと見えるのは過去だけだ。変えることのできない、過ぎ去った過去……。未来は、そう……。ぼんやりとしか見えない。私に許されているのは、ほんの少しだけ見えた未来を君たちに教えてあげること。それが、アポロンの神託」
「神託……」
 アポロンに自分の全てが見透かされていると思うと、シャセリオはとても怖くなった。知らず知らずのうちに呼吸が荒くなる。
 しかし、アポロンの方は呑気であった。
「あ、そうだ。せっかくだから君にも神託を下してあげよう」
 ひょい、と祭壇から下り、シャセリオの傍にやってくる。まるで世間話でも始めるかのように、アポロンは勝手に話し出した。
「君は、今日ここで拾った子供のために大切なものを失くすだろう。だけど、何があってもその子の手を離してはいけないよ。その子には君が必要で、君にはその子が必要だ」
 訳が分からずシャセリオが目を丸くしていると、アポロンは優しく微笑んだ。
「大丈夫。君なら上手くやれる。私が言うんだから間違いない!」
 それだけ言うと、アポロンはシャセリオの返事も聞かずにさっさと姿を消した。再び辺りが闇に包まれる。
 一人残されたシャセリオは思う。神様とやらは結構無責任なのだと。神託だって決して縁起の良いものではない。
 でも……。
「今さら、失くすような大切なものなど……」
 誰もいなくなった祭壇に向かって一人呟く。
 アポロンの神託はどうであれ、シャセリオは小さなエリオットを養わなければならなくなったのだった。

「シャセリオさん! シャセリオさん!」
 小さな手が何度もシャセリオの体を揺さぶる。シャセリオはむくっと体を起こした。
 毛布にくるまって部屋の隅で寝ていたので、ひどく節々が痛んだ。
「どうしたんだい、エリオット。お腹が空いたのかい?」
 シャセリオがそう言うと、エリオットは怒ったように頬を膨らませた。
「違うよ! シャセリオさん、床で寝ちゃだめ。ベッドがあるでしょ?」
 エリオットがベッドを広く使えるようにと気を使ったつもりだったのだが、シャセリオはこの小さな住人に叱られてしまった。
 おかしくて声を出して笑うと、エリオットは困った顔をした。
「ごめんよ、エリオット。君がこんなに元気な子だとは思わなかったから……。もう床で寝ないって約束するから、それでいいかい?」
「うん!」
 昨日あんなに泣いていたのが嘘のように、今日のエリオットはとても元気だった。
 シャセリオが用意した朝食をたくさん食べ、可愛らしい笑顔を見せてくれた。
 少し落ち着いてきたところで、シャセリオはエリオットに尋ねる。
「君の家はどこ? お母さんとお父さんは?」
 エリオットは躊躇うことなく答える。
「僕の家はね、湖の近くにあるよ。お父さんとお母さんは……。分からない。どこか、遠くへ行ったみたい」
 遠くへ行ったというのは、どういうことだろうか。シャセリオがエリオットの言葉の意味を考えていると、急にエリオットが椅子から立ち上がる。
「ねえ、シャセリオさん。僕のうちへ来て」
 エリオットがしきりにシャセリオの腕を引っ張る。
 エリオットに連れられるまま、シャセリオは家を出て、街を出た。
 湖まではそう遠くない。街を出てすぐにある二つの分かれた道を右へ進むのだ。そうしてしばらく歩いて行くと、湖が見えてきた。
「こっち!」
 走り出したエリオットについて行くと、そこには小さな家があった。シャセリオとエリオットが家の中へ入る。そこには誰もいなかった。
「エリオット、君はずっとここに一人でいたの?」
「お父さんとお母さんがいなくなってからは、ずっとここにいたよ」
「どのくらい?」
「うーん……よく分からない。でも、ずっと一人だったよ」
 幼い子供の感覚では長い時間に感じられたのだろうが、食糧の問題などを考えると、エリオットの父と母がこの家を離れてからさほど時間が経っていないように思える。暖をとるための薪も十分にあったし、食べ物もある。
 シャセリオはエリオットの両親が帰って来る可能性が高いのではないかと考えた。もし生活が苦しくてエリオットを捨てたのだとしても、家まで捨てるのはおかしい。
 シャセリオは家の中を見回す。机やベッドなど、家具のほとんどは手作りだった。もしかしたらこの家も、エリオットの両親自ら建てたのかもしれない。
 そんなことを考えながら物色していると、シャセリオは一通の手紙のようなものを発見した。
 エリオットの目を盗み、その手紙開いた。
(これは、戦への招集命令だ……)
 場所などの詳しいことは何も書かれていない。ただ、戦地へ赴くようにとだけ書かれている。
 グロムナート王国や近隣諸国では今、戦は行われていない。グロムナートに限って言えば、近々戦を予定しているという話は聞いたことがない。しかし、エリオットの両親はこれを見てどこか戦地へ行った可能性が高かった。
 父親だけではなく、母親まで戦場へ向かったのだろうか。一体どんな事情があってそうしたのか、シャセリオには見当もつかなかった。
「ねえ、シャセリオさん」
「な、なんだい?」
 不意にエリオットに声を掛けられ、シャセリオは慌てて手紙をポケットにねじ込んだ。
「お父さんとお母さん、いつ帰って来るかな……」
 エリオットの問いかけに、シャセリオは言葉を詰まらせる。もしかしたら帰って来ないかもしれないなど、口が裂けても言えるわけがない。だからと言って、その場しのぎの誤魔化しを言ったところでエリオットは納得しないだろう。
 しばらく考えた後、シャセリオは言った。
「エリオット……。君のお父さんとお母さんは、遠くへ出掛けなければいけない用事があって……。いつ、帰って来るか分からないんだ」
「……え? 帰って来ないの?」
 シャセリオの話を聞き、エリオットは今にも泣き出しそうな表情で小さくそう言った。シャセリオはその質問に答えることができず、ただ黙ってエリオットを抱きしめた。そんなことしかエリオットにしてやれなかった。
 エリオットもそれを察したのかシャセリオの腕の中でじっとしていたが、やがてエリオットの涙でシャセリオの服の胸元が濡れた。
「君は一人ぼっちじゃない。私がいるよ。だから……一緒に帰ろう。君には新しい家があるじゃないか」
 この子は一生自分が面倒を見よう。
 この時、シャセリオはそう決意した。アポロンの神託を聞いたからではなく、自分の意志であった。
 家の中に残されていたエリオットの服や靴を持ち、二人は街へと戻った。
 エリオットはしばらくぼんやりしていたが、夕食の頃には少し元気を取り戻していた。
「ほら、エリオット。ミートパイだよ」
 竈から出てきた見たことのない食べ物に、エリオットは興味津々だった。フォークで生地を割ってみると、中には挽肉がぎっしりつまっていた。
「さあ、遠慮しないでお食べ」
「いただきます!」
 シャセリオはあまり裕福ではないから、肉なんて滅多に食べられるものではない。しかし、エリオットに何とか元気を出してもらいたい一心でミートパイを作った。
 エリオットはおいしそうにミートパイを頬張っていたが、シャセリオは一口食べて眉をひそめた。本物のミートパイを知っている人なら、お世辞にも美味しいとは言い難い。
 自分で作るんじゃなかったと後悔するも、夢中になって食べているエリオットを見るのは幸せだった。
 夕食の後ベッドに入ってから、エリオットは本を読んでくれとせがんできた。
 シャセリオは部屋にあった本棚を見てみたのだが、子供に読み聞かせるような童話は一つもなかった。仕方がないので、シャセリオは一冊の大きな本を取り出して来た。
「なあに、これ」
「開いてごらん」
 少し重たい表紙を持ち上げ、シャセリオと一緒に数枚ページをめくる。初めのほうは文字ばかりだった。難しくて読むことができず本から手を離しかけた時、エリオットの目に驚くべきものが飛び込んできた。
「ペガサス!」
「おお、エリオットはペガサスを知っているんだね」
 シャセリオがエリオットに見せたのは、昔から言い伝えられてきた伝説の生き物が挿絵つきで綴られた本だった。
 本来このような本はとても高価なのでシャセリオに買える代物ではない。この本も死んだ師匠の財産の一つであった。
 エリオットは目を輝かせながらペガサスの絵をまじまじと見つめている。
 馬の体に天使の羽がついたその生き物は、実際に存在したら、たいそう美しいだろう。
 シャセリオがそんなことを考えていると、エリオットがうきうきした声で言う。
「お父さんが、ペガサスは僕たちの友達だって言ってた」
「友達? へ、へえ……そうかい」
 あまりに突飛な発言だったので、シャセリオは困惑の表情を隠せない。それでも気にせずエリオットは続ける。
「うん! 速く走れるし空も飛べるし、お喋りもできるんだよ!」
 エリオットがあまりに無邪気にそう言うので、シャセリオはペガサスが架空の生き物だと言えなかった。しかし、子供のエリオットにわざわざ言うことではないと思い直し、話を合わせた。
「エリオットはペガサスを見たことがあるの?」
「あるよ! でも、僕はまだ小さいから乗ったらだめってお父さんが……」
 不思議な子だ、と、シャセリオは思った。子供は空想の中の生き物の存在を信じてしまうし、時にはまるでその生き物に会ったような話もする。しかし、エリオットがそれを言うと、全くのでたらめだとは思えなかった。
「エリオット……」
 気づくと、いつの間にかエリオットは寝息を立てて眠っていた。シャセリオは本を片付け、ロウソクの明かりを消す。
 師匠が死んでからずっと一人だったシャセリオは、エリオットが自分の心の拠り所であるような気がした。
 まだ出会ったから二日ほどしか経ってないのに、それはとても不思議な感情だった。
 なにもかもが不思議だ……。
 そう思うも、悪い気はしないのであった。
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